complex
mailto「現場」研究会について今月の「現場」研究会
archiveart scenepress reviewart reviewessaygenbaken reporttop

執筆者(50音順)

足立元
浦野依奴
大村益三
北澤憲昭
暮沢剛巳
提髪明男
中島水緒
西村智弘
福住廉
水野亮
森啓輔


art review 最新版

山本直彰《帰還 VII――我々は何処へ行くのか》
2010/3/30

羽山まり子「keep distance」
2009/9/4

「にんげんていいな」展
2009/7/24

倉重光則展
2009/6/3

どこかの何とか展
2009/4/22

「伊藤純代 秘め事」展
2009/4/16

吉川陽一郎展
2009/2/21

安 美子展
2009/2/10


art review 一覧

2007年10月10日
河原温 ?本?

本、といっても、ページを開いて中身を見ることもできない、閉じられたまま何も語りかけてくることのない本である。
図書館の閉架倉庫、あるいは客の目には触れない本屋の奥、滅多に陽を浴びることもなくそっとケースの中に大事に仕舞ってある稀覯本のような、あるいは誰かに売られたり買われたり読まれたりすることが目的でつくられたのではないような、不思議な重々しさ、それに神秘性すらも湛えた沈黙の本。世界のはじまりとともに白紙の上に言葉が書き込まれ、世界の終わりとともに一頁一頁が風化して消滅していく、人類の予言の書。
倉庫を改造した天井の高いギャラリー空間で、控え目に光を抑えた照明の下、展示台の上に並べられているのは河原温の本形式のコンセプチュアル・アート、《I Met》、《I Went》、そして《One Million Years》のシリーズである。
《I Met》と《I Went》のシリーズはそれぞれA5サイズほどの12冊組の本で、どちらもシンプルな直方体のケースにおさめたかたちで展示台の上に乗せられており、一冊一冊の本を手にとって眺めることはできない。そして「手を触れないでください」といった、鑑賞者の接近を牽制するようなキャプションが台の上に記してあるわけでもないのに、なぜか本に触れることをためらわせる空気がそこに流れている。12冊の本があまりに整然とケースにおさまっており、ミニマル・アートの立体作品を思わせる外観が「もの」としての存在感を主張しているせいだろうか。(いや、あまりに素っ気ない展示の仕方は、作品的であることとは正反対のところにあるのではないか)。タイトルも装飾もほどこしていない白と黒のモノトーンのケース(黒い方はまるで本の棺桶を思わせる)は、紙の上に綴られているはずの文字や数字や記号に少しでも光を当てることを禁じ、言葉を本の内側に閉じ込め、かわりに沈黙の深みをケースの表面に浮かび上がらせ、鑑賞者の気安い接近を阻んでいる。
一方で、〈Past〉と〈Future〉の2種類の本がある《One Million Years》シリーズの本は、白い台のなかに2冊並べた状態で、水平に寝かせて展示してある。バインダー形式ではなく、ちゃんと製本されたタイプの《One Million Years》である。透明のアクリル板で覆われ、もちろん手を触れることはできない。
ひょっとしたらどの頁にもなにも書かれていないのかもしれない。しかしこれらの本は、手に取って中身を確認することがさして問題でない次元、本が本であるゆえんを追及する必要がない次元に、存在しているように思える。
読むことのできない本。それははたして本当に、いま、ここに、存在する本だろうか。

