「外部から到来するものは、その先に照らされ、理解される。『理解される』というのは私たちから由来するということである。もろもろの事物が世界となるのは、すなわち私たちの所有物となるのは、この光を介してである。… 光はそのようにして外部(対象)を内部(所有物)に包摂することを可能にする。それがコギトと意味の構造そのものである。」(註2) |
「美術史は、歴史哲学なしにはありえないし、時間モデルを選択せずしては存在しえない。同時にまた美術史は、芸術哲学なしにはありえないし、美的モデルを選択せずしては存在しえない。… 歴史的語りには、いうまでもなく、かならずその対象の『本質』に関する理論的規範が先行し、それを条件づけている。美術史は、その語りの『よき対象』、それを寄せ集めれば最終的には美術の本質といったものが形成されるような『美しき対象』を規定する美的規範を前提としているのだ。」(註6) |
「ヴァールブルクが人類学へと美術史の領域を開いたのは、たんにそこに研究すべき新たな対象を再認識するためではなく、時間を開くためでもあった。」 |
「残存という概念はイメージに固有の時間モデルであるアナクロニスムを解き放つ。残存においては、長期的に潜伏したものが唐突に再出現する… そのときクロノロジー的な持続の観念は崩壊し、歴史はアナクロニスム化される、と著者(ユベルマン)は言う。クロノロジカルな説明原理がそこではもはや機能しないのだ。」(註7) |
【図1 】「ムネモシュネ」パネル第77 番
ここではドラクロア、新聞・雑誌の切り抜き、ポスター、切手、印章、メダル、建造物、時刻表などが並置されている。写真:The Warburg institute, London |
視点をもつ時間モデルや象徴、情念形式の問題を理解することなしには、ヴァールブルクの図像学を解くことはできないのである。彼の図像学的実験「ムネモシュネ(記憶)」はとてもユニークな地図である。フリッツ・ザクスル(F.Saxl)によれば、それは「(芸術家の本質を問う)核心の問題にそって考察」されたものであり、その方法とは、同時代における公私の並置による「ふつう文化的環境と称されているものと芸術家とを一括りにして考察」することであり、もう一つは文化の外的要因を主題化する「古代がふたたび蘇生するときに対峙せざるを得なかった勢力」の記述である(註9)。こういった作品と資料の不分離性やその転移へのまなざしは、まさに「心的徴候学」と呼ぶに相応しいものである。個人にせよ文化にせよ、その主体意識とはつねに客体化された主体のことであって、実在的な主体とはつねに前主体の裂け目に誘惑されることでしか生きられないものだからである。ただし、ここでも精神分析学のみでなく、人類学(民俗学)的な視点を忘れてはなら ない。これはユベルマンに対しても言えることだが、その視点の有無は「ムネモシュネ」を継承的に発展させていくうえで大きな分岐点となるものである。ユベルマンは、だがパノフスキー(E.Panofsky)が継承し損ねたものについて結果としては気付いている。
「パノフスキーが、個別的な症状を、それを構造的に総括する象徴へ― カッシーラーにとって重要な、あの『象徴機能の単一性』にしたがって― 還元しようとしたの対して、ヴァールブルクは逆の道に身を投じた。象徴の外見的な単一性のなかに症状の構造的分裂を見い出すこと。パノフスキーは、カントから出発して征服としての知の道に身を投じようとした。他方でヴァールブルクは、ニーチェから出発して悲劇としての知の道に身を投じようとした。」(註10) |
第二章 芸術= 文化システム
「西欧の知性は、異常なる世界を、出来合いの理性的支配に組み込む最も確実な手段として、歴史主義= 進化論的枠組みの低次の段階に配置することに成功したのである。」(註11) |
【表1】「意味と制度の場のダイアグラム」 J・クリフォード『文化の窮状』より
