亡霊としての芸術

〈眼のブリコラージュ〉【註1】のための覚書


中島 智(武蔵野美術大学・慶應義塾大学兼任講師)


目次

一章 形象石—イコン・シーニュ・無意識

二章 心霊写真—ポストモダン・死・表象

三章 写真—不在・リテラシー・プンクトゥム

四章 知覚—欲望・身体・憑依

五章 裂け目—贈与・ポテンシャル・創造



一章 形象石—イコン・シーニュ・無意識


 ロジェ・カイヨワは、彼がかつて二十歳を過ぎたばかりの頃に「跳ね豆」の原理【註2】をめぐって訣別したアンドレ・ブルトンが、まさにパリの病院で息をひきとるのと前後して、イメージをめぐる二冊の論集【註3】を上梓した。そのなかに「ピュロス王のめのう」という小文がある。

 ここで彼はガマエ(不思議なイメージを持つ石【註4】)について思いを巡らせている。俗に形象石と呼ばれるそれは、古来より超自然的な物語が付され、あるときには図像を描き加えられながら、その一部は名家のヴンダー・カマー(驚異の部屋)を飾るコレクションとしても珍重されてきた。なるほどガマエの多くは瑪瑙(めのう)や大理石などを割ることで現れるのだ。先の「跳ね豆」が割られない(内部調査をされない)ことで神秘を保っているのに対して、形象石はその内部が白日に曝されることで或る奇跡をもたらすのだ。カイヨワは、東洋に遅れてヨーロッパでも鉱物を〈美〉として鑑賞するようになったのが最近のことであり、そのような知覚の変化をもたらしたのは近代の美術(が提示した事物性)であろうと推測する。だが、この歴史的知覚は彼にとっては導入にすぎない。ここで問題とされるのは「跳ね豆」のごとき隠匿された神秘ではなく、白日のもとにありながら、そこ(ガマエ)にさまざまな象徴的なイコノグラフィーを見いだしてしまう人類の、知覚の神秘である。

  類似のものを見つけ出すこの誘惑は、実在するもっとも普遍的なものである。この愛石家(ルコント) の脱線ぶりは、偏執狂的で漫画的な状態にまで熱中が高じた状態である。この素質は精神の機能の一部に 組み込まれている。自分は誘惑に乗せられないと公言できる人はいない。[…] 詩はまさにこの機能から生 まれる。詩はそれに支えられ、最も確実で独特な効果をそこから引き出している。詩においてもまた、あらゆる比喩は事物の隠れた関係を啓示するものであるように見える。【註5】

 だが、この何らかの類似を探さずにはいられない人間精神の性において読み取られたイメージは、多くの場合、芸術とは線引きをされるものだとカイヨワは述べる。その理由は「石のイメージにおける幻想的なものは生命のあるものとないもの、企図と偶然という両立しない二つの領分の交りあい、あるいは重なりあいの中にまさに存在することになる」からであり、そのイメージが人間に関わる人為性を持つとされながらも、その人為性を消し去らなければ不安となる(魅力とならない)ような性質を持っているからだ、というのだ。

 ここにはカイヨワを通じて露呈された鑑賞者という立場を保障する距離や、芸術作品を意味内容(企図)のための記号とみなしてしまう近代型のアート観が表れているように思われる。確かに偶然の造形であることが形象石に面白みを与えていることは理解できる。しかしながら、ここで示される線引きとは芸術行為が「人為性」の側に位置付けられることを暗黙の前提とすることによってのみ成り立つものなのだ。ならば、仮にここで「企図と偶然」を「意識と無意識」に言い換えてみてもよいだろう。「類似のものを見つけ出す」アナロジー的思考は、人類の思考基盤をなす無意識的な働きであり、そこからメタファー(詩)も生まれ、あるいは卑近なありあわせの事物や情報を組み合わせて新たな意味・機能を与えたり、見立てたりするブリコラ―ジュという働きが生まれた。その無意識的な思考については、それが遠大な神話世界から分譲(賃貸)マンションのインテリア【註6】までを無意識裡に具現化しているさまを思い起こしてみるだけでも十分に推察できるものであろう。また、生理学者ベンジャミン・リベットは自らの行為が意識されるまでに0.5秒以上の遅延が生じていることを明らかにし、芸術活動における無意識の働きの重要性について力説している【註7】。実際に、デクーニングにしても棟方志功にしても、画家たちは一様に自らの作品にまず驚くものであり、リベットが述べるように企図はつねに後付けでしかないものである。同様のことは、ちょうどカイヨワがこの考察を行なっていた当時、幻覚誘発剤であるメスカリンを服用しながらその引き伸ばされた微細な知覚のありようについての報告を次々に出版していたアンリ・ミショーも確たる実感として述べている【註8】。詩人である彼は、この実験以前から言語表現がもつ遅延に苛立ちを覚えながら、〈生〉の表現である絵画制作を詩作と並行して行なってきた。そしてメスカリンによってもたらされた〈生〉の、速度をもつ流動的な知覚を体験することで、ミショーにおける絵画の重要性は決定的なものとなる。もっとも、これは極端な例であるにちがいない。とはいえ、ミショーが述べているような、世界に否応なく貫かれ、その距離を失い、どこまでも無意識が先行している感覚は、事物が客観的に静態として在るのではなく、事物から眼差され、融合するような画家の知覚とさほど無関係とは言えないものなのである。この点については後ほど詳しく触れることにして、いま再びカイヨワに戻ることにしよう。

  詩が探り当てて危険を冒して持ち出す、感動させ教え豊かにするあのイメージの壊れやすい結びつきも またすべて、隠された原理を何としても読み取ろうとする同じ偏執から生まれたものである。この片意地 な性向は人間に普遍的に存在する基本的なものであるので、最も厳密な科学でさえもその支配に服し、最 初はその手引きを受ける。[…] 夢想もこの厳密な研究と同じ呼び掛けに答え、よろめきながらだが同じ道 を指向しているのである。本当らしさに従ってあるいはそれに逆らって、何でも手当たり次第に解釈しよ うとするこの永久的な奇癖がなかったら、知識の歩みも可能であったかどうか疑わしい。

 ここで彼が述べる「詩・夢想」と「厳密な科学・研究」とに共通する「偏執・奇癖」にかんして私が想起するのは、かつてカルロ・ギンズブルグが注目した徴候知(推論的パラダイム)【註9】である。この徴候知とは、カイヨワの言うところの「隠された原理」をいま見えている現象のなかから、その徴候(痕跡)を読み取っていくことにおいて推論していく知覚作用のことで、有史以前の狩猟生活から現代の日常生活まで、ことに恋愛や技芸、医学的症候学などに顕著にみられる知性なのである。ところがこの非言語的な認知技術は19世紀末に至るまで長らく学問においては度外視されてきたとギンズブルグは述べる。彼はまずその知性が学術に認知されていく先鞭を担ったものとして、ジョバンニ・モレッリの絵画鑑定法を挙げている。モレッリは絵画の真贋を見定める方法として、描写における個性的な努力のもっとも弱い部分にこそ動かし得ない無意識的な個性が現れてしまうことを見いだした。この「些細な点の特色的意義」を読み取るモレッリの鑑定方法にインスパイアされたジークムント・フロイトは、「精神分析もまた普通たいして重要視されていないような、あるいはあまり注意されていないような諸特徴から、観察の残り滓から、秘密を、隠されたものを判じあてるのが常である」と述べている。このような、一見したところ不必要に見えるものや副次的とされる与件が、隠れた真実を示すという認識論的モデルについて、ギンズブルグはまず「重要なのは、意識の支配外にある要素を芸術家の個性の中核と見る態度であった」とコメントしつつ、この当時、無意識的な行動のうちに個人的特徴を推論した人物として、モレッリ/《ホームズ》/フロイトを並置してみせる。曰く「この三者はいずれもごくささいな手がかりにより、さもなければ到達しえないより深い現実を捕えている。この場合の手がかりとは、正確に言えば兆候、きざし、絵画的記号である」。そしてギンズブルグは、彼らモレッリ/コナン・ドイル/フロイトに共通している点として、三者ともに医学に関与しており、医学的症候学を手本にしていることを推論している。

