complex
mailto「現場」研究会について今月の「現場」研究会
archiveart scenepress reviewart reviewessaygenbaken reporttop

「世界」の創造

北澤憲昭(美術評論家)

 天地を造り了えたのち、神は、何かもの足りなさを覚えた。あしたは安息日と決めているが、このまま寝てしまうのではつまらない。何か、することはないだろうか。植物が生い茂り、動物たちが地を駆け、鳥たちが空を舞う天地を眺めながら神は退屈していた。
 退屈していたばかりではない。無聊をかこちながら永遠に天地を見守りつづける自分を想像して嫌気がさしてもいた。それは畏れでもあった。なにもかもが自動的に動いてゆく天地はうつくしいばかりで、すこしもスリルがない。天地を引っ掻きまわす存在を投げ込んでみよう。神は、そう思った。思い立つと、すぐに何かせずにはいられなかった。神は退屈な境遇をすでに脱しはじめていた。
 天地を掻きまわすその存在は、かならずや自分の分身でなければならない。神は、そう思った。なにしろ、自分自身の退屈をまぎらわすためのアイディアなのだから、自分の分身として意のままになる存在を送り込まなければ意味がない。そこで、神はみずからに似せて土の塵でアダムを造り、その肋骨からイヴを造った。はじめ神は、かれらを天地の自動運動のなかに組み込んだが、頃合いを見はからって自由意思を与えた。神の意思と、みずからの自由意思の軋轢のなかでアダムとイヴは人間になっていった。
 こうして天地は神の退屈しのぎのゲームの場となった。セックスあり、盗みあり、強姦あり、殺人あり、そして、戦争があり、あるときは人間と動物のすべてが水に呑まれそうになる危機的状況さえあった。神は、人間を主人公とするゲームを、よりスリリングで面白いものにするために、天地の動きを操作できるように設計を変更したのだ。天変地異によって人間が右往左往するさまを見て、神は笑いころげた。みずからが演出するドタバタ喜劇に、神は、いたく満足した。「天地」は、ここに至って「世界」となった。
 ゲームにのめり込んだ神は、さらにゲームを盛り立てるために、自分の手足となる存在を登場させることにした。処女を懐胎させるという異常なやり方で、神はそれを実行にうつした。イエスの誕生である。ところが、やがて神は、イエスの存在を――God‐manと呼ばれる息子の存在を――疎ましく思うようになった。生真面目なイエスのために、ゲームがコメディから悲劇へと転じ始めたからだ。
 そんなはずではなかった。神は退屈しのぎのコメディを求めて、この世界をゲームとして造りだしたのだ。しかも、残酷なコメディこそ神の好みであった。このような神の思惑をイエスは裏切ったのである。とはいえ、イエスは世界を引っ掻きまわす自由意思をもつ者のひとりなのだから、神への裏切り行為は、予想されて然るべき行動であったし、神は、裏切りを、もちろん予想していた。しかし、その結果は、予想以上のものであった。イエスは、神の子としての能力を駆使しつつ、神の名において、あらたな秩序を人間たちにもたらそうとしたのだ。これは、決して許すことのできない裏切り行為であった。退屈すること、それこそは神にとって最大の畏れであったのだから。
 このような場合を想定して、神は、イエスをゲームの場から退場させるコマンドを準備していた。それは悲劇を終わりにするための悲劇であった。かくて十字架が、ゴルゴダの丘に立てられることとなった。安息日の前日、磔刑による窒息死を前にして、イエスは最後の息をふり絞って、こう叫んだ。エリ、エリ、レマ、サバクタニ――わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまうや。だが、実相はちがっていた。神がイエスを見捨てたのではなく、イエスが神を見限ったのだ。新約的世界は、旧訳的世界への巧妙な裏切りに充ちている。
 以後、世界は無類のコメディとして展開しつづけて今日に至っている。大量虐殺も戦争も、自然破壊さえも、すべて神の仕組んだコメディゲームの一齣にすぎない。なにしろ、復活が約束されているのだから、すべてはコメディでありうる。誰も、ほんとうには死んでなどいないのだ。ほんとうの悲劇は、復活のときを待って、その幕が切って落とされる。ゲームの上がりであり、「世界」の終わりである。
 ただし、ゲームの上がりは、まだ、だいぶ先のことらしい。残酷なコメディゲームは、しばらくつづく。来る日も来る日も神は、みずから設計したクリックゲームに打ち興じながら笑いころげている、満月のような腹をかかえて。

inserted by FC2 system