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諏訪直樹没後20年 

「現場」研究会HPでは、コバヤシ画廊における「諏訪直樹没後20年追悼展 twenty years ago - 黙契の歳月」(2010年9月13日ー9月25日)の開催と連動して、諏訪直樹特集を掲載いたします。諏訪直樹と縁の深い方々からの広くエッセイを募り、彼の人となりを顧みると同時に、そのしごとが備えている現代的可能性をも照射したいと願っての企画です。今回の追悼展および本特集が単なる懐古でなく、諏訪直樹という存在を、ひとつの「現場」とし問い直す契機となることを願ってやみません。末尾ながら、お忙しいなか、稿料なしのエッセイをお寄せいただいた方々に心からお礼を申し上げます。諏訪直樹の没後20年を記念する大きなブーケとして、この特集を諏訪直樹の墓前に供えたいと思います。

「現場」研究会代表
北澤憲昭


「諏訪直樹没後20年追悼展 twenty years ago - 黙契の歳月」出品作家
岡村桂三郎
鈴木省三
中上清

(以下、掲載順敬称略)
北澤憲昭(美術評論家)
市川裕司(画家)
間島秀徳(画家)
大沢拓也(画家)
森田一(うらわ美術館学芸員)
古田亮(東京芸術大学大学美術館准教授)
菊屋吉生(山口大学教授)
山梨俊夫(神奈川県立近代美術館館長)



「日本画とは、何だ。」
岡村桂三郎

 もしも、あの日あの人に会うことがなかったら、そして、あの言葉を聞かなかったら、僕の人生は少し違ったものになっていただろう。そんなこともあるのだと言うことを、今更ながら感じている。
 諏訪直樹さんとの出会い、それは恐らくほんの数十分の出来事だったろう。しかし、そんな短い時間の出来事が、僕の人生をここまで導いてしまったことに、今までの自分の歩んで来た道のりを振り返り、感慨に耽ることもある。
 あれからもう20年以上の歳月が経ってしまった。

 それは芸大の博士課程を満期退学して助手になり一年も経たない頃のことだ。1988年の暮れ、僕は、なびす画廊で友人の山田昌宏君と展覧会を開いていた。
 その日、その展覧会の会場に山本直彰さんが、一人の友人を連れてやって来てくれた。そして、その友人、その人こそが諏訪直樹さんだった。
 諏訪さんは画廊にやって来るなり、画廊の人たちと和やかに談笑しながら、当時開催されようとしていた「ニュージャパニーズスタイルペインティング」のポスターを、画廊に貼っていたのを覚えている。
 僕たちは、山本さんから諏訪さんを紹介されたが、僕の方は、諏訪直樹という現代作家の事をその時まで知らなかった、と思う。山本さんたちが帰った後で、諏訪直樹がいかなる作家なのかを、山田君に教えてもらった。
 諏訪直樹という人は、体躯のしっかりした髭面の男であったが、どこか凛とした高潔な印象の人物だった。実際は4歳年上なだけなのだが、自分より10歳以上は年上に感じられた。
 一方、それに対面する僕の方は、大海の向こうから遥々やって来た外国人を前にした維新期の日本人のような心境であったように思い出される。これは、あくまでも個人的な感覚であるが、ともかく当時の僕にとって、現代美術という存在は、広い海の向こうの遠い異国のような存在に感じていたし、「日本画」というものが、他の美術の世界から隔絶された特殊な価値観を持った孤立した存在であるように感じていた。そして僕自身も、その価値観の中で純粋培養された「日本画家」の卵だったのだと思う。
 全く異なる文脈で育って来た二人、だから何しろ言葉が通じないような気がしていた。 
 その外国人は、僕たちに質問した。
 「日本画とは、何だ。」
 しかし、その時それに対する僕の答えは何もなかった。それまで、考えたこともない、聞いたこともないような質問であった。
 今となれば、「考えたこともない、聞いたこともない。」ということ自体が驚くべきことだが、「日本画」というものの存在を疑いの余地もなく受け入れていた当時の僕にとって、本質的に客観性をもった言葉故に、かえって衝撃的だったのだと思う。
 僕たちは画廊の片隅の小さなテーブルを囲んで、しばらく「日本画」について話していた。
「日本画は、伝統から切れている。その切れ方が、面白い・・。」
「・・・新岩絵具というものの存在の面白さに気付いて、このところ、あえて新岩絵具を使っているんだ。」
 などと、そんなことを語る諏訪さんの姿を思い出す。

 その後、諏訪さんは間もなく他界されてしまい、もう二度と話す機会は無かった。「日本画とは、何だ。」という言葉は、諏訪さんの死という取り返しのつかない出来事によって、まるで遺言のように心の中に深く残っていった。
 「日本画」しか知らない僕の前に、ある日忽然と現れ、巨視的な視点で「日本画」を語っていた人。そしてその言葉は、その後の僕自身の日本画観を構築していった。それが、僕にとっての唯一の諏訪直樹である。

 しかし、その出会いはそのことだけでは終わらなかった。90年代になって「日本画とは、何だ。」という言葉は、どう言う訳か、やがて美術界の中で大きな渦巻きとなっていった。もちろん僕も、その渦巻きに飲み込まれ、もみくちゃにされていったのだが、そんな中で、北澤憲昭さんをはじめ多くの諏訪さんのかつての仲間たちと出会うこととなった。その人たちは、どの人も個性的で不思議な魅力を持つ人たちだった。
 そして、その渦巻きは僕に様々な出来事をもたらした。例えば、諏訪さんと会ってからちょうど10年後、僕はある雑誌で、「もう僕は自分の事を、日本画家と呼ばない。」と宣言をし、ちょうど20年後、日経日本画大賞という「日本画」という言葉を冠した賞を受賞していた。よく考えてみると、節目節目に、不思議な因果である。
 諏訪さんが張り巡らした因縁の糸によって、知らぬ間に導かれ、ここまで連れて来られたのかも知れない。気が付けば、生前、諏訪さんが発表を続けていた銀座のコバヤシ画廊で、現在、この僕が毎年個展をやらしてもらっている。