 精神医学者の中井久夫もまた、徴候知(微分回路的認知)を重視する人物の一人である。彼は「〈徴候〉は、何か全貌がわからないが無視しえない重大な何かを暗示する。ある時には、現前世界自体がほとんど徴候で埋めつくされ、あるいは世界自体が徴候化する」【註10】と述べている。また中井は、拙稿「再魔術化するアート」でも述べたように、この微分回路的認知に近接しながら失調してしまった例として統合失調症を位置付けている。すなわちそれは「人間にとって現在もなお有用、おそらく不可欠でさえあり、人類の生存と歴史を支えているもの」として内在化されているものでありながら「失調すれば究極的には分裂病になって現象するもの」【註11】であり、そもそも人類全体をひとしなみに1%前後の割合で冒しているスキゾフレニアとは「人類に非常に基本的に有用不可欠なものの少しのズレではないか」【註12】と言うのである。神話的思考や芸術的思考が、この微分回路的認知(徴候的認知)に近接していることをかねてより感じ続けてきた私にとって、中井のこの直観は、はたして人類の何%が芸術に〈失調〉するものなのだろうかという疑問をさえ抱かせるものだ。とはいえ、じつは表現こそ異なるものの、この感覚は私自身、画学生の時代から長らく抱き続けてきたものなのである。二十歳当時の私の表現は「なぜ免疫を持った〈健常者〉が圧倒的ななかで、美術に感染してしまう人が一部いるのだろう」というものだった。それは「アート」にたいする空疎な美化とブランド化が、いつなんどき逆転しても可笑しくはない逆しまの差別のごとく私の目に映っていたからである。その後、旅をすれば出会ってしまうシャーマンやアルチザンたちとの感覚的相同性が気になり【註13】…とここで冥々たる半生を記述するつもりはないので省くが、くだんの徴候知にかかわる事項としては数年前に「非作品」による展覧会を企画したことがある【註14】。そこには、彼らの作品(および非作品)がシニフィエ―シニフィアンの関係内部で読み解かれ得るものではなく、つまりそれは〈記号としてのシーニュ〉でできているのではなく、〈痕跡・徴候としてのシーニュ〉に他ならないのだという趣意があった。作家たちはまさにアトリエ【註15】のみならず、居間で、居酒屋で、誰も居ない空き地で、ふと足を止めた店先で、ふっと「世界自体が徴候化する」【註16】のだ。そして、それが何なのかを把握するまえに否応なく貫かれてしまうものだ。その働きが何なのかを探ろうと思えば、必然的にミショーのように無意識へのダイビングを試みざるを得なくなるのであろう。だが、無意識なるものはすでに徴候として、日常世界にあまねく、その片鱗を覗かせているものなのである。それはカイヨワが「人間に普遍的に存在する基本的なものである」と言うように、またギンズブルグが「実際には広汎に用いられているパラダイム」と言うように、そして中井が「人類に非常に基本的に有用不可欠なもの」と言うようにである。こうしたイメージやシーニュ、そして無意識と呼ばれる働きは、あらゆるところに認められるものだ。ただしそれが極めて活性化する、龍穴のような場所が存在していることも事実だ。ここでは先述したガマエ、そして芸術もその一つなのである。


1c1 KEISHOUSEKI FUKEI.jpg

Fig.1 形象石

1c2 KEISHOUSEKI suiseki.jpg

Fig.2 形象石(水石)

1c3 keishouseki shika.jpg

Fig.3 形象石《鹿》 三重県・鹿の湯温泉

1c4 michaux.jpg

Fig.4 アンリ・ミショー《メスカリン素描》1956~58

「紙の上に残された線状の痕跡は、彼に誰かを思い出させる、母や父を、すでに人間を、あらゆる人間たちを代表する人間、人間そのものを。」(アンリ・ミショー『アン リ・ミショー ひとのかたち』2007)


二章 心霊写真—ポストモダン・死・表象


 美術史家ジョン・ハーヴェイは次のように述べている。

   写真は一方では可視的世界を科学的に探求するための器具であり、と同時にそれは、全く逆に、亡霊た ちの姿を、超自然の世界を浮かび上がらせる不気味で魔術的なプロセスである。[ … ] すなわち写真と霊 は水と油のような対立物ではない。両者は奇妙なほど近しい。【註17】

 ヨーロッパの労働者階級にとって写真は一つの幻想空間であったと彼は言う。それ以前は、肖像は富裕層が独占する芸術様式であったが、写真が普及してくると、彼らは写真スタジオのなかで彼らの憧れる背景(舞台)と小道具を配することができた。そうした調度品に「エクストラ」の顔が侵入したのだと言うのである。しかしながらこれはつつましやかな撮影の情景であって、写真そのものの霊性についての説明にはなっていない。もちろん、異なる生活や人生へと変身させる肖像写真に、すでに現実のコピーに収まらない幻想性が宿っていたということは言えるだろう。だがそこでの写真そのものが持つ霊的な効果とは、「科学的に探求するための器具」としての写真について言えば、それが二重露光や合成による創作写真でない限り、そこに「何かに見えるもの」が現れたさい、写真が持っている事実性(客観性)という神話が生み出してしまう亡霊(というコンテクストの問題)について考えなければならないのではないだろうか。そしてこの神話こそが、写真スタジオにおける束の間の「変身」にも、一つの心理的な保障を与えているものではないだろうか。というのは、人間の心理において「客観的真実」がないことは言うまでもないことだが、科学(光学)的な写真においても、そこで捕え得るものはじつは「客観的偶然」に他ならないだろうと私には思われるからだ。また、ハーヴェイの言う「亡霊たちの姿を浮かび上がらせる魔術的なプロセス」としての写真については、おそらく記憶とその想起、あるいは失われたもの、かつて在ったものとその再現、すなわち〈表象〉という亡霊に深くかかわる問題だろうと思われる。

