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「中上清展 絵画から湧く光」関連企画アーティスト対談

コンテンツ【制作/現場】の作家インタビューの一環として、美術館やギャラリーでの対談記録を構築していきたいと考えています。

今回は「中上清展 絵画から湧く光」関連企画「アーティスト対談」を収録しました。
対談記録の掲載に際し、こころよく掲載許可をいただきましたことを作家の中上清氏、ならびに神奈川県立近代美術館館長の山梨俊夫氏に深く感謝いたします。
この記録は、編集部で録音を文字に起こし、対談者に訂正を施していただいたものです。文中の( )内の部分は対談者の了解を得て編集部で補足しました。

作品図版は会場風景とともに編集部スタッフが撮影したものであり、対談の内容に沿って図版を掲載させていただきましたが、ネット上での解像度の制限および撮影の腕前において難点がございます。お見苦しい点がございますことをあらかじめお詫び申し上げます。もどかしいとお思いの方は、直接、展覧会場に足を運んでくださいますよう、お願い申し上げます。

それでは、トークをお聞きになった方も、聞き逃してしまった方も、たっぷりとご堪能ください。

(complex編集部)


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「中上清展 絵画から湧く光」関連企画「アーティスト対談」
中上清(画家)×山梨俊夫(神奈川県立近代美術館館長)

山梨:今日はお集まりいただいてありがとうございます。この美術館の館長をしております山梨です。本日はこの中上清展に作家の中上さんをお招きしていろいろ話を聞いていきたいと思いますけれども、あくまで私は話の引き出し役です。
私自身は中上さんとは30数年前から知り合いで、ずっと彼の仕事をみてきて私なりに仕事を理解しているつもりですけれども、今日はそういうことをいったん置いといて、ここに陳列されている作品について簡単な説明をしながら、中上さんにさまざまなことを聞いていくというかたちで話を進めていきたいと思います。私が作家にすべて問いかけるわけには到底いきませんので、最後に、みなさんが聞いてみたいことがありましたら、どうぞお気軽に作家自身に直接お聞きする時間をもうけたいと思います。
まず、鎌倉と葉山の私どもの美術館では、現存の作家の展覧会を個展なりグループ展なり適宜開催しています。私と同世代となる、美術の世界では中堅になるのかな、まあ、そういう世代の作家たちも時々取り上げています。今回はずっと一貫して平面、絵画の作品をつくってきた中上さんを取り上げていこうということになりました。特に現存作家の場合、回顧展という出来上がった世界をみせるという、そういうかたちをとらずに、新作を中心とした展覧会にしました。
みなさんお入りになってわかるように、入り口両側の壁、正面の壁、そこまでで11点は去年の夏から秋にかけて、この展覧会のために彼が制作してくださった作品です。それを中心に、中上さんは美術館で個展をやるのは今回が初めてということで、いままでどういう仕事をしてきたのかということをお知らせしたい、あわせて中上清という絵描きの作家像が全体的に浮かび上がるように、去年の作品を頭にだんだん過去に遡っていくように展示しています。あとでご説明しますが、新作の反対側の壁の大きな3点はインド・トリエンナーレで発表して、まだ日本では公開したことのない作品ですけれども、そういうものからだんだん遡っていくというような陳列をしています。
それでは私が長々と話してもいけませんから質問に入りましょう。


◆◇最新作《無題》(2007)の前で◆◇

山梨:今回の作品、みなさんご覧になって共通する部分があるのはお分かりだと思いますが、作家としては、これをもって何を表現したいということでいまの仕事をしていますか?



中上:基本的には光と空間を描きたいと思っている。それ以上というかそれ以前の部分に関しては特にはきっちりしていません。出てくるものを見極めながら判断していくつくりかたをしている。

山梨:出てくるものを判断しながらと言われてるけど、この11点はかなり共通点があると思う。その最近の思考である光と空間を描きたいということは具体的にはどういうものなのか? たとえばこの展覧会をやるにあたって中上さんといろいろ話し合いをしたなかで、そのときには瞬間を描きたいという言い方もしていた。それがどういう瞬間なのか、光と空間でいえば、瞬間は光に関わるのだろうと思うのだけれど。光の瞬間というのはどういうイメージで考えられているのか?