ではこのミュージアム・システムを支持している力とは何であろうか。クリフォードによれば、それは歴史主義である(註12)。この時間モデル(継続・発展)において、真正さと非真正さ、洗練と粗野といった価値付けがなされるわけだが、実はその分類を行なっている枠組みもまた自文化中心主義的な配置(社会進化論的枠組み)と入れ子構造をもつものなのである。だがここで「非真正さ」と看做される側、生活環境や日常の情念が織り成す民俗的な生態のなかにこそ、かの文化システムの原因水準が立ち現われるのである。そこでは互いに異質な時間軸が交通する複合的な時間の生成と反復が生きられ、遥か古代から受け継がれた技芸や陳列の伝統が残存しつづけている。それを代表するものとして「市庭」(註13)を挙げることができるが、例えば、その起源にアジール的性質をもつ「美術」を扱うポンピドゥー・センターが、その起源にアジール的性質をもつ「市庭」の記憶に由来する土地に建てられている(註14)ことも、民俗(無意識)的観点からみれば決して偶然ではないのである。「プルーストの作品に描かれている、ヴァントゥーユのソナタ「小品」は、シューベルトやワーグナー、フランク、サン= サーンス、そしてフォーレの作品から得たさまざまな印象の組み合わせである。… 時間とは無縁のこのような融合は、異なった日付けのさまざまな出来事や小さな事件を現在という時間のなかに呼び出し、混合するという同種の手法と対をなすものである。… それに関してジャン・ルイ・キュルティスのすばらしい評言がある。― 「この『失われた時を求めて』という作品には、失われた時もなければ、見いだされた時もない。そこにあるのは過去もなく未来もないひとつの時、ほかならぬ芸術的創造の時があるだけだ。それゆえに、『失われた時を求めて』という作品のなかの時間構造は、あのように茫漠とし、捉えがたく、あるときは伸びやかに広がり、あるときは短く結ばれ、あるときは円環をなしているが、線状に進むことは決してない。もちろん、正確な日付けが打たれることも決してない。〔…〕シャン= ゼリゼで遊ぶ子どもたちが、はたして輪遊びをする年頃なのか、こっそり煙草を吸う年代になっているのか、それもよくわからない」。このように見てくると、無意識の記憶はただ単に、以前の情報を伝えてくれるけれども人がそれを再び生きることはできない意識的な記憶に対立しているばかりではない。物語の織り目に無意識の記憶が介入することで、出来事の継承と時間の持続のなかで、その順序を完全に変えてしまう創作の手法が補償され、均衡を維持されるのである。」 |
「もはや主体の側の欠陥のためではなく、対象の過剰のために、制作者はこの場合もやはり指し示すことしかできない。さまざまな様態において、無文字民族の芸術はこの後者の例証となっている。」 |
「神話は、ある意味で、かつて起こった出来事ではあるが、常に起こっていることでもあったわけだ。われわれ現代人は歴史を年代順にしか見ないので、この出来事を形容する言葉を持たないが、神話は、そうした時系列の歴史を越えて、人間の存在の、時を超越した部分を指し示し、無数の出来事がただもう無秩序に渦巻く混沌のかなたに、現実の核心を垣間見る手助けをしてくれる、ひとつの芸術形式なのである。」(註17) |
「バリ島の人々は重要なことが行われる日を指して『時』あるいは『時期』とよび、そうでない日を『穴』とよぶ。バリ島人の日常生活の流れは、祭礼日によって区切られ、そこで一時止められて『時』が現われる。… 時計の文字盤によるような量的な流れでの何時といった時の認識はなく、どういう性質の時間があるかが問題とされるのである。」(註20) |
「言葉を話さない動物は、自然から贈与された自然の生成の力をあらわしている。わたしたちは、動物とかかわることによって、分断されていた意識と無意識とのあいだに、見えない力がはたらき、連続性と全体性とを回復する。芸術がそうであるように、優美である動物は、わたしたちの自己と世界との境介を溶かして、溶解体験を生み出すのである。」(註22) |
「音楽を時間本位のとらえ方をすること自体、西欧的な時間の概念に影響されている結果だといえるかもしれない。西欧以外の音楽、とくに東洋の音楽は最初からそれほど時間的ではなかったのではないか、あるいは、少なくとも時間はオールマイティではなく、より複合的な世界におけるひとつの要素であったともみられるからである。」(註23) |
