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「美術と市場について」Vol.1    1 2 3

白川昌生

 美術と市場について考えようとすると、すぐに美術と市場という言葉の意味がもつ両義性にぶちあたってしまう。この両者はともに相互依存関係にあって、他方だけで考えてしまうことが難しいという、やっかいな歴史的構造関係をもっている。
 美術と市場も「近代」というくくりの中で、見ることがはじめて可能になるのだが、この両者は経済と文化の両面にわたる価値形成の現場を生み出してきてい る。フランスの社会学者、P.ブルデューは『芸術の規則』という本の中で、芸術パトロン層の喪失後における19世紀末の文学界の歴史を分析しながら、近代 的な意味における芸術と市場がその時期に出現してきたことを示している。つまり芸術の自律性についての作家自身の自覚、またそれを足場にして制作、発表、 認知させてゆく全過程を作家が引きうけていかなければならない、切迫した競争意識のもたらす現実感こそが「芸術の制度」を作り出したのであり、同時にまた 「制度としての芸術」を作り上げてきたことをブルデューはボードレール、フロベールの実例をあげて論証している。
 いわば既成の「芸術の制度」に批判的な立場、少数側にいるマイナーなグループの作家は、それが過去の権威に依存した「制度」でしかないことを示すため に、芸術の価値基準のあいまいさをつきつけてゆく作品、行動へと動いてゆく。そして自分たちに有利な新しい制度を古い制度に対立させ、あるいは新しい表現 を古い表現に、また新しい世代を古い世代に…という対立の舞台を公衆の面前で、批評やジャーナリズムというメディアを使ってさらしてゆくというラディカル な動きを行うと同時に、新しい世代の作品を買ってくれる観客を生み出し、既成の市場、価値にゆさぶりをかけるという効果を求めるのである。いずれにして も、利益の配分には限界があるため、新しい作家、古い作家の全員が等しく利益を手にするということは不可能なのである。この限られた資本の現場、市場をめ ぐっての闘争が、近代社会体制の成立とともに文化資本をめぐる闘争として市場の動向と連動し、不可分な構造を再生産していることが浮上してきた事実を、ブ ルデューは近代芸術の特性としてとらえている。
 文化資本をめぐる正統化闘争は、美術においては美術作品の画廊での売買のみならず、作品への批評さらには美術史、美術行政、外交、教育、法律、ジェン ダー、植民地、戦争等々の広範囲な分野にわたって展開されるものである。市場とよばれる場も、この広範囲な地形と重複しているので、単純に作品取引のオー クション空間に限定して考えられるべきではない。むしろそれぞれの空間や場が地政学的に相関関係の上に成立しており、重層化、ネットワーク化して動いてい る現場のダイナミズムを忘れてはならない。文化資本という言葉が示しているように、文化と資本が不可分になって動く現実、あるいは文化と経済が一体である 現実をふまえて、美術と市場という問題も考えてゆかなくてはならない。
特にポスト工業化社会の現代では特に、グローバル化してきた経済体制の中で、美術も同様にグローバル化し、そうしたシステム内で美術がとらえられてゆく 時、グローバル化したシステムから落ちていったもの、外れてゆくタイプの美術もありうる。現実にあるという認識から、再度、市場と美術の問題をとらえるこ とが求められる。アヴァンギャルドの再評価、認識ということもこのあたりから考えられるべきであり、すでに90年代に流行したアイロニックなアヴァンギャ ルドもどきの活動だけでは、既存の市場システムに再度依存してしまう結果、村上隆の例のように収束した現実がある。
21世紀の現在において、美術と市場の問題は既存のシステムにすべりこみ、いかに上昇してゆくかといった成功物語への戦略の方法やそのための共同作業だけ が重要なのではない。グローバルな美術/市場のシステムは博物館、展覧会、企業、基金、ジャーナリズム、インターネット等々までもまきこんだ文化資本の再 生産システムの動きを左右させる力を持っている。いわばかつてのアヴァンギャルド的な対抗活動は、このシステムの中では新しい消費財、活性材として作用す る程度のものへ弱体化されてしまい、対抗活動そのものの意味づけを読みかえる必要性が生じてきている。村上隆のフィギュア作品がクリスティーズで4000 万で売れたとか、彦坂尚嘉の作品がサザビーズにかけられるといったことは、基本的に日本の美術市場が欧米美術市場に依存し、評価される受動的な立場にある ということの現状の確認になる。そしてこの欧米での価値評価が日本国内での評価へと反映される時、明治以来何も構造的に変化していないことがさらに確認さ れる。
いわば美術と市場の関係は、結局のところ19世紀から成立、定着していった欧米の文化資本市場システムとポストコロニアルの地政学との両面にわたって、い かにそれらと渡り合って行けるかということに行き着く。なぜならグローバルな美術/市場のシステムとネットワークにおける重要なハブ的場所はニューヨー ク、ロンドン、パリ、アムステルダム、ベルリンあるいは主要研究所や基金のある都市と重なっており、21世紀の現在でも情報ネットワーク上でも、それらの 重要性はかわっていない。その反面ポストコロニアルな場所は、欧米と非対称的な関係におかれたままであることが多い。

だ からこそ私たちは、これに代わるオルタナティブな法的戦略と枠組み――すなわち、さまざまな社会的主体の特異性(私的所有権ではなく)を表現する〈私〉の 構想と、(国家による管理ではなく)〈共〉にもとづいた〈公〉の構想――言ってみればポスト自由主義的かつポスト社会主義的な法理論を考え出す必要があ る。〈私〉と〈公〉に関する従来の法的構想では到底その役目を果たせない。
(『マルチチュード』アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート著、NHKBooks、2005、p.37(下巻))

  このA.ネグリとM.ハートの提示に私も賛成するものだが、文化資本の再生産、流通、配分の民主主義的な意向と美についての価値感覚をどのように見つめて ゆけるかについては、いまだ明確な答えは見い出せないでいる。〈私〉と〈公〉ではなく〈共〉にもとづく足場をつくり出す、あるいはネットワーク内において も〈共〉の場を新しく生成してゆく作業が今や強く求められているのである。美術と市場の問題は、〈共〉という場を浮きあがらせてくるとき、新しい主体と美 術の可能性を提示できるのかも知れない。

(2006年1月22日)

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