 今から10年程前のことだったか、諏訪さんのことが日曜美術館で取り上げられたことがあった。その時は、僕も取材に協力させてもらっていたのだが、その取材中、諏訪さんの恩師である柏原えつとむさんや、奥様の桃子さんとお会いした。お二人とお話ししていて、初めて人間としての諏訪さんが如何なる人物であり、如何に苦労して生活し、制作していたのかを垣間見た思いがした。
 あらためて諏訪さんのことを、僕は、本当にほとんど何も知らないのだ、ということに気付かされた。

 ほんの少し話した人。いくつかの言葉。もちろん作品は、沢山見て来た。けれども、それだけで、僕の人生に大きく影響を与えてしまった人。
 そんなこともあるのだと言うことを、今更ながら感じている。

 あの質問への答えも、未だ見つけられずに、あれからもう20年以上の歳月が経ってしまった。


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鈴木省三

諏訪君は大器であった。その当時、画面を左右に流すように辷らせては序破急次々と場面転換を繋いでゆく鮮やかさに彼のことをまるで才気爆発、優秀なゲーム製作者のように思っていた。とりわけ古典作品を自分のゲームのルールに従って何故そうするかという説明をつけながら装飾的抽象画へと応用システム化して行くケレンミの無さはいつも唖然とさせられた。二次会へ向う夜道でそのことを八歳年下の彼に話すと即座に「近くに引っ越してくれば」と返ってきた。とにかくその中に入れて一息つける画面だけを求めてもがき続けていた私はこの言葉にどれほど勇気を貰ったかはかりしれない。昔から日本人は流行を追う一方、結局は豊かな空間感情をもつ名作を間違いなく選び古典作品として我々のもとに引き継いで来ている、不思議なことだという点でも一致した。諏訪君は承知していた。疾走し目標を確実に捉え、更にアクセルを踏みこみスピードをあげていった。


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20年目の秋      二人へ
中上清

今年の夏は異常な暑さが続いた。今日は台風の接近による2カ月ぶりの雨。
丁度あの日、君達、諏訪と若井の二人がカヌーの事故で亡くなった日と同じようだ。
あれから20年が経った。
随分いろんな事が変わった。とも言えるし、全然変わらないとも言える。
こんな風に時間は過ぎていくのか、という思いがよぎる。

僕は還暦を過ぎた。相変わらずだ。

作品の出品と合わせて近況報告。


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音楽にまつわる思い出――諏訪直樹追悼
北澤憲昭(美術評論家)

そのむかし金沢文庫駅の近くに、いわゆる「開かずの踏切」があった。永久に上がりそうもないその遮断機の前に、あのとき諏訪とぼくは並んで立っていた。初夏の夕刻だったと思う。なぜ、そんな時刻に踏切が開くのを二人して待っていたのか思い出せない。当時、世の中に出回り始めた純米酒に諏訪はいたく凝っていたから、金沢八景あたりの居酒屋に行こうとしていたのかもしれない。居酒屋へ誘うのは決まって諏訪だった。ぼくらは二人とも、金沢文庫駅の北側に広がる釜利谷という地域に住んでいた。
 電車が通りすぎるのを幾度も幾度も見送りながら、ぼくらは話をしていた。電車の轟音で会話はとぎれがちだった。中島みゆきの新しく出たアルバムのことが、ぼくらの話題だった。何というアルバムだったか覚えていないが、1980年代の後半、ちょうど彼女の創作活動が下降線をたどっている時期で、そのことをぼくが露骨に指摘したのを思い出す。それに対して、諏訪は、淋しげな表情を浮かべながら、こう応えた。それはそうかもしれないが、おれは、彼女がどんなに落ちぶれても中島みゆきのアルバムを買い続ける、と。
 ぼくは中島みゆきのファンというわけではなく、また、そもそもファンという在り方に違和感があるので、諏訪の言葉が何かとても訝しく感じられた。しかし、その淋しげな表情は深くこころに沁みた。いま思えば、そのとき彼は批評家と作家の関係に思いを馳せていたのかもしれない。思いすごしかもしれないけれど、ぼくらは、その頃、批評家と作家として近い関係にあったのだった。
 そのあと、話がどういう展開になったか何も覚えていない。シグナルの奏でるちぐはぐな音と、どこかのネオンサインをまだらに映す諏訪の横顔だけが繰り返しフラッシュバックするばかりだ。

同じころのこと。黄金町のガード下にあった中上清のアトリエで、月に一回、「読画会」という研究会を開いていた。近代日本絵画を新しい視点から読み直そうという趣旨の研究会だった。中上清とぼく、それに山梨俊夫、山本直彰、原田光、森田一、藤島俊会、諏訪直樹といった面々が板張りのアトリエで、毎回、熱い議論を交わしていた。ガード下の空間は二層になっていて、中上のアトリエは二階、階下は諏訪のアトリエだった。
 会が跳ねたあと、近くの酒場で一杯やるのが恒例だった。そのあと、黄金町の駅まで歩いて行って散会するのだが、居残り組は近くの「おかめ」という手狭なスナックに行って終電近くまででカラオケをして遊んだ。そこに諏訪がいた覚えがない。覚えがないけれど、諏訪の歌う「琵琶湖周航の歌」を聞いた記憶がある。あれは、どこかほかの場所だったのだろうか。諏訪は大の音楽好きで、オーディオマニアでもあったが、歌はあまり得意でないようで、周航の歌も音程にかなり怪しいところがあった。
 そういえば、「読画会」の帰りに焼き肉屋に行くこともあった。諏訪は、焼き肉屋に行くと次から次へ注文をして、テーブルの上を肉皿が覆ってしまうことになる。肉色に埋まるテーブルを前に、もうもうたる煙のなかで、大ジョッキを片手に次々と皿を平らげてゆくようすは、ほとんど「雄姿」と呼ぶにふさわしかった。
 彼は辛いものが好きで、焼き肉のタレもひどく辛いものを好んだ。辛みの感覚とは、つまるところ痛みの感覚なのだが、諏訪は、ひぃひぃ言いながらそれを楽しんでいるようなところがあった。「受苦」のセンスとでもいうべきだろうか。諏訪の辛いもの好きが牧師館の生まれと関係があると思いはしないけれど。