「御神楽の演奏中、時間は殆んど停止している。現実の物理的な時間は時計の針の通りに過ぎていくが、精神的な時間は物理的な時間とは関係なく存在し得る。ヨーロッパの伝統的な音楽の概念は時間の経過として把握されるが、日本の、そして東洋の音楽の概念は空間的でもある。一度発せられた音は、物理的には間もなく消滅するが、精神的にはその場に止まって、次々と堆積してゆく。」(註24) |
「ホピ族にとって時間は、かつてなされたことのすべてが『のちになっていく』ということであるから、おなじようなくりかえしは浪費されるのではなく、蓄積されるのである。それはあとのできごとにまでもちこすような目にみえない変化を蓄積することである。」(註25) |
時制 | カムパ語 | キクユ語 | 英語 | 時間 |
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1. 遠隔未来 | ningauka | ningoka | I will come | 2~6 ケ月以内 |
2. 近接未来 | ninguka | ninguka | I will come | ごく近い未来 |
3. 不定近接未来 | ngooka | ningoka | I will come | すぐ先の出来 |
4. 現在 | ninukite | nindiroka | I am coming | 現に起りつつある行為、出来事 |
5. 現在完了 | ninauka | nindoka | I have just come | 1~2 時間前 |
6. 今日の過去 | ninukie | ninjukire | I came | 2 時間以内 |
7. 昨日の過去 | nininaukie | nindirokire | I came | 昨日 |
8. 遠隔過去 | ninookie | nindokire | I came | 一昨日以前 |
9. 無窮の過去 | tene ninookie | nindookire tene | I came | はるかな昔 |
「もっとも注目に値するのは、時間が長い過去と現在という二領域に分けられ、事実上未来が存在しないことである。未来の事柄はまだ起こっていないから、認識の対象になり得ない。それゆえ時間の構成要素に数えられないのである。未来は時間として存在しない。」 |
「神話に登場する霊たちはもともと『時間を超越した』存在である。慣習、観念、制度の起源がなんであったかはザマニの奥深くに忘れさられ、他の方法では説明できない。ザマニの領域に入りこむにつれて厚みをます神秘の幕からなにごとかを引き出し、ササの領域へ戻そうとする試みが、神話を用いた説明なのである。」 |
「あるがままに存在するものとしての〈自然性〉にたいして、自立的に超越するものとしての〈人間性〉を対置する文化こそが、不可逆性としての時間の観念を切実にレアルなものとする。また同様に、〈共同態(ゲマインシャフト)〉の生きられる共時性の外部に、自立する〈個体性〉相互のあいだの集合態(ゲゼルシャフト)的な連関― 客観化された相互依存の体系を展開する世界こそが、数量性としての時間の観念を実体化する。」 |
「『時間の圧力』としてわれわれが感じるものは、客観的に存立する以外には存立の仕様がないような協働連関に、現実の生活過程を依存しているという、市民社会的な関係性のうちに内在する矛盾の圧力に他ならない。」 |
「歴史としての過去の撥無をとおしての、神話としての過去の現在化。」 |
【図2 】ヴァールブルクのノートにクレオ・フレーノが描写した「稲妻としての蛇をともなった宇宙」(1895)
写真:The Warburg institute, London |
「インディアンたちは、自然現象や動植物のなかに生きた魂があると考え、とりわけ仮面舞踊によって、その魂に働きかけることができると信じているのです。荒唐無稽な呪術と筋道の通った目的論的思考とがこのように並存することは、わたしたちにとっては分裂の徴候のように見えるかもしれません。しかし、インディアンたちにとっては、これは分裂症的傾向を示すどころか、逆に、人間と環境世界とのあいだの際限のない結びつきの可能性を秘めた解放的な体験なのです。」 |
