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[緊急特別寄稿] 追悼片岡球子

山本直彰(画家)

1月21日、片岡先生の訃報に接した。信じられなかったが、103歳という年齢を考えれば認めざるを得なかった。不死身であるはずの巨樹が人知れず静かに逝ったのだ。人知れずというのは実は16日にお亡くなりになり密葬されていたからである。

僕は片岡球子から日本画を習った。あの頃、新設の愛知県立芸術大学は4年目を迎え全学年が揃ったところだった。入学式の後、各科に別れ教室(アトリエ)に入る。式のことは全く覚えていない。ここでの片岡先生の第一声が他の記憶を払拭したのだろう。それは、話の前に言って置くことがあると断った後で「大家になろうとする者は手を挙げなさい」という言葉だった。驚き呆れた。とくに浪人生活を終えたばかりの男たちは無視した。するともう一声「そうでない者は今から帰りなさい」荒々しい声に変わった。学生たちは徐々に手を挙げ、遂に全員挙げさせられていた。時は1969年、学生運動の真っ只中、安田講堂は噴煙を上げ授業どころか東大は入試さえ実施されなかった年である。時代錯誤だった。強引だった。その強引さに僕らは早くも大学への絶望と、日本画への幻滅を感じ取った。新入生は腑抜け、ズボンを剥ぎ取られたままで立たされたような大学初日を味わった。
当時の先生は、大学創立時の教授として女性が初めて男子を教える使命感に燃えておられたので、先生には全員作家にさせる、絵は趣味では描かせないという明治人の気魄のようなものが漲っていた。これが18歳の僕の片岡先生との出会いだった。だから、朝日新聞の田中三蔵さんの「明治生まれの気骨ある最後の女流画家」という訃報記事の一節に、教え子のひとりである僕は妙に納得してしまったのだった。

1学年は13人だった。遅刻と欠席は許されなかった。夏には1人減り、3年で1人減った。その中で胡粉の作り方、ドーサの引き方などなど一から習うのである。ここが油絵科とは違う。赤児のように僕らは絵画というより日本画の画法を識るのである。「日本画家は絵描きである前に職人なんだから」と言われた。疑いと信頼の彷徨する学生生活を送った。「今日は秘伝を教える」と言われたことが一度だけあった。こうした指導は知らず知らずのうちに師弟関係を、良くも悪しくも濃密にさせた。そこへ時々日本画の持つ精神性が忍び寄るのだからたちが悪い。小学校教諭30年をそのまま大学へ持ち込んだような扱いに僕らは面食らっていたところもある。先生は学生を私の子どもと呼んだ。僕らは引きながら、いつの間にか大きな渦の中に引き込まれているのだった。
週に2日から3日大学へ来られた。怖かった。怒り出すと長引き誰も止めることができなかった。今の大学ではあり得ない場景である。誰もがこんな人を見たことがない。後にも出会うことのない人物だった。

卒業してから辻堂のお宅へ呼ばれることがあった。僕の座る席からは先生の肩越しに、大観直筆の掛軸「堂々男子は死んでもよい」(天心)が見えた。
或る夜、画家の心構えの話になった時、先生はこう言われた。「あんたの今の言葉――魂、私は『命(いのち)』と換えさせてもらう」。この「命」に僕は黙した。この頃、美術雑誌の特集で長ドスのような番傘を持ち辻堂海岸を歩く着物姿の先生の写真を見たが、ほとんど明治の女博徒に映った。「絵は下手でなくてはならない」と巧みさを誇示しようと努める学生を呵し、「一生基礎」と事あるごとに言い続けられた博徒である。そう言えば学生集会で、「これで筋が通ったでしょ!」と全身で言い放ったこともあった。

この「基礎」について一度だけ質問したことがある。その答えはあまりにも一般的でがっかりした。その言葉を僕は先生の本意とは受け取っていない。先生の言う基礎とは、誰でもない自分にとっての基礎とは何かを、絶え間なく捜し求め出すことである。それは、決して届かぬものへのひたむきな狂気と言ってもよい。だから先生はそれを一生と言ったのだ。先生の作品と先生との40年から僕はそう解釈している。

面構えも富士も、ひまわりも裸婦も不器用が故に産み出された強靭なる平面である。その平面がまるで昨日描かれたかのように熱気を放つ。日本画の上流趣味を嫌い庶民を見つめ、「面構(つらがまえ)」シリーズでは時の権力者をポップ化し権力に屈しない絵師たちを同化して描いた。
同時代の美術に敏感に反応し、素材は日本画材に拘泥せず画法だけは伝統技法を貫き、まさに伝統と革新が混在する画家だった。かなりのエゴイストでありながら、常人離れした情の深さを同居させる教育者でもあった。

長久手の丘で「山本、絵を描くことは悲しいことなんだよ」先生はそう言われた。満天の冬星の下だった。思い出は尽きない。昭和の彼方から続けざまに言葉群が飛んで来る。平成も明治もない。ただ「命」という晩鐘が、これからの僕の内を低く響きわたるだろう。誰も持ち得ぬ筋の通った矛盾の音が――。

片岡球子 103歳 生涯独身 活火山だった。


(2008年2月掲載)

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