同じ頃のある夜、横浜から諏訪のクルマで釜利谷の我が家まで送ってもらったことがある。そのとき、車に乗り込むなり、諏訪はカー・オーディオのスウィッチを入れた。流れ始めた楽曲を聴いて、ぼくは思わず笑いだした。スピーカーから流れだしたのはモーツァルトのピアノ曲だったが、とても考えられないような演奏だったのだ。

――グレン・グールドだよ、と諏訪が言った。
――関節が外れてるね、とぼくが応じた。

夜の抜け道の曲がり角でハンドルを切りながら諏訪は高笑いをした。ヘッドライトに枯れすすきの群が浮かび上がった。暗い車内では、ピアノ・ソナタ第10番ハ長調K.330が狂ったように鳴りつづけていた。

ぼくの母の葬儀の前後に、諏訪はキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」に、沈鬱な表情でじっと聞き入っていたと誰かがのちに教えてくれた。あの淋しさと悲しさの入り混じった演奏を、その後、ぼくはいくたび繰り返し聞いただろう。1990年3月。諏訪が亡くなる数カ月前のことだった。

諏訪の追悼会の終わりに中島みゆきの「時代」が流れた。ぼくは、この歌をそれほど好ましく思っているわけではないが、山本直彰が、とつとつとした独特のスタイルで、諏訪と顔料の取り合いをした思い出話をして参会者たちの涙を誘ったあとだったので、妙に胸に響くものがあった。とくに、「今日は倒れた旅人たちも、生まれ変わって歩き出すよ」というセンチメンタルなフレーズに思わずじんときた。1975年にリリースされたこの曲は、その当時の陰惨な内ゲバの記憶ともオーヴァーラップしつつ、ぼくの胸を、そのとき確実に打った。

しかし、すべて昔のことだ。死んだ者たちを思い出す者たちも、やがては思い出される者になる。すべてが昔のことになる。なにもかもが磨耗し、細部を失い、崩落し、粉々に消えてゆく。時代は、変遷を繰り返しつつ、そのつどぼくらを巻き込み、巻き込みながら時の彼方へと徐々に連れ去ってゆく。

How many years ago
Were you and I unlettered lads
Mad as the mist and snow?

――W.B.Yeats


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諏訪直樹という轍
市川裕司

 1999年に美術大学に入り絵画科日本画専攻を志した自分を待ち受けていたのは、混沌とした疑惑と可能性に満ちた「日本画」の現実であった。特に2001年アメリカ・ロサンゼルスで行われた村上隆の展覧会「SUPER FLAT」はサブカルチャーを土台に日本のアートとして世界に印象づけるものであり、今に至るムーブメントの契機は衝撃的な出来事であった。また2003年には「現場」研究会主催で〈転位する「日本画」〉のシンポジウムが神奈川県民ホール大会議室にて行われ、揺らぐ「日本画」の枠組みはあらゆる角度から徹底的に検証されていたのである。一見すると盤石に見える「日本画」の世界がこんなにも浮き足立った側面を抱えていたことにとても驚愕した。その事例のひとつとして諏訪直樹の作品が取り上げられ、新岩絵具の現代的素材観などについて残したテキストも紹介されていた。以前から作家・作品を知り得ながらもこのとき初めて諏訪直樹を「日本画」に関わる仕事と認識することで、自分との接点を感じることとなったのである。当時学生として「日本画」の現状に混濁し、出口へ繋がる道標を探しさまよっていた私は、「日本画」の外側に触れているものに強い興味を抱いていた。それが諏訪直樹との出会いであり、また制作における苦悩の始まりであったのかもしれない。
 ミニマルな思考によって生み出される諏訪直樹の作品は、まるで広大な宇宙空間の一部分を切り取ってひとつの球体にしてしまったかのようなものだった。シリーズとして展開した「IN-CIRCLE」や「THE ALPHA AND THE OMEGA」には、一定された円環のシステムが、徹底美として顕在している。「波濤図」から「無限連鎖する絵画」における展開に移ると、作品の構成は風景ならざる自然の象として山水が表現されるようになる。殊に「無限連鎖する絵画」では無限という構成を「THE ALPHA AND THE OMEGA」のような円環構造にて切り結ぶことをせず、また未完によって閉じられないものにしてしまった。だがそれだけではない、流転という循環によって円を成すことのない無限の山水は、流れるままに展開する画面に身を委ねているように見え、次はどんな景色が見えてくるのか期待しているかのようである。だからこそ延々と繰り返す未知をそのままに無限連鎖の構成があるのだと思う。
 一方で、いざ実作を行う者として彼の仕事を鑑みると、実に隙がない。自ら式を提示して作品によって証明してゆく様は、方程式の解を求めているようなものである。恐るべきことには、苦心の末得られた解によって次の方程式を打ち立ててゆくことである。完成された作品が次の展開に意味をつくり出している。まるで問いかけるための問いかけを繰り返しているように。そうした諏訪直樹のつくり出した軌跡によって、私の創作は何度となく袋小路に追い込まれ、焦燥と失意に苛まれたものだ。無論若くしてこれだけの偉業を残した才と比較するのは無謀なことである。追いすがろうとすれば必ず足下をとられ、自分が自分であろうとするために、過剰な意識を費やしたりもした。そして気がつけば以前と少し違った歩みをすることで自己と作品を確認できるようになった。奇しくも今の私の仕事も現代美術の様相を呈しながら「日本画」のシーンに関わりを持つ側面もあり、「日本画」について考えさせられることが多くある。また作家活動を続けていくことすら非常に困難な時代であり、社会性によって生じる問題は作品そのものにまで影響を及ぼす有様だ。それでもこうした諸問題の中で自分の視線の先に何があるのか確信を持って歩んでゆかなければならない。作品を作り上げることによって何も解決できないこともあれば、問題が露呈するための作品でしかないこともある。だがこのジレンマこそが探究心を掻き立てもし、先達の深く刻んだ轍が道標となって次作への挑戦を企てているのも確かなのである。