「ヴァールブルクによる断絶とは、ほかでもない、異質な要素のモンタージュとして時間それ自体を考えたことにある。それは『残存形成』の人類学的教えである。メタ心理学の平面における『症状形成』の教えは、それときわめて見事に対応する。」 |
「神話の実体のなかにわが身を滑りこませて、その超人的な力に与ろうとする呪術の本質は、メキシコ人たちの祭式が、そのおぞましくも劇的な形態のうちに示しています。」 |
【図3】〈蛇儀礼〉においてガラガラ蛇を銜えるインディアン(1924)
写真:The Warburg institude, London |
「洗礼を受けた蛇は、インディアンたちとの共同作業に容赦なく参加させられて、雨を刺激し、雨が降るように人間にかわって祈願することになります。この蛇たちは― 動物の形をした生きている聖人としての雨蛇なのです。… 儀式は、次のようにして最高潮に達します。すなわち、この茂みに近づき、生きた蛇をつかまえて体にもち、そして、その蛇を使者として草原に放つという順序です。」 |
「自然における事象の経過を把握できないときに、インディアンは、自分自身をそのような事態の原因へとそのまま変身させることで、把握への意志を貫こうとします。」 |
「神話的・象徴的思考は、人間と環境とのあいだの精神化された結合を求める闘いのなかで、観想空間あるいは思考空間としての空間を創造します。その空間を電気的結合は殺害するのです。」 |
「私は人文科学の究極目的は人間を構成することではなく人間を溶解することであると信ずるがゆえに、唯美主義者と呼ばれることを甘受する…しかしながら、個別的な人間性を単一の一般的人間性の中に吸収するだけで十分とはいえない…その仕事とは、文化を自然の中に統合し、さらに窮極的には、人間の生き方を物理化学的条件の全体の中に統合することである(『野生の思考』大橋保夫訳, みすず書房P296297)/ 歴史は無数の事象のなかから意味のある事象を取捨選択することで形づくられる。歴史はつねになにかのためのものであり、特定の集団を構成する結果にしかならない。それゆえ、レヴィ= ストロースは歴史をしりぞけて、文化という素材をもとにした構造分析をはじめるのである。『野生の思考の特性は、その非時間性にある。それは世界を共時的通時的全体として把握しようとする』(P313)と書くとき、それは彼自身のおこなう構造分析についての説明でもある。そのためには、世界は野生の思考による再構成を受け入れること、しかも、その可能性は無限にひらかれていることが保証されねばならない。」 |
「8月3日。すずかけ絵画クラブで佐藤は… レヴィ= ストロースの神話の研究と、記憶を貼り合わせた富塚作品には通じるものがあると話した。そこに〈ブリコラージュ〉という言葉が出てきた。物だけでなく、記憶や出来事などの時間軸も組み替え可能である、という考え方に私は強い衝撃を受けた。時間が一方向に流れない世界観があるなら、美術批評の拠り所であった『美術史』が無効になる。『現代美術』とは、造形美でも教育でもなく、近代の歴史観によって輪郭を保っているものかもしれない… 。その新しい思考法に興奮していた。『現代美術』と『アウトサイダー・アート』の境界線が『歴史』ならば、それを無効にする手法もあるように思えた。」(註30) |
(註1) | 『失われた時を求めて第7 篇見出された時』 マルセル・プルースト 鈴木道彦 訳 集英社 (2000.2001) 戻る |
(註2) | Levinas,E.,1978 ‘De l'existence a l'existant' Vrin 戻る |
(註3) | 『他者と死者― ラカンによるレヴィナス』 内田樹 海鳥社 (2004) 戻る |
(註4) | 「贈与論― テクネー, もしくは非対称性思考についての芸術人類学的考察― 」 中島 智 武蔵野美術大学研究紀要 No.36 (2005) 戻る |
(註5) | 「アートの極東― リージョナルな美学のための芸術人類学序説― 」 中島 智 武蔵野美術大学研究紀要 No.35 (2004) 戻る |
(註6) | 『残存するイメージ― アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間』 ジョルジュ・ディディ= ユベルマン 竹内孝宏他 訳 人文書院 (2005) 戻る |