中上:ユングの自伝に出てくるはなしで、彼がフロイトと袂を分った後のアフリカ旅行のなかでマントヒヒの群れが夜明け前になるとぞろぞろと或るがけの上にやってきてそこに座って、じっと太陽の昇るのを見ている。昼間は猿そのものでぎゃあぎゃあやっているんだけど、陽が昇る瞬間だけは神妙な顔をしてみている。
それと、文化人類学者の誰が言ったか覚えてないんですが、太陽をあがめているある部族に太陽が神なんだろうと聞くと違うといわれる、なぜだと問うと、昇る瞬間が神なんだという。そういう実態ではない光の表現。神がかった話になっちゃうけれど、太陽としての光ではなくて、描こうとしたのはある象徴としての光かもしれない。

山梨:その象徴としての光という場合、何を象徴しているのか?

中上:それは規定すると小さいものになってしまう、なるべく大きなものにしておきたいので、あいまいなままにしておきたい。

山梨:その絵画の上で表したいという光は光が現れている瞬間ということなのかな。

中上:光が現れるその空間かな。

山梨:その空間というのはどういうものなのか。

中上:空間というのもやっぱり同じだと思うんだけども、無限に通じているものとして規定されていない空間、広がりというか、そういうものを感じたいとは思っている。

山梨:現実的なわれわれが生きている世界のなかのイメージとして、宗教的なもの?

中上:あるいは意識的ではないが、そうかもしれない。

山梨:絵を見ると、光が向こうからやってきますよね。どこから来るの?

中上:無限の彼方から。

山梨:光の光源というか、光の発する元というのは?

中上:ないほうがいいと思って描いてないんですけど……。実体としてではないんだろうとしておくほうがいいと思う。

山梨:たとえば、この新しい11点のなかで、それに限らず、今までの作品も中上さんは筆で描かないけど、それは何かを意識しているのか?

中上:うーん、あまり人の手の跡を残すのが嫌だということがひとつ確かにある。僕の絵の方法は絵の具がかたちをつくる。描くという生臭さが嫌いだというところがある。あ、でも筆を全然使ってないというわけでもなくて、修正しなくちゃいけないところはある程度筆を使っている。原則としては使わないで、エアブラシで制作している。吹くというのは新しいことと思われているかもしれないけれど、もしかしたら極めて古いやり方かもしれない。ラスコー壁画には動物の骨をつかって顔料を吹き付けたらしいものがある。手段としては筆に絵の具をつけて描くより古いんだと思う。

山梨:直接手で筆を持って描く生臭さというのは、どういう感覚なのか?

中上:うーん、自分の身体性が出ちゃうのが嫌なんだと思う。

山梨:まあ、近代のみならず、絵画の世界では、そういう身体性を重要視してきたところがありますよね。そういうものとの距離の取り方については?

中上:なるべく(作品から身体を)遠くにやりたいという気持ちがひとつある。でもドローイングをやれと言われたら、やっぱり身体性は出てしまう。ドローイングってそういうものだから。でもタブローに関してはそれとは距離を置くことができる。(作品を)描いたものではなく、できあがったものにしたい。

山梨:たとえばさっきおっしゃっていた「かたちは絵の具がつくったものだ」ということは具体的にはどういうことなのか?
光が奥にあって、それがこちらに向かって流れてくる、そういうときの大きなかたちというものは、絵の具自身が細かい部分はつくっているのでしょうけれど、その大きなかたちをコントロールするのは中上さん自身?

中上:そうです。

山梨:では、「絵の具がつくっているかたち」というのは具体的には?

中上:画面の中で線として見える形はすべて絵の具がつくっている。

山梨:この皺みたいな波みたいなものも?

中上:そうです。一本も自分では書いていない。

山梨:ある意味で偶然的な?