  このように考えてみると、心霊写真にたいして素直にときめくことができる人々にとって、この「科学的」であることと「魔術的」であることとは相補的に働いているものではないかと思われる。それは心霊写真がこれまでに多くのオカルティストたちによって、亡霊の存在を示す動かぬ〈証拠写真〉として語られてきた歴史をみれば明らかであろう。彼らは心霊現象は科学的に証明され得るし、証明されなければならないと考えているわけだ。つまり心霊写真は、霊の存在を証明するというよりも、むしろ心霊現象を客観的実在として把握/共有したいと望む心性の〈証拠写真〉として捉えることができるものである。あるいは明治43年に、念写という方法を通じて精神作用の霊妙さを証そうと試み、その実験成果の上梓をきっかけに東京帝国大学辞職に追い込まれた福来友吉も、そんな一人に数えてよいのであろう。ではなぜ〈写真〉なのか。おそらく心霊の媒体として写真が選ばれた理由は、X線という見えない光の発見とそれを可視化したレントゲン写真の技術が生まれたこととは直接には関係がない。それは科学的でも魔術的でもあり得るような驚くべき事件ではあったであろうが、決定的な要因ではないと思われる。ハーヴェイは次のように述べている。

  写真はその媒体的特性・技術的特徴に従って、亡霊の表現に関する一般に受け容れられたモデルを改訂 した。同時にそれは過去の記号を融合し、外部の視覚的資料を取り込み、その一方で写真それ自体を、本 質的に、精神/霊(スピリット)の媒体としたのである。

もちろん文化史的には、写真が持つ特性と亡霊の表象とが互いに相手を取り込みながら「心霊写真」を成り立たせていったことは事実に違いない。だが、ここでもなぜ写真なのかという問いは宙に浮いたままである。とはいえそれに答えるのはそう簡単なことではない。なぜなら、ことは半ば無意識的な、写真がもたらした知覚とそれによって写真そのものが帯びた霊性とにあると思われるからだ。

 小池壮彦は、心霊写真についての詳細な研究において、心霊写真にもモダニズムとポストモダンがあることを明らかにした【註18】。要約して言えば、モダニズムのそれは主にトリックを用いて創作された写真であり、ポストモダンのそれは偶然性の写真ということになる。この偶然性とは、ちょうどゲシュタルト心理学でいうところのプレグナンツの法則、あるいはロールシャッハテストにおいてインクの滲みに〈像〉を投影してしまう精神作用のような、先述のガマエやアンリ・ミショーのドローイングにも密接にかかわるものである。こうした壁の滲みや天井の木目、煙や滝の模様、岩肌の陰影や茂みのグラデーションなどに、何らかの〈イメージ〉を読み取ってしまう知覚の働きは、それが投影法検査においても一定の効果を認められてきたことからもわかるように、無意識的なものとして認知されている。しかもそれはすでに文化的なものでもある。とはいえ、ここで注意しておかなければならないのは、イスラームやブッディズム、あるいはシャーマニズムにおいて、汎人類的に古来より探求されてきた無意識的なものには、幾重もの階層が認められており、決して意識/無意識の二項対立構造ではないということだ。そのような観点からみれば、無意識は言語のように構造化されているというよりも、そのような位層もあるといった表現にとどめておく方が正確なのだろうと思われる。つまり意識と無意識の関係は、意識活動を基準にすえた意識と意識以外ではないということだ。このことは、心霊にかんするイメージにも当てはまる。スピノザはある神秘主義者からの手紙に答えて「物を、実際あるようにではなくそうあってほしいと思うように語ろうとする人間通有の癖は、亡魂や幽霊に関する物語に際して最も著しく現われるということです」【註19】と警句を記しているが、そのように見えてしまうレベルとそうあって欲しいように見ようとするレベルとの間にもいくつかの階層があるように思われる。言葉でいえば、覚知や認知や認識、観想や観念などで識別されているのだろうが、ここでも意味するものとされるものとの対応は、それを語る主体によって少なからずブレているものだ。もっとも、文化的無意識についてしか言分けというものはできないのだとすれば、私たちは言述においてそう割り切る以外にはないのだろう。そこでとりあえずここで文化的無意識や心霊写真についてざっくりと述べてみるならば、それらはおそらく、文化の特質なるものがサブ/ローカルチャーに現れやすいという事実と関係があるのではないかということだ。この文化の特質なるものは、ギンズブルグたちが述べたような無意識的個性と類似している。それは異文化・他者から見てもっとも理解しがたいもの(の部分)として表れる。言い換えれば、それは民俗的なのだ。心霊写真および心霊現象は、まかりまちがってハイカルチャーとみなされてしまったアートとは異なり、いまだ歴としたサブカルチャーである。とすれば、そこには制度的なレベル(例えば創作写真において幽霊のジェンダーが女性であること等)から生物学的レベル(心霊写真に文化を超えて認められる特色として〈顔〉が見いだされること等のアーケタイプ)まで、さまざまな知覚の階層が含まれているに違いない。そしてそこには写真のフォークロアを映し出すようなイメージも含まれているのではないだろうか。

 では再び小池の言説に戻ろう。彼は「ポスト・モダンの「心霊写真」とは、要するに、誰でも撮れる普通の写真である」と言う。これは明らかに幽霊の〈像〉であるものよりも幽霊のようなものにリアリティが移行したということだ。しかしこうなってくると、それが幽霊なのかどうなのかにわかに見定めがたいという事態が生じてくる。そこで登場してくるのが心霊写真鑑定士や評論家たちである。つまり、こうした専門家たちは、その写真が何かを語っているのか語っていないのかが不分明となった様相において、それを文化的現象として言分ける霊媒として現れたのだ。それはカメラの普及によって人々が写真に抱いたある違和感、すなわち新たなリアリティ(知覚)と出会った戸惑いのようなものが、心霊というコンテクストで現れたということなのかもしれない。ともあれ、かくしてここに心霊写真の投稿と鑑定というシステム(サロン)が確立されることとなった。

 もう少し詳しく時代を追ってみておこう。戦前の心霊写真の特色は、幽霊が幽霊として写っていることである。そして「1960年代後半の心霊写真ブームは、ほとんど戦前の規範を崩壊させることで成り立った」【註20】と彼は言う。戦前の心霊写真に現れるのはほとんどの場合、身内の霊であったが、戦後から今日にかけては多くの場合、見知らぬ他人の顔に変わる。この予定外の写真は人々に不安を抱かせるものだ。そこでにわかに写真を供養するという需要が生じた。小池は、1920年に学術性をもって提唱された「心霊写真」という概念が70年代には通俗化すると述べている。そしてこの頃に「見る側の視線が勝手に幽霊を作りだすタイプ」としてのポストモダン心霊写真が主流をしめていくことになる。小池はこれを「失敗写真と心霊写真の区別が完全になくなった時代」と評し、さらに90年代以降については「幽霊が明瞭に写る写真が増えた今日の状況は、戦前への回帰といえなくもない」と述べている。そしてパソコンが普及した現在、心霊写真は投稿誌面よりもパソコン画面で見られることが多くなった。にもかかわらず、興味深いことに、そこで心霊はパソコン画面というメディアに棲み処を移したのではなく、相変わらず「パソコンのなかの心霊写真」のなかにいるのである。その理由について小池は〈写真〉というものが「現実を再現する装置」であり「幽霊は現実のなかにしか存在しない」からだと考えるが、このことはむしろ〈幽霊〉が再現=表象であるような側面を物語っているのではないかと私には思われる。その側面を主張したいがために、幽霊たちは〈写真〉がもつ「現実を再現する装置」という一般的なイメージに寄り添っているのだと。そしてこの、幽霊が再現=表象でなければならないと欲することは、ポストモダン心霊写真において鑑定士たちがしばしば言述する「死者たちが私たちにメッセージを伝えている」というロジックともどうやら無関係ではないようだ。