 面識の無い私が諏訪さんの残した作品やテキストから受け取ったものは偏見に満ちたひとりごととして述べるしかない。それでもこうして時間を越えて諏訪さんを思う機会をいただけたことに感謝してならない。そして何よりも諏訪さんに心より感謝の気持ちを伝えたい。


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筆触の記憶―諏訪直樹の頃
間島秀徳

手元に1通の展覧会のDMが届く。諏訪直樹、岡村桂三郎、鈴木省三、中上清、山本直彰の、皆中堅どころの実力者である。少し前にグループ展の話しを北澤さんから聞き、諏訪は新作だよ、新作!と笑って話していた時に、どきっとした記憶がある。
 私が諏訪直樹の存在を知ったのは、芸大の大学院(日本画)を卒業する前後なので、1986年頃である。当時は、日本画系の公募展に出品することを断念し、現代系の貸画廊からの個展を開始していた時期に重なる。公募展の1点主義にはなじめずに、画廊空間全体を一つの作品として、いわゆる絵画インスタレーション的な作品を発表していた。日本的な絵画様式を変形させながら、形式と内容の在り方を模索していたのである。
 その後山口県立美術館における「ニュー・ジャパニーズ・スタイル・ペインティング」が開催され、現代美術において屏風や掛け軸の様式で作品を作っている諏訪直樹という極めて異色の存在を改めて知ることになる。
 当時の日本の美術シーンは、世界的なニューペインティングの流行の影響も受け、新たな波が押し寄せていた中でも諏訪直樹は特異な存在で、欧米主義への反発もあってか、その変化し続ける試みは、現代美術をも揺さぶった。
 そして突然の急逝の知らせ。その後に開催された追悼展やアート・フォーラムでの回顧展には、吸い寄せられる様に見に行った事が思い出される。何度も読み返したのであろうか、当時の展覧会のカタログは薄汚れており、鉛筆による書き込みも数多い。諏訪自身のコメントにもある様に、言葉化しながら実践に向かうその誠実な姿勢には多大な刺激を受けることになる。かつて美術家では李禹煥の言説にも影響を受けたが、諏訪自身による短いながらも生な叫びは、お前はどうなんだと挑発されている様で、頭から離れなかったことが思い出される。
 1993年になると、現代絵画の一断面-「日本画」を越えてと題された展覧会が東京都美術館で開催された。出品者は13人で、フロアー別に分類された中で確か3階に階段を上がり、諏訪直樹、間島秀徳、中上清、村上隆の順の展示であった。各作家には比較的広いスペースが与えられ、亡き諏訪氏は無限連鎖の後半部分をメインに展示されていた。展示を終えて作品が横に並ぶ様はとても感慨深いものであった。そこでの分類は、日本画壇とは隔絶しながらも日本的表現との関わりを絶つことなく制作を続けている作家たちとなっていた。北澤さんや中上さんにお会いしたのもこの展覧会の時期であったが、詳しい諏訪さんの話しはまだ聞いていない。
 2000年代に入ってからも2003年に岡崎市美術博物館、2007年には練馬美術館の上田コレクション展で、諏訪直樹の作品が出品された際に私の作品も出品することができた。練馬美術館では私の作品の向かい側が諏訪作品で、六つのサークルに斜めにタッチが走る良質の作品が何点も展示されていた。
 諏訪作品に初期から表れる、筆触の動きとその変遷は画面の構造を語る時には欠かせない事であろう。初期の静的な点描に始まり、金地を背景にした大胆な筆の動き、全てを塗り込まずに、常にどこかは動いている。画面が閉じそうな時には開放に向かい、ときには書のような一撃の筆跡も見える。そこからは線的な表現にこだわり、構造的に開いていこうとするこだわりが無限連鎖に向かうことになるのであろうか。
 絵画が死んだと言われる中で、あえて日本画に足を踏み入れ、絵画の本質を探ろうとする試みは、無限連鎖に集約されて展開し、永遠に中断することになる。
 始めのエピソードにもあったが、もしもの諏訪直樹の新作はあり得ないことではあるが、この20年間生き延びた作家として何をなすべきか? 私はとりあえず死について考えてみたいと思う。


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更なるハイブリッド
大沢拓也

 まず、生前の諏訪直樹と親交のあった北澤憲昭氏の文章の引用から始めたいと思います。三重県立美術館で開催された没後11年展のカタログから引用します。

諏訪直樹の絵画は、二重に「他者の欲望」(ジャック・ラカン)を体現するものであったということができるだろう。(二重の他者—諏訪直樹《波濤図》の成り立ちにかんするノート、北澤憲昭:『没後十一年 諏訪直樹展』図録、三重県立美術館2001年、p12)