中上:半分は偶然。もちろんすべて偶然になるわけではなくて、(絵の具の扱いが)すこしずつうまくなってきたので(笑)。ある程度のコントロールはできるようになってはいます。全体の調子については調子を見ながらやっているのできわめて意図的なものではある。

山梨:実際に光の部分と影の部分のパサージュをつくっていくということについて、そのつくりかたについてはおそらく作家の秘密だろうから、あまり詳しいことは聞けないけれども、説明していただける範囲でいいので、お話いただけるとありがたいんですが。

中上:絵の具を乗せて流してつくっている。流してかたちをつくっていく方法でやっている。最初はだいたいの構図は頭の中で決めて、あたりはとってやるんですけれども、あとはだいたい出たとこ勝負にちかいところがあって、極端なこと言うと縦で始めたものが終わったときには横で完成したということも多い。

山梨:現れてきたものが光の効果をもつということはいままで制作してきた経験に基づいて、光はこう出るだろうというのがわかる?

中上:それはもちろん経験でわかります。

山梨:カタログで書いたことでもあるのだけれど、光が向こうから来るということについて、いままでの絵画でも向こうから光が来るという絵がないわけでもないけど、光が当たった状態だったり、色をもって表したりということが多かったと思います。その光の在り方について、たとえば日本西洋問わずにどのあたりの作家からヒントを得ているんですか? 実際問題として中上さんの絵を見ていると特定の作家の影響を受けてこういう絵を描いているんだなとはとても思えないんだけど、類縁性を感じる作家とかいますか?

中上:まず、レンブラントとかラ・トゥールだとか逆光を使っている作家は若い頃から好きだった。それ(影響)はあると思います。
今やっているシリーズは、偶然、制作してる時「あ、向こうから光がきた!」っていう感覚があってそこから始まったのだけれども、実はそれこそ油で人体を描いている時から、逆光の位置が好きでした。だから個人的な趣味はあると思う。


◆◇インド・トリエンナーレ出品作の前で◆◇

山梨:あるとき向こうから光がきたとおっしゃっていますけれど、この右の作品(インド・トリエンナーレ出品作)はそういうものではないですよね。

中上:違いますね。



山梨:右の作品は2000年の作品ですけれども、インド・トリエンナーレに出品して、そのあとにそういうことが起こったということですか?

中上:そうです。

山梨:この時期は逆光ではないけれど、同じように光を絵画のなかで実現させようとしたという意識はあったのでしょうか?

中上:意識はありました。あったけれども、逆光にはできてない。このときは筆を使っている。逆さまに立てたキャンバスに金色の絵の具を乗せて、扇風機をあてて、流れ出る線を曲げている。展色材は膠を使っている。アクリルを使うと線が太くなっちゃうから、膠を使った。

山梨:(インド・トリエンナーレ出品作の掛かっている壁の)左の絵は青系の色が強い感じがでていますが、光を主体にして光の部分と影の部分について若干の色彩を使うわけですけれども色についての意識はどうですか?

中上:色を使うのはもう少し自然にしたいというところがあるんですよ。でもあんまり自然だと不思議なところが出ない。不思議であって、なおかつ自然であるというところを狙っているんだけれども、狙いすぎて不自然になってしまったりとある。

山梨:自然にするということと色を使うということが僕としてはあまり理解できないんだけど。

中上:つまり、ある種モノクロだと、どうしてもつじつまを合わせるかたちで扱うと不自然にはならないんだけど、結果的には空気感が出てこない可能性があるわけです。空気感を持って、自然である様に色を扱えればいいと思っているんだけれど、完全には扱いきれてはいない。
なるべく自然でありながら、不思議な感じを出したいんで……

山梨:いま、「不思議な」っておっしゃいましたけど、みなさんも感じられるかもしれませんが新作やこの作品は一種ドラマティックな感じがするじゃないですか。特にドラマがあるわけではなくて、光が現れる瞬間ということに対する先ほど中上さんがおっしゃったユングの本に出てくるマントヒヒが朝日の昇るのを静かにじっと待ち構えているというような、われわれマントヒヒではないけれど(笑)、そういう人間も共通してもっている光に対する恐れというかそういうふうなものの実現する瞬間のドラマという意味でのドラマティックなものを表現するという意識は、ここ(インド・トリエンナーレ出品作制作時)でも共通していると考えてもいいのでしょうか?