  レジス・ドブレは、〈記号〉の語源が墓石であり、〈表象〉の語源が死者の肖像であることから、死とイメージの起源や、墓と美術館の起源【註 21】について考察を行っている。

  おそらくヒト類にとって真の鏡像段階とは次のようなものだったのだ。すなわち化身、分身においてお のれを瞑想すること、そしてまた、すぐ傍らにある可視のものに、可視のものとは別の何かを見ることで

ある。それはまた、無そのもの、「いかなる言葉でも名称を与えることのできない、この不可思議なもの」 を見ることでもある。この心的外傷はきわめて衝撃的であり、すぐさま対抗措置が必要となる。すなわち、 その名づけえぬもののイメージを作ること、死者を生かし続けるためにその生き写しを作ることである。 【註 22】

 表象と死の関係についてはギンズブルグのほうが詳しい。彼によると表象とは、葬儀のときに「棺台に乗せられる蠟、木材、皮革製の人形」のことであり、亡くなった個人を表現する「死者用のシーツに覆われた空の葬儀用寝台」のことであった【註 23】。つまりそれは、不在のものの代理、形代として、もしくは死を直視しないために飾られたもののことである。ここまでくれば幽霊が再現=表象でなければならない理由が明らかとなってくるだろう。クロード・レヴィ=ストロースは「霊魂の概念は、他のあらゆる知的な操作を条件づけているのと同じ原初的な論理操作の直接的な結果として生じるものである」【註 24】と述べ、霊魂の世界とは私たちが経験する世界の「複製化」なのだと言う。つまりそれは人類が何がしかを体系化していく操作のなかで、要素を交換可能な状態へと「複製化」することに由来すると彼は考えるのである。この複製化とは一種の〈記号化〉である。要するに、霊魂(幽霊)というのは、言語や貨幣と同じように交換もしくは消費されるべきものとして、あらかじめその命運を担った概念として流通しているのである。あらゆる記号操作はすでに亡霊的なのだ。そしてこの〈墓sema〉と不可分な〈送葬の呪具〉としての、代理=表象が指向しているものとは何か。それは言うまでもなく、死に抗するための表象作用である。そこで試みられているのは、死を〈他者の死〉に限定しながら葬ることである。死はつねに〈他者の死〉でなければならないというわけだ。そのためには幽霊としての表象をつねに捏造していかなければならないのである。このように考えてくると、オカルティズムもまた、じつは脱魔術化プロセスなのではないかとさえ思えてくる。ドブレも、こう述べている。すなわち「美とは常に、飼い慣らされた恐怖なのだ」と。


2c1 sinrei13.jpg

Fig.1 《心霊写真》

コンビニの床に現れた女性の顔(代表的な投稿サイトに掲載された心霊写真)

2c2 sinrei28.jpg

Fig.2 《心霊写真》

これらはモダニズムとポストモダンとの折衷型といえる心霊写真である(同上)

2c3 shounyu gankutsuou.jpg

Fig.3 《巌窟王》 山口県・秋芳洞

鍾乳洞は、現在なお〈見立て〉の宝庫である。これはラスコー洞窟空間にそれぞれ西欧建築に見立てた命名がなされていることも同様である。だが、もとよりラスコーやショーベに徴(絵画)を残した人々は更に高度な見立てを行なっていた。

2c4 shounyu 06.jpg

Fig.4 「洞窟天井の凹凸が […]ちょうどバイソンの肩や尻の肉の盛り上がり、足のあたりのくぼみと一致して、あたかも彫刻のような立体感があり、いまにも動き出しそうな姿なのである。」(齋藤嘉博『メディアの技術史』1999)

2c5 kigan zouiwa.jpg

Fig.5 奇岩《象岩》 倉敷市・国指定天然記念物

岡山の池田家所蔵古文書に宝永元年(1704)作の「六口島象岩の図」が残っている。もっとも〈象〉の形象を知るまでは別の見立てがなされていたのであろう。


三章 写真—不在・リテラシー・プンクトゥム


 ヴァルター・ベンヤミンは『写真小史』のなかで次のように述べている。

   精密きわまる技術は、その産物に魔術的な価値を与えうるのだ。[…]こうした写真を眺めるものはそ こに、現実がこの写真の映像としての性格に、いわば焦げ穴をあけているのに利用したほんのひとかけら

の偶然を、〈いま‐ここ〉的なものを、どうしても探さずにはいられない。画面の目立たない箇所には、 やがて来ることになるものが、とうに過ぎ去ってしまったあの撮影のときの一分間のありようのなかに、 今日でもなお、まことに雄弁に宿っている。【註25】

 前述の心霊写真研究のなかで小池壮彦も「幽霊は過去の残像である。常にノスタルジーと関係がある。写真の中に幽霊を見つけたとき、私たちは無意識のうちに歴史家になっているのだ【註26】」といみじくも述べているが、ここではイメージとともにある不在は、過去であると同時に、過去においてやがて来ることになる未来のことでもある。この意味において写真はそれを眺める人を歴史家に変えてしまうのだし、写真はそれ自体で〈心霊写真〉となる。この点は了解したうえで、ここでどうしても気になるがアウラとかかわる「ほんのひとかけらの偶然」のことなのだ。これは時制でいえば現在の、表象ではなく知覚にかかわる問題として抽出されるべきものであろう。すなわちそれは写真を眼差す、眼差しそのものの問題である。ベンヤミンはこのことについて、写真を眺める者は「目立たない箇所を発見せずにはいられない」と言い換え、さらに「視覚における無意識的なものは、写真によってはじめて知られる」と述べている。だがおそらく、それが写真的知覚と呼べることや、映画(動画)にたいする写真の先行性という前後関係があるにしても、その効果は現在、ビデオ映像においても認められるものなのである。私はこのことを実感している。昨年(2009)の春、私は都市公共圏における非目的行動を、デジタルビデオを用いて調査する「フラヌール調査」を始めた。調査地域は東京および横浜の〈任意の場所〉、対象は遊歩者もしくは遊歩状態にある人々である。ここでなぜ調査地域が〈任意の場所〉にならざるを得なかったのかというと、この調査では撮影者自身がフラヌール(遊歩者)とならざるを得なかったからである【註27】。パリのフラヌールについては、すでにベンヤミンが「遊歩者は周知のように「研究」しているのである。[…]芸術家や詩人が一番仕事に没頭しているのは、彼らが一番仕事が暇そうに見えるときのことが多い」【註28】と述べているが、実際彼らはきわめて微分的な知覚をもった注視者であると同時に、ある種の陶酔者でもある。そこにはまさに「ほんのひとかけらの偶然」を見いだしてしまう知覚作用が現れるのだ。それを映像はキャッチしている【註29】。だが、そこに映し出されたフラヌールの実態は、目的行動として、もしくは日常的(慣習的)な意識でもって、世界を記号的に把握している〈眼〉からはこぼれ落ちてしまうものなのである。いみじくもベンヤミンが言うように、カメラによって「意識を織りこまれた空間の代わりに、無意識が織りこまれた空間が立ち現れる」わけなのだが、この芸術家たちが生きているような知覚は、等倍速のビデオ映像では伝わりにくいということがある。よって、その知覚効果を伝えるには、スローモーションやコマ落ちに処理する必要も生じてくる。もちろん静止画にしてしまえば、ベンヤミンの言うところの写真的知覚に等しくはなるものの、これでは細かな所作などが織りなす動態としての「無意識が織りこまれた空間」は消えてしまうのである。ではフラヌール状態にないビデオ鑑賞者に、つまり「意識を織りこまれた空間」を彼(彼女)が見たいように見ている〈眼〉に、無意識的な知覚をもたらすためには、遅速化などの映像処理がどうしても不可欠なのであろうか。いや、そうではない。要は「リテラシー」の問題なのである。