 文中に「二重に」という言葉があるが、これは牧師館に生まれ育った諏訪直樹の西洋と東洋の二重性、さらには絵画へのアンビヴァランスを指摘したものと思われます。西洋と東洋の問題は、大きな広がりをもつものでありますが、ここでは「技法—材料」にまとをしぼって書かせて頂きたいと思います。
 作品制作を行う前段階として技法や材料の選定は作品表現における源基的な事柄だと思います。諏訪氏の作品図版や執筆を年代順に確認すると、「技法—材料」への考え方が徐々に変化している事にきがつきますが、この変化がコンセプトの一貫性を浸食するようにして進行していることに非常に興味を感じました。
 「技法—材料」へ対する考えの変化は作家として、無論、異例のことではありません。私が興味を感じた変化とは岩絵具を用いて制作をスタートさせた、その境界とそこからの展開であります。氏の作品で特筆すべきものは、数多の評論家が指摘しているように、1988年から1990年に制作された三部構成の大作《無限連鎖する絵画》ではないかとおもいます。この作品を制作しはじめた1988年前後は諏訪直樹の文章に岩彩にまつわる内容が出現しはじめるのですが、あるところで、彼は、その根拠を述べるようにして今回の表紙は、リトグラフとシルクスクリーンによる版画を原画に使用しました。<中略>つまりメディアの変化にともなってその内容をどのように変化させてしまうのか、そこに作り手の興味は集中しているのですが、、、、、。(「表紙の言葉」、『淑徳広報』、1988.7.1)と書いています。ところが、この文章を書く11年前の1979年3月の『美術手帖』に寄せた《THE ALPHA AND THE OMEGA》(諏訪直樹展、銀座絵画館)へのコメントにおいて一年ごとに表現スタイルを変えて人を驚かすつもりは毛頭ないのですが、今回は視覚的には大きく変わったようにみえるかもしれません。表現を支える思考や、その方法もこれまでの延長にあります。と述べ、「表現を支える思考や、その方法」の一貫性を強調しています。それが、「メディアの変化にともなって内容」が変わるという発想へと変わっていったわけですが、このような発想の変化はどの時期からなのか、という事については、推測として1987年前後ではないかと思われます。たとえば1987年に書いた文章のなかで諏訪は、物質としての金には興味をもてない。それよりも裏箔、金泥の仕事の方に親近感を感じる。(「色としての金は、作家の手の中でコントロールすることができる」 ACRYLART、1987.11)と書いていますが、ここからもうかがえる様に、今までの作品において用いた材料以外の「技法—材料」が、発想の転換のきっかけであり、さらには上にも記したように「岩彩」の存在が、その重要な契機となったのではないかと思います。現に1988年の「無限連鎖する絵画」では、材料として「アクリル、岩絵具、綿布」(『諏訪直樹作品集』、諏訪直樹作品集刊行委員会1994年、p127)と記載されており、「OC」シリーズでは同年制作の作品にて初めて「岩絵具」という記載されています。
 1989年に「無限連鎖する絵画」はPART2まで制作されることとなりますが「素材と語る31 岩絵具=諏訪直樹(Ⅱ)(『新美術新聞』、1989.8.1」)では私は、現在、アクリルのグロスメディウムで人工岩絵具を溶いて使っているが、初めて岩絵具を使ってみたときの驚きと戸惑いは、私の「絵具」に対する意識を変えるほどのもので、ちょっとしたカルチャーショックといってもよいものだった。<中略>岩絵具、特に人造岩絵具は、様々な文化事象無節操に結合した現在のハイブリット・ジャパンに最も相応しい顔料のような気がしてくると、岩絵具の特性について書いています。ここにいう「ハイブリット」とは、冒頭に引用した北澤憲昭氏の文章の「二重に」に関わることではないかと思います。ようするに西洋と日本、絵画へのアンビヴァランスという二重構造は「ハイブリット」としての結節点を成していたのではないかと思います。
 さてここでこの材料の変革をさらに客観的に考えてみたいと思います。なぜもう少し早期段階で材料を変更しなかったのかということです。しかしこの疑問は、諏訪氏の一貫した絵画への考え方への批判的接近を含むことになりかねません。表現思想の一貫性は非常に尊敬しているのですが、しかし《無限連鎖する絵画》における1988年から1990年の「技法—材料」を、仮に生きて継続し今でも制作していたとすれば「ハイブリット」における異種複合性をより崇高な次元へともたらしたのではないかと、諏訪氏の作品がはらむ方向性や文章から感じます。