中上:うん、そうだと思いますよ。

山梨:絵画の中のそういう意味でのドラマティックなものって中上さんにとってはどういうもの?

中上:やっぱり瞬間であろうとは思ってはいるんだけれども……

山梨:20世紀の絵画というものは、ドラマティックなものを排除してきたと思うんですけど、そういうところで中上さんが絵画の中に取り込もうとする意識や考えについてそういうものが言葉になるのであれば教えていただきたいなと……

中上:以前、絵画におけるイリュージョンについて考えていた時に、絵を見るときの起承転結ということを考えた。
まず絵をみた時ひとつのインパクトがあるとします。これを「起」として、それにしたがって画面を見ていきます。これを「承」とします。そしてあるところ、場所でも時間でもいい、そこで、パッと違ったものが見えたり、違った風に見えることがあります。これを「転」とします。そしてその後、初めに見えていたことと、後から見えてきたこと、実はある時間の中で生じた一連の事を一瞬の事として心に納める。つまり一瞬のこととして記憶する。そこには一種の錯覚、イリュージョンがあると思うのです。絵の中に見たときにそうなるようなものを取り込んでおかないとまずい。だから「転」の扱い如何で必然的にドラマティックにもなるんだろうとは思うけれど。

山梨:絵画の中に筋書きがあるというわけではなく……

中上:見る側の……

山梨:見る側の感覚を動かす装置を仕組んで動かしていくということか?

中上:ちょっと露骨になっているかもしれないけど……

山梨:自分で露骨になっていると感じられる?

中上:光との間にもう少し心的距離があってもいいかなと思っている。そのほうがおもしろいだろうと思う。

聴講者:山梨さんが20世紀の絵画はドラマティックなものを排除してきたとおっしゃっていましたが、どんな作品を指しているのかなと思ったんですけど。僕、バーネット・ニューマンの作品をみたときでさえ、ドラマティックだと感じたんですよね。

山梨:あえて、僕は彼に最近のドラマティックということを取り上げて言ったんだけど、バーネット・ニューマンだとかロスコだとかのフォーマリストたちよりも前の作家たちがもっていた文学性とは違う、絵画自体がもつドラマ性みたいなものとは僕が言っているのは違います。20世紀の初めの、セザンヌ以来かな、そういう文学性と手を切って、絵画が絵画だけで何が言えるかという領域に入ってきたと思う。普通にいうモダニズム絵画、具体的に言えばピカソであれ、マチスであれ、絵画の純粋性を獲得しようという方向で仕事をしたわけです。そういう風なところで、中上さんは一時期フォーマリストを自称していたんだけれど、いまもなお絵画の形式にこだわっているところがある。そのなかで、こういうドラマティックな性格を彼自身がどう捉えているのかということを聞きたくて質問しているわけです。

聴講者:ドラマティックなものがここ80年代90年代のなかで否定的なイメージを帯びている感じがして、作家ってドラマティックなものを表現するのは悪いことなのかなあと思って。

山梨:全然、悪くないし、最近の中上さんの仕事はそれによって訴えかける強さをもっているし、そういう仕事になってきたから今回の展覧会を開催したという事情もある。そういう意味では否定はしていない。でも一方で非常に危険なことは認める。そこに依拠してしまうと絵画が絵画である性格を薄めていくということになる。そのこと自体も一概に否定されるべきものではないけれど……

聴講者:わかりました。

中上:バーネット・ニューマンでいうとね、さっきの起承転結でいうと、転の部分はニューマンではジップの部分、それがドラマティックな働きをするということはいえると思う。見るほうの言葉としてね。見えてきた瞬間に輝くような、最初に見えた空間構造と違う空間構造が見え始めるような。僕、ニューマン好きだし。

山梨:崇高さ、つまりサブライムを目指しているというとちょっと違うんだけれど、それも自分の視野にひとつある。そのサブライムを求めていた絵画が絵画だけでどこへ行かれるかというひとつの着地点だという気はします。中上さんのいままでの作品を遡っていったときにそういうことを感じるけれども、他の作家がやっていたから避けてきていたという部分があったんじゃないかと僕は思っている。