 長谷正人は、このリテラシー(読み書き能力)にかかわる一つの興味深い事例を紹介している。それは小林秀雄がそのむかし小笠原諸島を訪ねたさいに目撃した、当時まだ映画を見慣れていなかった島民たちが、役者の演技などそっちのけにして「煙草の煙」に興奮していたというエピソードである。

  人々は、何やら合点のいかぬ様子であったが、一人の男が画面に現れ、煙草に火を付けて、煙を吹きだ すと、俄に場内が、ざわめき出し、笑声となり、拍手となった。唖然としていたのは、恐らく私一人だっ たであろう。煙が写し出されたという事に、見物一同驚嘆しているのだ、という事に気が附くのに、しば らくの時間が要ったのである。【註30】

 この、映画初期にはあちこちで見られたであろう鑑賞者たちの反応について、長谷正人は次のように解説する。

   人間は肉眼で世界を見るとき、自らの文化的な関心によって何かの対象に焦点を当て、背景の事物をノ イズとして切り落として自分に都合のいいように世界を見る。そのようなホメオスタティクな生理学的な メカニズムを人間は身体のなかに備えている。ところが機械としてのカメラは、眼の前の赤ん坊も背景の 木々も平等に捉えてしまう。むろん映画を見慣れた小林秀雄のような観客であれば、役者の演技に焦点を 当てて、煙草の煙はただの背景的な光景として視覚的意識から排除して見るだろう。しかし世界最初の観 客たちは、そのような映像のリテラシーを身につけていなかったため、「背景」で風に揺れる木々や煙の 動きをも、画面の中心にある被写体の光景と同じような真剣さで受容してしまった。【註31】

  映像は図も地も並列に映し出す。だが映像のそのような視覚特性は、映像を「見慣れた」人々にはもはや体験されることがほとんどない。映像が映し出すイメージもすでに慣習化されてしまうからである。そしてその慣習化にいくつかの枠組みと方向性を与えているのが、ここで言われる「映像のリテラシー」なのである。つまり、この「リテラシー」はある種の洗脳的な思考誘導とも言えるものだが、一般に行なわれているリテラシーにおいてもこうした性格をもつものが少なくはない。それは隠れた情報を推察していく能力であるよりも、情報を合理的に処理していく能力として推奨されることが多いからだ。このとき映像は、再び「意識を織りこまれた空間」と化すのである。小林が見た小笠原の人々は、まだそうした「リテラシー」には染まっていなかった。それゆえに彼らは映画のなかにカール・ブロースフェルトのような「物質の観相学」を見いだしたのである。

 事象を象徴界【註32】へと馴化させる表象的な知覚は、その反復可能性と、類同性への置換(複製化)によって、アウラを崩壊させる。そんな飼い慣らされた知覚にとって、ウジェーヌ・アジェの「行方知れずになったもの、漂流物のようなものを探し」、その場所を象徴する建築物や景観を素通りした写真は、新しい視野をもたらすだろうとベンヤミンは言う。そのためには、「生活環境や風景にしても、それらが真の姿を明らかにするのは、写真家がそうした対象を、それらの顔貌に現れている名をもたない現象において把握することを心得ている場合だけである」とも言うのである。慣習化された知覚は、写真家たちのアノニマスに宙吊りにされながら世界を注視する知覚のありように導かれて、新たな視野に開かれる。これは写真論というよりも、フラヌール論であり作家論であろう。「私たちの住む都市のどの一角も犯行現場なのではないか。都市のなかの通行人はみな犯人なのではないか。写真家——鳥占い師や腸卜師の末裔 は、彼の撮った写真の上に罪を発見し、誰に罪があるかを示す使命をもつのではないか」。ここで「罪」【註33】と表現されているものや「行方知れずになったもの」を感じさせる写真家の一人に山本真人がいる。彼は実際に殺人現場の写真集【註34】も出版しているのだけれど、美術画廊でインスタレーション【註35】を撮影しても同様に、そこに写された事物やイメージ以上に、それらを支えている不在なるものの強度を感じさせるのだ。それらの明白な事象のまえで、それを眺める者はホームズと化し、次いでその犯人の群像のまえで迷子になってしまうのである。

 さて話を戻そう。ベンヤミンの経験した「ひとかけらの偶然」に深くかかわる主題を考察した重要な人物として、ここでロラン・バルトに触れておかなくてはならない。彼もまた、あるコンテクストから写真を捉えていくのではなく、まず「野生の状態で、教養文化を抜きにして、向かい合いたい」【註36】と述べ、そのうえで「視線の歴史」を提唱したいと述べている。またバルトは、画家が自作品を眺めているときに起きているような、主体(自己同一性)のよじれや分裂が、写真においても、自ら被写体となることによって、自らが「他者」として出現する写真を眺めたさいに起きてしまうことについて触れ、その原因については「所有こそ存在の基礎であるとする社会」において写真がその所有権を混乱させるからではないかと考える。こうした体験を社会的な原因に帰すことの是非はともかくとして、ここで興味深いのは、その主体の分裂を契機として彼が「幽霊」となり「完全なイメージ」であるところの「死」の化身としての自らを見いだしていることだ。

  結局のところ私が、私を写した写真を通して狙うもの(その写真を眺める際に《志向するもの》)は、「死」 である。「死」がそうした「写真」のエイドス(本性)なのだ。

 〈死の表象〉と化した「私」が、写真によって導かれ、志向するものとしての「死」。あるいは、写真による複製化が亡霊を立ち現わせ、その亡霊がほかでもない「私」であることを暴いてしまう効果。ここにはすでに死に抗するものとしての代理=表象(死の他者転嫁)は不可能となる。こうした写真にたいする考察は、あるいは家庭用カメラの普及とともにまたたくまに全国に広まった、私たちがよく知っているあの民間伝承、すなわち「写真を撮られると魂が取られる」という思考とシンクロしているものなのだろうか。そこでも写真のエイドスは「死」なのだ。荒金直人は、写真経験とは意味の経験である以上に存在の経験であって「存在という〈経験の臨界点〉に向かう経験であり、意味の秩序に回収されまいとする経験である」【註37】と述べているが、そこで名差される「存在」とは、同時に「非在(不在)」でもあるエイドスとして捉えることのできるものだろう。写真は、バルトによれば「何も語りかけない」非意味的で反経験的な状態を通して、その向こうから、「不意にやって来るもの」によって存在するのである。そしてその存在は、主体の生成(変性)とも不可分なものなのであろう。それはベンヤミンが述べた、写真によってもたらされる「無意識的なもの」や世界の顔貌に現れている「名を持たない現象」とも無関係ではないように思われる。バルトにとっても、写真とは「パトス的なもの」であり、それはつねに、どこまでも、「任意のある何ものか」なのである。だがこのあたりの抽象的(にしか言説不可能)な議論はひとまず先送りにすることにして、ここでいったん先の「リテラシー」に冒されていない野生の知覚にかかわる話題に戻ることにしたい。