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諏訪直樹のこと、再び、三度
森田一

 20年が経った。
 先日、北澤憲昭さんからの電話でこのエッセイを頼まれて、諏訪直樹についてまた思いをめぐらせることになった。
もちろん今年が彼の没後20年であり、展覧会を行うことは知っていた。それだけではなく、これまでにもいくつかの展覧会があり、折々に様々な話題があった。さらには何のきっかけもなく、突然フラッシュ・バックのように諏訪や一緒に死んだ若井正道のことが、日常生活の隙間を横切ることもあった。だから諏訪について思いを馳せる機会は、今までいく度もあったわけである。しかし諏訪について何かを書くということを前にして思いをめぐらせるのは、追悼展で一文を認めてから20年、作品集で年譜を編集しながら彼の後を追ってから16年振りのこととなる。その意味で、また、なのである。
 そのようにして、あれこれと思いを馳せる時、まず感じたのは、ある戸惑いと、そして息苦しさの感覚であった。20年前に止まったままの時間と直面することに対しての、あるためらいを含んだ戸惑いである。それは、否応なしに流れ続けた時間の果てに再び出会う諏訪に対して、というよりも、むしろその傍らにいる自分自身の佇まいに対する戸惑いと言った方がよいかもしれない。またそれは、行く末の方向も見当もつかず、あてのない希望と妙にはっきりとした諦観が入り混じったまま、思い込みだけが募ってゆく若い頃の息苦しさの記憶でもあった。10代の終わりから20代の前半にかけて、ともに芸大の油画を目指すところから、私はもっぱら見手の側に分かれていった。息苦しさの感覚が濃密であったその頃、私にとって諏訪はどのような存在であったのかということに、また思いを馳せてみる。
 誰もが知っているように、諏訪は早熟の才の持ち主であった。明晰な理論家であり、往々にして自信に満ちた実践家でもあった。私には、その生き方や進路の取り方はきわめて意志的で、時として力技のようにも見えた。そう言えば、台風で増水した酒匂川の堰に突っ込んで行った死に方も、力技とも言える死であった。かつて追悼展の中の一文でも触れたが、老成を感じさせる諏訪の話し振りと行動に、納得とともに反発を感じることもあった。それはひとつの求心力であったが、そのために距離を置く者もいたであろう。私は、もちろんその力に引き寄せられた者のひとりである。そしてその頃、私は確かに彼を頼りにしていたのである。先輩作家や評論家を呼び捨てにして論評する諏訪の態度すら、頼もしい、確信に満ちた姿に見えた。しかしそのような彼の姿を自らの道標や地図にたとえるとすれば、それは実際とはちょっと違う、大仰な言い方になるだろう。その後に続くわけでも、それによって進む道を決めようとするものではない。彼は、私の拙い思考や議論を省みる鏡のような、そして自身の立ち位置を探るための、あるよすがとでもいうものであった。多くの往還を通して、しかし何か具体的な目に見える影響を受けたというのではない。感化と言えば、それはもっと根っこの方にあったように思う。毎日、早朝から市場で働き、日曜日ごとに教会に通いながら、生活や仕事や信仰を丸ごと引き受けて絵に向き合う姿と付き合い、議論することは、私の甘い唯美的な思考を粉砕するのに十分であった。ただし粉砕した後には、あの歯茎を出してニコリと笑う、十分な優しさがあったことも付け加えておかねばならないだろう。
 そうこうするうちに、諏訪は作家として一躍(文字どおり!)注目され、私はその後、迂遠な道をたどたどしく(これも文字どおり!)通って美術館の学芸員になるのだが、自分で意図したつもりのその選択の中にも、ひょっとしたら彼へのある反発が、かすかに作用していたかも知れない。今、展覧会をはじめ美術館の業務に追われ、忙しく過ごしている毎日は、確かに充実の日々ではある。しかし諏訪の止まった時間に思いを馳せる時、そしてその時に感じる戸惑いと息苦しさのもとを辿ってゆけば、何かに動かされて仕事をし、生活し、つまりは流されて生きている自分を感じてしまう。それは何かしらのよすがを失くしたまま、どこかに連れて行かれるような感覚でもある。20年が経ち、諏訪のいない時間が堆積するにつれ、このよすがの欠落感が、常とは言わず、折節に意識されるのだ。
 巷間、人は二度死ぬという。二度生きるとも言う。肉体的な生と死、そして彼を知る人の記憶の中での生と、その記憶の死である。そして私は、よすがのなさという欠落の感覚として確かに諏訪の二度目の生を感じている。諏訪が逝った後、私のまわりの幾人かが死んだ。それにつれ、生の行旅も登り道を過ぎて下り道を辿ろうとしている感が強い。それはある寂寥の風景であるが、登り道にはなかった新しい風景でもある。この新しい風景にも、やはりよすがが欲しいと思う。


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諏訪直樹さんのこと
古田亮

 たいへん残念なことに、私は諏訪さんと直接お目にかかったことはない。2004年、東京国立近代美術館で開催した『琳派 RIMPA』展で現代のRIMPA作品として《波涛図No1.》を展示させていただいた時には、すでに亡くなられてから14年の歳月が経っていた。亡くなられた1990年といえば、私はまだ大学院生であったし、明治美術史の研究を主にしていたこともあって諏訪さんの個展などを拝見するといった経験もなかった。なので、何かエッセイを、と依頼されたときも正直にいって適任者ではないとお断り申し上げた。
  しかし、北澤憲昭さんからの真摯なるお誘いをいただいて、むしろ、すこし距離を置いて下の世代から考えたことを素直に言葉にすることで何かしらの役に立つのであればとお引き受けした。諏訪さんにかんする、今の私からのコメントは、“日本美術史の中での諏訪直樹の可能性”、といったものになるだろうか。
 諏訪さんが作家活動を始めたのは23歳くらいだが、はやい時期から彼が日本美術に興味をもっていたことはよく知られている。鈴木隆夫、若井正道、森田一とはじめた研究会では文人画、渡辺華山、明治美術、などがテーマとなっていたようである。そして、本人の言葉のなかで、影響をうけた作家、作品として、浦上玉堂、俵屋宗達、松林図屏風(等伯)、金剛寺蔵日月山水図屏風、の名が挙がっている。そうした古典絵画への高い意識、成熟した問いが、たとえば障壁画、屏風、掛け軸など伝統的な表現形態への接近を促したのであろう。そして、すぐれた日本東洋美術の表現を意識的に自作へ取り入れていった時に、かれは「もちろんこの方法には大きな危険がつきまとっていることも知っている。それは伝統という名の圧倒的な文化的優性因子への屈服の危険性であり、つまり近代日本画がその出発点においてなしたと同じ過ちを、再び犯す危険性である」(現代美術の新世代展、1883)と言っている。しかし、翌年のコメントでは「近代作家がつきつめながらどうしてもダメだった部分」「構成力のなさ、情緒性を正の要素に転換して自分でひき受けたいと思う」(アトリエ、1984.7)とさえ述べており、自覚的に日本絵画の継承という困難を引き受けようとしていた。
  それから5年後の1889年、かれはいよいよ「日本画」の本質に迫ろうとしていた。人工顔料(色砂)を天然岩絵具に見立てる今日の日本画を「擬制」であると糾弾したかれは、人工顔料を「日本画」から解放しようとした。「そのためには、(略)日本画のメチエとして信じられている質的判断から極力遠いところで、別のメチエの可能性を試みてみる必要もあるだろう。/私もそれを試み始めたばかりだが、容易なことではないのは眼に見えている」と述べている。その翌年、不慮の事故によって他界したことを重ねると、まるでこの言葉は自白的遺言のごとき響きがある。しかも、36歳という若さでの突然の終焉である。日本人の描く絵画はみな日本画と呼ばれる日が来るだろうと述べた、同じく満36歳で世を去った菱田春草のことを思わないものはないだろう。
 諏訪さんは芸大の油画科志望であった。日本画科を受験したこともなければ学んだこともない。その意味では日本画家ではないのだが、私は、室町時代にまで(いやおそらくもっと古くまで)さかのぼって日本美術史を相対化できた希有な画家として、かれを「日本」画家と呼ぶにふさわしいと思う。すぐれた「日本」画家とは、伝統に対して自覚的であり、しかも伝統を安易に利用するのではなく批判的に乗り越えようとする画家のことをいう。当然そこには想像を超えた格闘があり、また深い悩みもともなうであろう。
  諏訪直樹は、これから自身が歴史性を帯びていくことによって、間違いなく日本美術史の文脈の中で語られていく存在となるだろう。その可能性を見定めていくことは今後の私のしごとのひとつであるに違いない。