中上:なるべく品格を持った綺麗なものをつくりたいという希望はある。ニューマンが綺麗だということはないけれど。

聴講者:崇高性とかぶっている気がしますが……

中上:崇高は意識はしているけれども同時に綺麗でもありたい。縦の線はニューマンから来ているわけではないですが、もともと縦の線が好きだということもある。


◆◇国立現代美術館(ソウル)、山種美術館への出品作の前で◆◇

山梨:正面のほうがソウルの国立現代美術館で日本の現代美術家たちとやった展覧会に出品したものです。これとインド・トリエンナーレの差というものは?

中上:これを描いているときはバックを暗くしたくてしょうがなかった。これってどうしてもフラットになっちゃうんで、ローラーを使っているせいもあるけれど。

山梨:そういう意味では空間性ということについて最新作とは違いますか?

中上:材料や手段が違うと出来るものはかなり別物になっちゃう。これも何とかして深さをもう少しつけてやればおもしろい展開になったかなとは思うけど、このときはそういう展開は半ばにしてしまった。途中までしかやらなかった。

山梨:上半分が暗い部分にして……

中上:それで残したんだと思う。このあたりは方法としては同じ、色は違うけれど。

山梨:次にこれは山種美術館賞に出品した作品ですけれど、山種美術館は推薦制なので中上さんの意思で出品されたものではないわけですね。山種美術館賞は日本画のコンクールですが、中上さんは日本画顔料を一切使っていないんだけれども、これも日本画としてみるという人がいて、出品されて大賞を争って残念ながら落選した作品ですね。



中上:これはアクリルで描いたということが問題になって、たしかに僕はアクリルで描いているんですけど、さらにいうとその上にホルベインのデュオという油でも溶ける水でも溶けるというメデュームをかけている。そういう意味では油絵かもしれない。リンシードがベースのメデュームで、屈折率が高いのでコントラストがきゅっと出やすい。ほんの薄くではあるけれどそれをかけているので、厳密に言えば油絵の方に近いかもしれない。

山梨:自分ではそういう絵を描いていて、山種美術館賞に出品されて、日本画扱いされている。そういうような扱いをされて、作家としてはどういうことを思われました?

中上:それ(日本画扱いされること)は全然考えていなかったことで、そういうことは考える必要はないと思ってた。描くまでが仕事だし、受け手がどうとらえようとそれを規定することは自分にはできないし、あえて山種に出したのは、自分の作品、現代美術を見ることのあまりない人がみてくれるわけだから、作家としてはなかなかないことなので、出品した。なぜ出したのかと問われればそう答えている。実際なるべく違う人にみてもらいたいという気持ちはあるし、まあ、そしたら違った人がみてくれたし(笑)

山梨:つまり日本画として扱われるかどうかではなく、自分の作品、仕事をどんなふうに受け取られるかという関心が強かった?

中上:強かった。僕はそのとき、日本画だろうがなんだろうがどうでもいいと思っていたし、今でもそう思っています。何の意味も感じてないし。

山梨:この辺で何か質問などありませんか?

聴講者:タイトルが《無題》ですが、何か意味でもあるのですか?

中上:昔からあえてタイトルをつけるのが嫌だったんですよ。それから生じる意味というものをなるべく否定したくてつけない姿勢だったんですけど、今ではそれじゃまずいだろうと思うようになった。今回、ほんとうはタイトルをつけようと思ったんですけど、タイトルをつける能力が僕の中で退化してしまってできないことに気づいた(笑)。ずっとやってこなかったんで……。友達でタイトルつけるのがうまい奴がいて、あきらかに作品とタイトルのコラボレーションであっていたりして、そういうのを見ているとあってもいいかなと思ったりする。

聴講者:《無題》であるのは見る側に意味をもたせるためですか?