 バルトは『明るい部屋』のなかで、ストゥディウムとプンクトゥムという概念を提示した。ストゥディウム(studium・一般的関心)とは、慣習的(類型的)な情報、もしくは「教養(文化)という合理的な仲介物」を仲立ちとした、「平均的な感情」をもたらす写真イメージのことで、そこには「それが文化的なものであるという教示的意味(コノテーション)が含まれている」と言う。そしてもう一方のプンクトゥム(punctum)とは、ストゥディウムを破壊(もしくは分断)しにやってくるもので、主体が見たいように見ていく働きのことではなく、逆に写真のほうから「矢のように発し、私を刺し貫きにやって来る」もののことである。バルトの説明を引用しておこう。

  ストゥディウムの場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私はプンクトゥム(punctum)と呼 ぶことにしたい。というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のこと でもあり——しかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真 のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。

 ここで、私が本稿で述べてきた一連の無意識的な知覚作用に、このバルトが仮設した名前を与えておくことにしよう。すなわちプンクトゥム【註38】とは、バルトが写真のなかに見いだしたような、その写真を「表象=再現」から「愛する(to love)」の次元に引きだす、歯並びの悪い歯や足元の轍や指の包帯や短い首飾りといった〈細部〉に現れる名指し得ない偶発性【註39】だけでなく、詩人を慣習的メタファーから逸脱させる働きや、幻覚誘発物質によって引き伸ばされた微細な知覚が捉えるものや、古美術鑑定家がチューニングしていく意識的な表現の周辺にちらつく無意識的なものや、医学的症候学において鍵となる副次的与件のなかに現れるものや、狩人やシャーマンが拡散された注意によって受け取るものや、人が恋に落ちる瞬間や、心霊写真になり損ねた膨大な捨てられない失敗写真や、ひどく体調の悪い日に座り込んだ道端から見た街や、フラヌールがそのゆっくりとした足取りのなかで見ている事物や、スローモーションにした映像のなかで発見される同時多発的な状況や、リテラシーに冒されていない眼が捉えるものや、行方知れずになったものを追う写真家自身の眼や、画家の宙吊りにされた知覚【註40】など、そのそれぞれのなかに認めることのできるものなのである。それらは否応なく「私を貫きにやって来」て、私のうちに裂け目を徴すのだ。


3c1 B.jpg

Fig.1 カール・ブロースフェルト『美術の原形』1928

3c2 A.jpg

Fig.2 ウジェーヌ・アジェ『写真集』1930

3c3 y_left.jpg

Fig.3 山本真人『Buku Akiyama composition No.2』2008

3c4 Y_right.jpg

Fig.4 山本真人『Buku Akiyama composition No.2』2008

3c5 k.jpg

Fig.5 アンドレ・ケルテス《ヴァイオリン弾きのバラード》1921

「ある種の細部は、私を《突き刺す》ことができ るらしい。もしそれが私を突き刺さないとしたら、それはおそらく、写真家によって意図的にそこに置かれたからである。」(ロラン・バルト『明るい部屋』1985)


四章 知覚—欲望・身体・憑依


 教養や文化をこえた愛する次元にあり、主体に分裂を生じさせてしまうプンクトゥムは、もはやその情報の所在を特定することのできないものである。そこでは受け取ることと付与することは不可分であって、その前コード的(非言語的)で他者的(無意識的)なインタラクションは、主体を欲望模倣から引きずりだし、変形させる。もっとも、こうした精神過程は写真によって再発見されるものではあるが、写真に限定されるものではない。ロジャー・シルバーストーンは、プンクトゥムとは、言説するすべを持たないエロティックなものであり、「経験の隠された意味における無意識の領域」【註41】へのバルト流の試みなのだと述べている。確かにそれは、「私が名指すことができるものは、事実上、私を突き刺すことができない」とバルト自身も述べているように、意識される以前に貫かれてしまうものであり、ちょうど画家が表象作用のコンセントを抜くことで世界の余剰に貫かれているような、野生の資質、もしくは非文化的な知覚にかかわる問題でもあるのだ。

 ジョナサン・クレーリーはこう述べている。

  セザンヌは晩年、みずからのことをよく「感光板」になぞらえ、「受信装置」や「ばか正直な機械」に なることを熱望していた。[…]つまり彼は、確立された状態にある人間の知覚から解放されることを、 また図/地、中心/周辺あるいは近/遠という関係の外で、容赦なく世界を感知できる装置になることを 追求したのである。また、もしセザンヌがそのような機械的な知覚の新しさを提示するために、融解から の世界の誕生という原始的なイメージを喚起したとすれば、それは、ひとえに以下の目的のためだっただ ろう。すなわち、還元しえない不定形状態、つまり地平線も地形もない変化の過程にある世界、蒸気が立 ちこめ、ゆっくりと打ち震える色彩のみが支配する世界を、もっとも有効なかたちで表現するということ である。【註42】

 クレーリーは、バルトが写真を通して世界の偶有性を眼差したのと照応するように、画家がその没入する知覚によって捉えている偶有性について読み解いていくことを試みる。それは意味/無意味ではなく、注意/散漫のもつ相関性と、その歴史的な現れについてである。だが彼が近代における注意のさまざまな局面のなかで、画家の知覚に見るものは〈視覚〉に特化されるものではない。すなわち「注意に対応する形式は、けっしてもっぱら視覚的なわけでも、本質的に視覚的なわけでもない。そうではなくてむしろ、トランスや夢想におけるように、別の一時的性格や認識状態としても組織されるのである」。あるいは、その没入とは視覚の否認でもあり、反経験性でもあるところの溶解体験なのである。それはややもすれば美術家たちが生きる神秘を擁護するだけの言い古されたレトリックにみえてしまうかもしれない。だがそれはバルトがプンクトゥムと名差したものや、ギンズブルグが徴候認知型パラダイムと呼んだもの、あるいはベンヤミンがフラヌールを通して述べた陶酔的な注意とも陸続き(身体続き)のものなのである。こうした注意力が散漫さとも同一であるような知覚モデルについては、すでにフロイトも「均等に宙吊りにされた注意」【註43】として述べているところのものだ。また同様に、中井久夫もカウンセリング治療中に「自分が透明になり、ほとんど自分がなくなっている感覚があり、ただ恐怖を伴わないのが不思議に思われるが、フロイトの「自由に漂う注意」とはこういうものであろうか」と述べている【註44】。すなわち、そこでは主体が後天的なものとして産出される位相に還されることで、意識的で自己投影的な解釈におちいることから逃れつつ、〈他者〉に開かれるのである。クレーリーも、注意する主体とは「浮遊した存在状態」でもあるのだという。そして彼は「私の一貫した関心は、没入と同時に不在や遅延でもありうる知覚観念にある」と述べ、その関心においてマネ、スーラ、セザンヌという三人の画家を採り上げる理由については次々のように述べている。