*本稿執筆にあたって石崎勝基編「年譜」(「没後十一年 諏訪直樹展」図録、三重県立美術館、2001年)を参照、引用させていただきました。


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諏訪直樹とニュージャパ展
菊屋吉生

 諏訪直樹が亡くなって、もう20年経ってしまった。とはいえ、私と諏訪との付き合いはごく短いもので、展覧会という、いわば仕事を通してのものであったし、東京と山口という距離的なへだたりもあり、頻繁に会って交流したというものでもない。ただ、彼に参加してもらった私の企画の展覧会は、私自身にとって大きな仕事の転換点となったものだったし、諏訪はまさにその中心的な存在でもあった。また同い年ということもあって、彼との付き合いは、お互いどこかしら共通する同世代としてのシンパシーを持ちえたものだったのではないかと感じている。展覧会自体も、諏訪にとっては新しい展開を発表する場ともなったし、ともかく意欲的に企画に参画してもらい、彼自身にも大いに楽しんで仕事をしてもらえたとも思っている。
 諏訪に最初に出会ったのは、昭和62年(1987)年6月で、ちょうどコバヤシ画廊で個展を開催している時だった。その展示を見た後、画廊近くの喫茶店で話しをした。すでに電話で日本画の画材による表現に焦点をあてた展覧会を企画していることを伝えていたが、当初はやはり、「日本画」という括りが彼にとっては気になっていたようだった。この頃はちょうど彼が屏風や掛軸装の作品を発表していた頃であり、そうした制作が単なる日本回帰や日本趣味として捉えられかねないことも充分警戒していたのだと思う。また彼自身、当時の制作に岩彩を用いながらも、伝統的なもの、日本的なるものを描くという意識は毛頭なく、しかもメディウムに膠ではなく、アクリルを使用していたのは明らかに意識的なものであった。現に膠で描いてみたという小さな習作を数点見せてもらったことがあるが、彼は実際のタブローではけして膠を使用することはなかった。また屏風や掛軸の形式も、あくまで彼の絵画の成り立ちや、絵画を構成するシステムや描写そのもののシステムの追究の過程としてのものであった。こうした意識をもった彼が私の企画に警戒心を抱くのは当然であったが、展覧会があくまでも表現の基底としての素材と、その時代表現との関わりを考えることをめざしたものであることを伝えると、諏訪も納得したようで、その後の話はスムーズに進んだように記憶している。またその時、彼が参加していた日本近代美術の研究会の内容にも話しが及び、現代美術の第一線で活躍している作家が、日本の近代美術の成り立ちについても並々ならぬ興味を抱いていることに新鮮な驚きを覚えたことを強く記憶している。もっとも、諏訪に限らず、この頃すでに制作者の側に、日本の近代を見つめ直そうという動きがしだいに成熟しつつあったわけで、日本の近代美術を専門としながらも、現代美術プロパーではなかった私はこの動向を全く知らなかったのだった。
 ともかく、日本近代の形成への興味という同じ土俵があったとはいえ、初対面にもかかわらず、そこまで深く話しを踏み込みつつ、また相手の話しを真剣に聞き入り、その内容を反芻し、自らの意見を確実に返してくれる諏訪の姿勢に、私自身すっかり魅了されてしまったのだった。
 展覧会では、会場をいくつかの区画に分けて、そのある程度まとまった壁面をふくめた空間全体を作品化してもらうこととした。諏訪の場合は当初から壁面のみの展示を希望していて、天井高よりも長く連続する壁面の必要性を話していたので、おそらく出品依頼した段階ですでに展覧会出品作である「無限連鎖する絵画」の構想が出来ていたのではないだろうか。実際の会場での展示作業自体は、すでに出来上がっている作品群を、事前に打ち込んでいた金具に連続してかけていくというもので、そう時間はとらないと考えていたが、どうも展示作品の高さがなかなか決まらず、結局吊り金具を3度打ち替えて、床面すれすれ(10㎝程度だったと思う)の高さに展示することになるのに、ほぼ半日かかってしまった。この高さについては、彼なりに意図やこだわりがあったはずで、以後のこのシリーズの作品は全てこの高さで展示されている。
 展覧会開会後に開かれた出品作家によるシンポジウムの際も、彼は積極的に発言してくれた。展覧会の趣旨もよく理解してくれていたし、その内容の面白さも大いにアピールし、盛り上げてもらったとも思っている。このニュージャパ展が、その後これほど大きな意味をもってくるとは正直のところ、私自身思ってもみなかったが、その展覧会の中心的な存在として諏訪は展覧会に力作を出品し、意欲的に関わってくれた。彼の参加がもしなかったら、今日におけるような重要な意義をこの展覧会がもちえたかどうかもわからない。
 眼鏡の奥の鋭い眼光、髭づらの強面と、諏訪は一見すると近づきにくい風貌だが、実に繊細な気遣いをしてくれる人間だった。強い意志の人であると同時に、とても正直な人間だとも思う。山口の美術館で開催した、80年代のイラストレーションの展覧会図録を見ながら、彼がぽろりと洩らした「ヘタウマな絵が描ける人間っていいよなあ」という言葉は、理知的に周到に描ける作家ゆえの偽りのない彼の羨望だったと今でも思っている。


