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「クリエーターズ&パフォーマーズライト」

大村益三(美術家)

  著作権という言葉ほど、ここ数年で一般化した言葉も珍しいのではないだろうか。CCCDやP2P、あるいは政府の知的財産戦略などの著作権絡みのニュース は、今では一般紙の社会面や経済面でごく普通に扱われている。また、個人のホームページに至るまで、(C)やAll Rights Reservedなどとと明記し、著作権を主張するスタイルも、今ではすっかり定着している。

 実は(C)な どとわざわざ記載するのは、方式主義を取る一部の国以外では、無意味な行為とも言える。と言うのも、現行の著作権法は、著作権が著作物の創作と同時に自動 的に発生し、その取得に手続を必要としないとする無方式主義に基づくからである。しかしその一方で、著作権表記の一般化は、著作権というものが、普遍的で ポジティブな価値を持つものとして、気分的に受容されている実態を図らずも表している。

 確かに一般的な著作 権の解説によると、著作権は著作者などの権利の保護と、文化の発展に寄与することを目的とするものであるとされ、著作権者が著作権を主張する際の拠り所と もなっている。だが著作権とは、特定のイデオロギー=信仰の産物である。そして信仰であるがゆえに、そこには正統と異端が存在する。

  先にも見たように、著作権は著作物の創作と同時に発生するとされているが、既にこの時点で正統と異端のふるい分けが、無意識レベルで行われているのを見る 事ができる。著作権法的に言えば、著作物とは、「思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」と定義され る。そして、そのような著作物を創作する者が著作者とされ、著作権が発生する。

 したがって著作権が発生する ためには、まずそれが著作物であるか、非著作物であるかを、この循環論法によって峻別しなくてはならない。そしてその結果、著作権は著作物であると認めら れた物にのみ適用されるのであって、決して表現全般、知的労働生産物全般に適用される事を意味してはいない。素朴な形で信じられているように、知的労働を 行えばそれで自動的に著作権が発生するという事はない。あえて言えば、そこではただ著作権を得られる可能性が自然的に発生するというに過ぎず、先述の (C)の明記も、著作物の証明ではなく、著作物にしたいという心情表明以上の物ではない。では著作物であるかどうかを決定するものとは、いったい何であろ うか。

 著作権の成立は、16世紀ヨーロッパで、出版産業に複製の独占権を与える経済的保護策として始まっている。そこでは作者の保護という概念は存在しておらず、印刷=複製における経済的権利、すなわちコピーライトとしての側面しか持ち合わせていなかった。

  その後、18世紀になって、ロマン主義的な天才観の出現や、市民階層の「教養」を示すための「鑑賞」という作品受容スタイルの一般化によって、作者(個 人)と観衆(社会)を分離するなどの、近代的な芸術家像が形成されると共に、著作者人格権的な部分=作者の内面的な保護が導入される事になる。

  著作権法上の著作物の定義、「思想又は感情を創作的に表現したもの」の一文は、近代的著作権法が成立したこの時代の芸術観の産物である。作者と観衆、芸術 と非芸術などの二分法は「表現=個人の内面の表出」を可能な物とし、「独創性」という信仰を発生させた結果、反復的な物を独創性の下位に置くようになる。 著作権法上での実演者の地位が低いのもここに根ざしている。また非芸術的表現、例えば料理やオリンピックの演技種目なども、「非芸術」であるために著作権 の対象外である。著作物であるかどうかの最終決定は、この近代的芸術観に合致するかどうかで決定される。

 し かし、その決定が行われるのは芸術世界の内部ではない。著作権は著作者人格権という美学的側面と共に、コピーライトという経済的側面を同時に持つために、 著作権の最終判断は芸術的判断も含め、芸術の門外漢である司法に全面的に委ねられる。その結果、司法の現場では、法律との整合性を図るために、しばしば凡 庸かつ珍妙な作品解釈に基づく判決を下す。そして司法の作品了解の範囲外であった場合、それは著作物として認証される事はない。

  現在の著作権法が、現実に適合していない事が隠しようのないものになってきたのは、複製装置の大衆化という技術的進歩に基づく社会変化が起こったからであ る。その一方で19世紀著作権法発生時の支配的芸術観が、そのままの形で残っている事もまた、適合性を失っている大きな理由である。例えば地面に穴を掘る だけで作品たり得るとするようなものに対して、それを著作物と認める事は、著作権法的には難しいだろう。少なくとも技術的な部分に関しては、法律家の考え る「独創性」とは一致しないからだ。この一点では、レッシグのクリエイティブ・コモンズも例外ではない。

 持 つ者と持たざる者。著作権法はこの格差をより強化する。現行の著作権とは支配的芸術観、世代間格差、経済資本の多寡など、一般的に社会的強者と呼ばれる者 により手厚くできている。また著作物として認められたがゆえに、逆に商業的価値の無い作品(レッシグの試算によれば全体の85%)が埋没する事を加速させ られてしまう。

 著作権法に言うような「文化の発展」というものがあるとして、そのためにこそ著作権から弾き 出される同時代の多くのクリエーターやパフォーマーは、経済分配システムも含め、現行の著作権とは別の権利取得の体系を必要とするだろう。そしてそれは恐 らく、著作権の外部にある何かに似たものになるであろうという予感がする。

(2004年10月4日)

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