  彼らの各々は、知覚の領域における互解、空隙、そして裂け目に独自のやり方で対峙した。そして、注 意する知覚の非決定性について先例のない発見をしたばかりでなく、そうした非決定性こそが、知覚の経 験や表象の実践を再構築するうえで、いかに基礎となるかを見いだしたのである。

 とりわけ晩年のセザンヌについて彼は、そこに歴史的な知覚からの離脱を見【註45】、その脱歴史化においてセザンヌが「世界の根源的な構造を新たにつくり上げようとしていた」のではなく、「みずからに影響を与え、認識可能な世界への足場を揺るがすような、不整合な外部世界と取り組むことを率直に受け入れていったのである」と述べている。ここでセザンヌたちが行なっている注視とは、世界に構造を付与していくような観察とは一線を画すものだ。むしろ注視によって、事物の包括的な把握や認識そのものが分裂を余儀なくされてしまうものであり、その結果、「知覚はその形成過程以外のいかなる形態もとりえない」ということを暴きださずにはいられないというわけである。このような知覚作用のことを人類学では〈憑依〉と呼んできた。しかしここではそれを、知覚が知覚そのものを成り立たせていく運動としての〈代謝〉という側面からみていくことにしよう。それはクレーリーがセザンヌ作品を詳細に追求していくなかで露わにしようとしている視覚の無意識であると同時に、注視によって裏腹に宙吊りとなる注意が、必然的に自己言及性を帯びざるを得ないような地平、すなわち〈身体への注意〉としても現れてくるものだ。

 そこで想起されるのが、死に至る病を患った人類学者ロバート・F・マーフィーによる、麻痺していく自らの身体をめぐるフィールドワークである。それは躍動する身体ではなく、徐々に停止していくことで、「私」に注意を喚起させ、「私」を鷲掴みにしてしまう身体である。その闘病生活のなかで明らかにされたのは、〈死〉に抗するものとしての社会的・文化的なコンテクストがその影のなかに放置してきた〈生〉への欲動であった。それは今日のイデオロギーにおいては旧弊な概念とみなされてしまいがちな、至高性のことでもある。「私は次のことを見いだした。すなわち、社会における個人のあり方の最も崇高な形が、傷ついた生による果敢な戦いの中に凝縮されているということ」【註46】。もっとも、すでに人類学者たちが証してきたように、すべての意味と価値は恣意的かつ相対的なものだ。しかしマーフィーは、その例外として「普遍的な価値」をもつものがあると言う。それが「生、それ自体」なのだと。このあまりにも直截にすぎるかに見える言説は、例えば生きる意味などを思い悩むことが〈生〉を何かの手段におとしめてしまうことに気付かないほど、人々が身体麻痺者以上に物象化された「文化」に囚われていることを暴くものなのである。換言すればそれは自らを、マーシャル・マクルーハン的な〈それ自体〉がメッセージであるところのメディアとしてではなく、意味内容を運ぶ手段としてのメディウムにしてしまうことだ。少なくともこの手の、道具や手段や容器としてのメタファーが、身体(および芸術作品等)にたいして慣習的に用いられることは、今日でもいまだに多々みられる。ではそのメッセージとは何か。もちろんこのような設問に容易に答えられるものではないし、〈生〉そのものがモナド的に存在しているわけでもない。

  そこで長らく認知的無意識がもつメッセージを探求してきたジョージ・レイコフらの言説を借りてみるとするならば、身体への注意や「生、それ自体」と連接するであろうところの身体化されたリアリズムについては、「少なくとも我々の生存に大きく関わるレヴェル」【註47】での環境世界とのリンクを提供するものだということになる。この身体と世界のリンク、運動相互作用の起きる場のことをレイコフらは「ベーシックレヴェル」【註48】と呼び、ここにはマインドの非身体化からマインドの身体化【註49】への移行プロセスが見られるとも言う。だがここにきて当然浮上してくるはずの芸術的知覚にかんする言及はなく、代わりに、身体化されたマインドから生じる霊的経験について以下のように述べられるのみである。

  イマジナティヴな共感的投射は、スピリチュアルな経験と常々呼ばれてきたものの主要な部分である。 瞑想の伝統は数千年にわたって、これを錬磨する技術を発達させてきた。注意の焦点と共感的投射は、そ れを練習することによって我々が世界の中に現存しているという感覚を強化することが出来る、我々に親 しんだ認知的能力である。

 この身体化された霊性としての技術(アート)については、レイコフらも、世界中のシャーマンたちが自然界とのあいだに恍惚を伴った溶解体験を実現することを例示しているのだが、この点については拙著【註50】ですでに触れているので割愛しておきたいと思う。しかし、ここでも身体にたいする注意としての知覚そのものの〈代謝〉や、メッセージとしての〈生、それ自体〉について言説化すること、つまりそもそも言語知の外部にある働きについて言分けを試みること自体が無謀なことなのであろう。私たちが語り得るのは構造水準以降であって、その原因水準ではなく、また顕在化している一角からであって、潜勢力の側からではない。とはいえ、顕在化している記号をただ集積しただけでは何も見えてはこないし、それをただたんに交換するだけでも虚しいことは確かである。ここでレイコフらが芸術という問題の手前にとどまった理由も、グレゴリー・ベイトソンがその問題に踏み込もうと試みた遺稿のタイトルを「天使がおそれて立ち入らざるところ」と記したのと同属なものとして捉えておくことができるのかもしれない。では、いま再びクレーリーの知覚論をみていくことにしよう。

 1900年以降のセザンヌに特に突出してみられる知覚の特色について、クレーリーは、遠近の距離感、すなわち対象と主体、事物とその表象といった関係性がそこで無化していることを指摘する。この知覚がもたらす効果については、すでに哲学者アンリ・マルディネが、眩暈を感じるときに最初におとずれる経験というレトリックを用いて特徴づけているものだが、さらにクレーリーにおいては「セザンヌの作品と映画とが、そのあらゆる違いを超えて提示していたのは、たがいに作用、反作用をおこなう変数要素の中心なき総体、とドゥルーズが描写したものの可能性」ということになる。これはセザンヌの溶解体験に対する一つの、きわめて構造主義的な説明と言えるものであろう。すなわち、そこでは、世界(事物連鎖)のうちにあって、一つの要素が(それが選択されることによって選択されなかった諸要素のうちの)別の要素を「変数」として導き出し、その召喚された「変数」はまた、反作用としてその背後に潜在している事物連鎖を存在として顕在化させる。つまり、大局的には〈選ばれなかったもの〉に導かれる働きこそが、創造の原理にほかならないということになる【註51】。こうした「中心なき総体」は、確かに溶解体験のなかで生じているものの一つと言えるであろう。またクレーリーは、セザンヌの作品には非人間的な知覚モデルが構成されているとする認識が、すでにフリッツ・ノヴォトニーやクルト・バッハ、ハンス・ゼドルマイヤー、そしてモーリス・メルロ=ポンティらによって語られてはきたものの、その非人間性には「新たな知覚技術」の発明と、その「隠喩的可能性」とが共時的に働いているのではないかと推察している。その「新たな知覚技術」とは写真であり、とりわけセザンヌの晩年の時期にはすでに定着していた初期映画のことである。この知覚についてクレーリーは、テオドール・アドルノを引きつつ、なかば無意識的に「生の領域」に浸潤していくような自然との融合であると説き、映画もまた「知覚するもの(percipiens)や知覚されるもの(percipi)」という関係を無効化することでそれ以前の西洋型の再現=表象をリセットしたと述べるのだが、すでに述べたように、その「新たな知覚技術」はレイコフらがいう練磨された知覚(身体化された霊性)を理解するための端緒として位置づけられるべきものであって、その「隠喩的可能性」を開くための新たなテクネーとして再評価することができるものなのである。