(註7) | 「美術史を開く」 田中 純『残存するイメージ』(前出)に所収 戻る |
(註8) | 『アビ・ヴァールブルク― 記憶の迷宮』 田中 純 青土社 (2001) 戻る |
(註9) | 『ムネモシュネアビ・ヴァールブルクの図像世界』 松枝 到他編 和光大学表現学部イメージ文化学科 (2001) 戻る |
(註10) | 「悲劇」におけるディオニュソス型の知性= 芸術的思考については『ディオニュソスの詩学』(チャールズ・シーガル 山口拓夢 訳 国文社 2002)を参照のこと 戻る |
(註11) | 「失われた世界の復権」『未開の文明』 山口昌男 編 平凡社 (1969) 戻る |
(註12) | 『文化の窮状― 二十世紀の民族誌、文学、美術』 ジェイムズ・クリフォード 太田好信他 訳 人文書院 (2005) 戻る |
(註13) | 『日本中世に何が起きたか― 都市と宗教と「資本主義」』 網野善彦 洋泉社 (2006) 戻る |
(註14) | 『ポンピドゥー・センター物語』 岡部あおみ 紀伊国屋書店 (1997) 戻る |
(註15) | 『みるきくよむ』 クロード・レヴィ= ストロース 竹内信男 訳 みすず書房 (2005) 戻る |
(註16) | この結論は私自身のシャマニズム研究においても賛同できるものである。拙著『文化のなかの野性― 芸術人類学講義』(現代思潮社2000)を参照のこと 戻る |
(註17) | 『神話がわたしたちに語ること』 カレン・アームストロング 武舎るみ 訳 角川書店 (2005) 戻る |
(註18) | 『聖と俗宗教的なるものの本質について』 ミルチャ・エリアーデ 風間敏夫 訳 法政大学出版局 (1969) 戻る |
(註19) | 『人類学再考』 エドマンド・R ・リーチ 青木保他 訳 思索社 (1974) 戻る |
(註20) | 「境界の時間」 青木保 『文化の現在7 時間を探検する』 山口昌男 他編 岩波書店 (1981) 戻る |
(註21) | 中国における質的時間(=時間化された空間) については『比較芸術学』(C・D・フライ創文社 1961)を参照のこと 戻る |
(註22) | 『自己変容という物語生成・贈与・教育』 矢野智司 金子書房 (2000) 戻る |
(註23) | 「音楽における時間と空間」 一柳慧 『文化の現在』(前出) に所収 戻る |
(註24) | 「くにぶりの論理― 御神楽」 木戸敏郎 (同上論文に所収) 戻る |
(註25) | 『言語・思考・現実』 ベンジャミン・ウォーフ 池上善彦 訳 弘文堂 (1978) 戻る |
(註26) | 『アフリカの宗教と哲学』 J ・S ・ムビティ 大森元吉 訳 法政大学出版局 (1970) 戻る |
(註27) | 『ヌアー族』 エヴァンズ・ブリチャード 向井元子 訳 岩波書店 (1978) 戻る |
(註28) | 『時間の比較社会学』 真木悠介 岩波書店 (1981) 戻る |
(註29) | 『蛇儀礼― 北アメリカ、プエブロ・インディアン居住地域からのイメージ』 アビ・ヴァールブルク 加藤哲弘 訳 ありな書房 (2003) 戻る |
(註30) | 『ブリコラージュ・アート・ナウ… 日常の冒険者たち… 』国立民族学博物館監修青幻舎(2005) ちなみに、同様の試みは多摩美術大学の中沢新一氏や東北芸術工科大学の赤坂憲雄氏たちによっても始められている。本学においては‘Agora Musica’ プロジェクト(http://www.musabi.ac.jp/folkart/)を参照のこと。 戻る |
追 記: | 本稿は2006年度武蔵野美術大学研究紀要委員会より「専門家」においてさえ理解不能との理由で掲載拒否されたものであるが、脱魔術化プロセスを時間論的構造をもって概論した本稿は、当サイトより寄稿依頼のあった「再魔術化するアート」の〈序論〉に相当する内容であるため、ここに掲載していただいた。また、掲載にあたっては北澤憲昭氏、提髪明男氏、吉原沙織氏、および「現場」研究会スタッフの方々に御尽力いただいた。記してお礼に代えたい。 |