中上:今でもすこしはそういう感じもある。ただ、今は《無題》を良しとはしていません。

山梨:美術館の空気が染み付いた人間として、分類、整理をするという立場からいうと中上さんの作品は非常に困る。たとえば1995年に数十点ある作品、全部《無題》。これあなた将来どうするのって。1996年にも《無題》数十点、1997年にも《無題》数十点と、制作年がわかったとしても、そのあとどうしようもないよ、せめて《無題》でもいいから○○年の1というふうにしてくれないということを要求したんですけど、《無題》で通しましたね。

中上:ナンバリングは妥協的な感じがしてね、つけるのが嫌だった。サイズも同じだったりするし実際は何とかすべきではあるけれど。

聴講者:現代作家だと《コンポジション》1、2、3……とつけたりしますが。題がないということは、観者に絵画活動に参加させるという意味合いもあると思いますが。

中上:確かに見る人の意識を方向付ける事はしたくない。でも、それなりの方法はあると思う。
作品と直接的な関係もたないものを付けるというような。
例えばホイッスラーが《エチュード》とつけたりね。いろいろ方法はあると思うんですけど、どうも退化してしまって……。昔はもっとタイトルつけるのうまかったのにとか(笑)


◆◇第2展示室◆◇

山梨:この部屋では、赤や青など色彩を多用している作品が一番古いものになります。下に額縁がついている。一見すると位牌みたいになっている作品からお聞きしたいと思います。



中上:高さが欲しかったことがあるのと、それを出す為に下のほうに強い線が欲しかった。この前にもっと古いものもあるんだけど。結局、モノにしたほうが強くなるので、額縁を付けた。あ、この作品を位牌と言ったのは誰よりも早く僕です。自分で位牌をつくっている。なんてまわりに言ったり(笑)。位牌のかたちは昔から好きで、図書館で調べたりもしたこともあって……。
あと、このころはローラーを使って描いていたので、ローラーってムラをつくらない為の道具なんだけど、ムラをつくるとおもしろいなと気づいた。

山梨:ローラーの上にさきほどの線がのっているのがこのあたり?

中上:そうです。
この作品は自分で額縁をつくろうかと思ってモデリングペーストを使っています。
この金箔を使った様に見えている部分は実は黒い絵の具で描いています。あるとき、ローラーで上からパールを乗せると黒が金にひかるということに気がついた。下地のメチエの差が出るということです。

山梨:この作品なんかは中上さんのアトリエの范寛の《谿山行旅図》のあのかたちを連想させるけど。

中上:僕はあの絵が好きで、あの絵だけがアトリエにかけてある。

山梨:范寛のどういう部分に共感を覚えますか?

中上:まず高さに惹かれる。

山梨:画面の縦長ということは高さを意識して?

中上:そうですね。

山梨:他の絵描きから示唆を受けるというとき、范寛なら范寛のもっている高さ、レンブラントならレンブラントの光の具合というような、この人から全面的に影響を受けたという絵描きではなく、もっと部分的なものですか?

中上:そういうふうなスタンスにしとかなきゃまずいだろうなという方法論的な考えがある。うっかり行っちゃうとちょっとまずいんじゃないという気もするので。

山梨:そういう部分的なものではほかの作家ではいますか?

中上:うーん、ターナーとか。ロスコは最近思ってないかな。李成とか……けっこういっぱいいるんですけどね。日本ではないかもしれない……

山梨:こういう金を使う前には、ああいう色を使っていたと……。

中上:色とかたちで何ができるかって考えていたから。

山梨:70年前半ですね。

中上:この前にもあるんだけど、今回はこれから出した。

山梨:この時代の「色とかたちで何ができるか」っていう考えで作品づくりをしていた同世代の作家たちって大勢いたんですか?

中上:いることにはいたけど、そんなに数は多くなったと思う。

山梨:中上さんが平面にこだわってやってきているが、それの始まりというのはいつごろですか?

中上:最初に発表した作品は12の薄い板を使って、床に並べたものだったのですが、展覧会の副題として「12の平面による」と付けました。

山梨:最初から平面にこだわっていたということ? 途中でモノ派だとか動きが出てきたときに平面だけでなく、もっと違った要素で作品を制作、発表するひとも多かったわけだけれども、そういう周囲の関心には動かなかったですか?