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諏訪直樹追悼
山梨俊夫

 諏訪直樹と初めて出会ったのは、銀座絵画館で《波涛図》を発表した個展のときだったと記憶する。生身の彼自身と相まみえたのではない。作品によって諏訪直樹という作家を知った。
 その頃ぼくは、美術手帖の展評欄を受け持って、毎週少なくとも一度は銀座あたりの画廊を歩いていた。北澤憲昭と二人で、東京地域の画廊で開かれる個展を中心に月1回の批評記事を書いていた。とは言っても、北澤氏と何か打ち合わせなどして、互いに分担をきめて評を書く個展が重複しないようにしていたわけでもない。ときには同じ個展を二人で書いてかち合ったこともあったように憶えている。とにかくぼくは、予断を、あるいは予備的な情報をできるだけ仕入れないで、いきなり作品を見て評を書こうとしていた。北澤氏といまは親しい仲だが、画廊で顔を合わせたことはなかった。いま、当時の美術手帖をひもといてみると、1,980年の4月号で、1月に開かれた諏訪の個展を二人でそれぞれに取り上げている。
 画廊巡りをしても、そっと画廊の扉を開け、作品にじっと眼を凝らし、また音も立てずそっと画廊を出ていく。できることなら画廊主とも顔を合わせないようにした。作家が画廊にいても、こちらから自己紹介するでもなく、何だかまったくの素人が偶然画廊の扉を開けて入ってきてしまったような顔をして、作家から新しい仕事の意図や作品の説明を聞くこともなく、一度銀座に出れば、10数軒の画廊を静かに次々と回っていた。画廊主や作家につかまって話をしていると、とてもそれだけの画廊を回りきれないというのも、顔を合わせることを避けた理由にあったのだが。しかしそれでも、展評などをやって、そのときの美術の状況を知ろうとすれば、まず何よりも作品を通してでなければ始まらないと思っていた。作家や画廊主に話を聴いて人間関係に絡め獲られると、作品の言わんとするところが曇ってしまうと思いこんでいた。最初のころはそれで済んだが、そのうち、個展会場の写真を入手しなければならなかったので、あいつがいま展評をやっている男だと判るようになって、画廊主と若干の言葉を交わすようにもなり、作家を紹介されることも出てきて、忍者めいた画廊巡りは難しくなった。
 そんなわけで、《波涛図》を初めて見たとき、諏訪が画廊の奥にいたのかどうかも気に留めなかった。だから、諏訪自身に会ってはいない。ただ、《波涛図》は迫力のある興味深い作品だと思い、展評に書いた。
 その後、展評の担当を終えてからも幾度か個展を見て、作品の変化はある程度追いかけたが、諏訪自身には会わなかった。そう思い返して、ではいつ本人と顔を合わせたのだろうかと考える。それが、それから10年近くものち、読画会の集まりにぼくが初めて参加したときのことだったと思い当たる。諏訪や北澤、中上清、森田一たちが中心になって開いていた、日本近代の美術の研究会、読画会に、鎌倉の美術館でのぼくの同僚原田光氏に誘われて、諏訪直樹の横浜のアトリエに出かけた。初めて参加した読画会では、北澤憲昭がフェノロサの『美術真説』をテキストにして発表をしていた。へぇーこんなものを読むのか、と思って、よく憶えている。諏訪のその頃の風貌は、誰か他の人が描写するだろう。もっと若い頃は痩せていたらしいがそのときもどちらかと言えば痩身だった。初対面の印象は、若いのにちょっと態度が大きい男だな、というものと、発言の内容に筋が通りときに鋭いな、というものだった。読画会はその後数回、諏訪のアトリエを会場にし、それから京浜急行のガード下の中上清のアトリエに移った。諏訪は月1回の読画会にほぼ欠かさず出席していたし、会が終わればそろって酒を飲んだ。読画会の箱根旅行には、彼の車で出かけた。酒を飲んでは騒ぎ、風呂に入ってははしゃぎ、海辺の料理屋で魚を食い、楽しんだ。読画会の頃を振り返れば、思い出はさまざまに浮かぶ。それをここに事細かに書き連ねても栓がないだろう。諏訪は作家であり、作品を作ることに最大の精力を注いだのだから、彼の仕事に触れなくては意味がない。
 諏訪が《波涛図》を発表した80年代始め、周囲には色のない絵画がずいぶん蔓延っていた。あるいは、絵画のシステムそのものを主題として一種整然とした絵画が多かった。そういう傾向がまだ主流で、そのなかにあって《波涛図》は、屏風様に画面をジグザグに立てたところなどは絵画形式を自らの課題にした諏訪のシステムへの意識を感じさせたが、朱や青や緑を用いて筆触が波を描くように奔放に動く絵づくりに、また絵画が浮かび上がりだした兆しを見せて新鮮だった。日本古来の絵画のあり方に、諏訪は自分の絵画を切り開いていく可能性を感じ取り、その後もいくつかの試行を実践して、スクリーン状の作品や《無限連鎖する絵画》に連続していくことになる。《波涛図》は、その明確な端緒になっていたように思う。おそらく彼の内心では、踏み惑いや逡巡があったのだろうが、その時代、絵画というものが先へ向かう道を圧迫されて、息を潜めていたような状況にあったとき、まだ評価も定まらず見通しも効かない状態のまま、新たな絵画を掴む手応えを感じ始めていたのであろう。そしてそれは、《無限連鎖する絵画》の中途で断たれてしまった。ここで、諏訪直樹の絵画の語ることに思いをめぐらせ、詳細に論じ、彼の生きた時代との連関を考察することは、少々手に余る。
 彼が逝ってすでに20年。彼とともにそれぞれの時間を過ごし、時代を共有した者たちが、ともに楽しんだ時間の記憶から離れ、諏訪直樹の仕事を時代に返して、その位置や意味を時代や見取り図のなかで改めて読み直す時が来ているのかもしれない。同世代でもいい、あとからやって来て新鮮な眼をもった世代でもいい、1970年代、80年代の絵画を鳥瞰し考察する人間が現われなくてはならないだろう。諏訪直樹という作家は、その対象となる役割を担いつづけ、いまなお絵画の文脈のなかで確かに生きている。


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