河原温の本は存在を遠くさせる。宇宙の彼方、人類の歴史の彼方、言葉の彼方…。
《I Met》が1968年からはじめられたシリーズで河原が一日のうちに出会った人物の名を延々とタイプ打ちしてある作品であること、《I Went》が河原が滞在した場所の地図をファイリングしたもので、さらに自分の通った道程がその地図上にマーキングされた作品であること、また黒い革の表紙も極薄のインディアン・ペーパーもすべて聖書のつくりに倣ったものであるという《One Million Years》には人類の過去から未来までの年月を集積するように紀元前998,031から西暦1,000,980までの年号が小さい文字でぎっしりと印刷されていること、こういった作品にまつわる諸々の情報を、たしかに私は「知識的に」知ってはいる。知識的に知っているだけで実際のところ私は本を外側から眺めただけなのだから、これは鑑賞したとは言えないかもしれない。河原の本は姿を消していた。しかし、河原温の出版物や「本」の形態の作品を集めて提示したこの展覧会において、河原の活動の体系的な把握や作品についての知識を前提にしなくとも、展示台の上に置かれた12冊組のケースが湛える存在感、物理的な重みや手触りに依拠することのない逆説的な存在感は、静謐さと緊張感を保った展示空間のなかで、じわじわと迫ってくるものがあった。
閉じられたままでいて、自らを開示する本。見てもいないのに、わたしの側に伝達されてくる何か。この秘密は、はたして「芸術」だけに由来するものと言えるだろうか?

ところで仮設壁で二つのスペースに区切られたこの倉庫には、《I Met》や《I Went》が展示されている空間とは別に、河原の展覧会カタログや画集、書籍類を集めて並べたスペースが手前にあり、そこには唯一「中身を開いて展示された本」があった。
「死仮面」。
1995年にPARCO出版から刊行された限定180部の幻の画集で、《浴室》、《物置小屋の出来事》と同時期、つまり1950年代に制作された鉛筆素描を30点収録した本である。上質の紙に印刷された素描は一枚ずつ独立した絵としてばらすことのできる形式で、今回はその中から5点の素描が選ばれ、壁に掛けられていた。
河原はこの「死仮面」を『日本人の肖像』シリーズの第一部とする予定だったそうだが、鉛筆のみで描かれた漆黒の闇から浮かび上がる不気味な頭部像は、目を大きく引ん剥いて哄笑する男性にせよ中国系の衣装と小道具に身を包んだ人物にせよ、日本人というよりも国籍不明の人物たちをあらわしているように見える。(なかにはフランシス・ベーコンよろしく叫ぶ口だけをクローズ・アップして描いた素描もあり、不吉な影が一連の作品に立ち籠めている)。
とはいえ河原が描いていたのは様々な人種でもなく人物の個性でもなく、奇怪な相貌やおどろおどろしいイメージなどでもないだろう。横一列に並べられた5つの生首を見ていると、わたしは、ひとつ、またひとつという風に、地平の果てに向けて人類の墓標が立っていく情景が頭のなかに不意に浮かぶ。「芸術」とか「表現」とかが問題でない領域に向けて、「人類の死」が並べられていくような気がするのである。

ただ、並べていく。存在の彼方に向けて。
「死仮面」と《Date Painting》に代表される一連のコンセプチュアル・アートを無理矢理に接続することはできないだろうが、今回の展示からあえて通底するものを見出すならば、気の遠くなるような壮大なスケールのなかに「存在」を連ねていくそのやり方ではないだろうか。
とはいえ、壁に掛ける「絵」にもなると同時に「本」という媒体に存在を浸しているこの「死仮面」、ふだんは閉じられたまま、まれに頁をひもといて眺められるのも本来的な在り方であろう。秘匿された状態、陽の目を見ない状態が、「死仮面」を「死仮面」たらしめる理由のひとつなのである。
100万光年彼方にある恒星の光が地球に届くには100万年の時間がかかり、もしその恒星が消滅したとしても地球でそのことが認識されるのは100万年後だという説があるが、ひょっとしたらもう存在していないかもしれない星の光の観測は、わたしの「いま」「ここ」という足場に酸をかけ、ドロドロに溶かしてしまう。
河原温の「本」??書かれたものをあらわにすることのない本たちもまた、自明とされてきた「芸術」「作品」「鑑賞」などという足場を、根っ子から溶解してしまうほどの遠さ、果てのなさ、膨大さを抱え込んでいる。
本もわたしも、やはり、存在しないのかもしれない。(中島水緒)


横田茂ギャラリー (2007年9月18日?10月5日)
http://www.artbook-tph.com/top.html

inserted by FC2 system