中上:動かなかった。どうしたら平面なるかという与えられた条件の中でやっていた。

山梨:時代はフォルマリズムのなかでグリンバーグやそういう絵画の形式性にこだわるというアメリカの考えが日本に流れてきたけれど、そういう流れの中で中上さんご自身との距離はどのように考えていましたか?

中上:アメリカ美術のカラーフィールドペインティングというのは、70年代には入ってきてはいたけれど、ニューマンとかロスコとかステラにしてもね、日本ではそれほどメジャーじゃなかった。僕は藤枝(晃雄)さんというひとに教えてもらって知った。その頃、藤枝さんを囲んで5〜6人でバーネット・ニューマンの研究会をやっていた。そのころそんなことやっているところなんてなくて、「ニューマンって誰?」っていう時代だった。

山梨:この2点の「色とかたちで何ができるか」っていう、「何が」って何ですか?

中上:うまくいえないけど、こんなもんです(笑)

山梨:さっき別の作品で高さといっていたけれど、この作品で何を表したいかという、何を目指していたか?

中上:もう忘れました(笑)。平面を切って、並べたりして、それぐらいしか出来なかった。こっちの斜めになっているのは四角のフレームに基づく以外のことでかたちをつくりたかった。早い話、斜めの線をつくりたかった。斜めに線を入れたかったけど、恣意的に入れることができなくて、絵を斜めに立てかけて、ある種、構造的な要素から斜めの線を規定できる方法をとった。



山梨:斜めの線が画面の中に入れられなかった?

中上:入れられなかった。

山梨:丸は入れられた?

中上:それはあとのことだけど微妙ですね。

山梨:この色の規則性とかは?

中上:この作品に関してはないです。ただこれの前の作品は、個展の会場の4つの壁面に作品をならべたのですが、一枚ずつは3つの面に分割して、赤、青、黄色、紫、緑、の5色を使って隣り合うキャンバスの端の面同士は同じ色にすることで、ぐるっと巡るようにしたものでした。色の選択と並べ方はそういう点で規則的でした。最初は何かの方法をいれないと色を選べなかった。この頃になるといいかげんに色を使っている。

山梨:絵描きの感覚はいいかげんだとは僕は思いませんが……。今回、この作品から陳列したということは、この作品の前と後では展開がありましたか?

中上:多少あると思いますが特にはないです。

山梨:左の作品と金の作品との展開は?

中上:この時期からほとんど筆を使わなくなって、ローラーになっている。

山梨:さて、このあたりでまた質問でも……

聴講者:賛とか枠の考えについて、額縁の問題についてどう思いますか?

中上:大きな問題を抱えたまま、ずるずるきちゃった気もするんですけど。額縁の問題って非常に大きな問題で、今はこのままでもいいっていうところもあるんですけど。

聴講者:タブローは絵画空間という意識だが、現実世界と絵画世界との区別をしないということでしょうか?

中上:いや、それはない。僕は区別がないと嫌です。額縁をつけないのは、タブローだけでも区別がつくと思っているから。普通の空間に溶け込んでしまわないようにしたい。 山梨さんがいままで指摘してくれたように絵画の形式については意識があるし、額縁の問題も考えていかなくてはいけないと思っている。掛け軸なんかも仕立ては重要なのに画集をみるとぜんぶカットして掲載したりと軸のまま掲載してほしいなあと思うけれど絵画としての在り方が全然違ったものになりますから。その辺の問題もどうしたらいいのかと考えたりはする。

山梨:これでギャラリーツアーを終わりにしたいと思います。どうもありがとうございました。



作者近影

Date:
「中上清展 絵画から湧く光」
会期:2008年1月4日(金)〜 3月16日(日)
会場:神奈川県立近代美術館 鎌倉
関連企画 「アーティスト対談」
中上清(画家)×山梨俊夫(神奈川県立近代美術館館長)
2008年1月20日(土) 15:00〜16:00

神奈川県立近代美術館 鎌倉
〒248-0005 神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-53
tel.0467-22-5000 / fax.0467-23-2464

(2008年2月掲載)

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