 ところでクレーリーは、このセザンヌの知覚と共通性をもつ「新たな知覚技術」、すなわち映像によってもたらされた知覚経験について、それは絶えず変調する生環境とのダイナミックで感覚運動的な相互作用によって、その事物からの眼差しによって、主体が再構成されることであり、もとよりその知覚はつねに身体的行動と不可分なものだと述べている。では、このセザンヌらにみられる事物から眼差されるような知覚経験と、バルトが写真から得た「私を刺し貫きにやって来る」経験とが一つの相似性を持つものであるとするならば、そのような経験にたいしてあらかじめ親和力が認められる映像メディアから創作活動をはじめた作家たちは、シャーマンや画家においてみられるような幾つかの知覚階梯をほとんど自動的に踏み越えてしまうのであろうか。あるいはそうかもしれない。ただその場合、知覚と切り離せないものである身体については、その一部を機械(カメラ)が肩代わりするものなのだろうか。あるいは、ながらく技芸の系譜にのみその湧出を許されてきたような知覚変容を、撮影設定や画像処理などの機構的操作によって一気に形象化していくような、その身代わりゆえに、クリエイティヴィティにとって不可欠な〈知覚の宙吊り〉が保障されているのであろうか。写真家の中平卓馬は次のように述べている。

  見ること、それは身体と切り離したところでは成立しない。身体をもってこの世界に生きてあること、 それはまた見るということをぬきにしては成立しない。こうして世界をよぎっていく、その身体にひろが る、あるいは身体化された空間、そのすべてが世界を構成し、その〈記憶〉、そのすべてが見ることの内 実である。【註52】

 おそらく、映像作家たちは踏み越えるのだ。身体はそのとき、知覚と同期しながら、そのようなものへとトランスフォームしていくことだろう。だが、バルトが、たいていの写真はストゥディウム(一般的関心)しか呼び起こさないと告白しているように、「新たな知覚技術」がそのような知覚経験をもたらすものとなるか否かについての一つの分岐点は、ここにもあるのだろうと思われる。


4c1 sarasa1.jpg

Fig.1 ヴァルター・ベンヤミンはハシッシュ体 験のなかで初めて「装飾」の意味を理解した。(ベンヤミン『陶酔論』1992)

4c2 munakata kurashikikokusai.jpg

Fig.2 棟方志功《壁画》 倉敷国際ホテル

棟方志功の近視眼と〈板画〉という技法が出会うときにも、プ ンクトゥムは発生する。

4c3 s1.jpg

Fig.3 ポール・セザンヌを〈眼差した〉、サント=ヴィクトワ―ル山

4c4 nakahira.jpg

Fig.4 中平卓馬《沖縄》1978


五章 裂け目—贈与・ポテンシャル・創造


  実体は影とともにあるばかりでなく、影はそれが存在することの証しでもある。影によって存在が明か されることさえある。この場合、影と実体は「伴にある」。そのような影の代表が写真である。【註53】

 亡霊は、ヴァ―ルブルグあるいはデリダがいうようにアナクロニスムとして、予期できない場所に、予測できないかたち(変形)をもって現れる。それは合理主義のもとにはぐらかされ黙殺されてきた、ある能力の再生であり、意味作用とは異なる側面において〈死〉から眼差された〈生、それ自体〉のことでもある。そしてそれは芸術と呼ばれる贈与作用や、その知覚のオートノミ―とも無関係ではいられない。

 写真家の港千尋は、影とは人類が永い時間をすごした洞窟のなかで「無意識の段階からの伴侶」として、イメージを育んできたものであり、またそれ自体が「いまだ表象とは呼ばれない、むしろ現象に限りなく近いイメージ」なのだと言う。そしてそこでは影は実体の属性というよりも存在のレベルにあるものとして、洞窟から写真にいたる、前‐表象的な亡霊(perception)の系譜が示唆されている。また港は、今日のコンピュータの普及によるイメージ技術の加速度的な発達がもたらしたものは、影そのものが実体であるようなイメージの一般化であることを指摘している。ここにはさまざまな側面【註54】があるだろうが、その一つとして太古の人類がその思考空間を育んだ洞窟的体験との近接性(もしくは残存)が認められるものなのであろうか。いずれにせよ、ここにも一つの分岐点がある。すなわち、それが実体を欺く影(表象としての影)であるケースと、予兆をもたらす影(徴候としての影)であるケースとに分かれるだろうということだ。

 また、これらの二つのケースは、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンによる言い換えでは〈ヴェールとしてのイメージ〉と〈裂け目としてのイメージ〉ということになる。

  私の考えでは、ジョルジュ・バタイユが身近なイメージ群の慰撫的な利用に対して、イメージが引き起 こしうる慰めようのないもの——「哀願」、本質的な「暴力」——を明るみに出そうと試みたとき、彼はこの 二重の体制を確かに想定していた。そしてモーリス・ブランショは、「無を否定する」ものとしてイメー ジを語ることは、正統であるがきわめて不完全であると述べた。イメージが逆に、「われわれに対する無 の眼差し」となる瞬間をも認めなければならないのである。そこから想像的なものの「二重のヴァージョ ン」という深遠な理念が生まれた。この教訓——現象学的な——は他方でラカンがちょうど同じ時代に、「想 像的なものの機能は非現実的なものの機能と同じではない」と述べたときにも、かすかに聞き取ることの できたものである。それからまた彼が、バタイユを髣髴させる文体の驚異的な数ページで、もっとも重要 なフロイトの初期の夢のなかの「恐ろしいイメージの出現」を分析するときもそうである。

  イルマの注射の夢をめぐる現象学によってわれわれは […] 正真正銘のメドゥーサの首という、恐ろ しい、不安を掻き立てるイメージの出現を浮かび上がらせるに至りました。[…] 文字通り名づけがたい

何かの顕現です […]。つまりそこには不安を掻き立てるイメージの出現があります。そのイメージが結

局のところ示しているのは、現実界の露呈です。いかなる媒介も不可能な現実界、究極の現実界、もは や対象ではない本質的な対象、しかもその前ではすべての言葉が止まり、すべてのカテゴリーが座礁す るもの、極めつきの不安の対象です。[…] 問題となるのは本質的な似ていないものであり、それは似た ものを補填したり補完したりするものなどではなく、主体の本質的な解体、破壊のイメージそのもので す。 [ジャック・ラカン『フロイト理論と精神分析技法における自我』]

  つまり「あらゆる言葉が身動きを止め、あらゆるカテゴリーが頓挫する」ところ——反駁可能であれ不 可能であれ、諸々の命題が文字通り不意をつかれるところ——においてこそ、ひとつのイメージが出現し うるのだ。フェティッシュのイメージ=ヴェールではなく、現実の内光を噴出するがままにさせるイメー ジ=裂け目である。【註55】

 以上、長々と引用したのは、私の実感している名付けがたいもう一つの亡霊について、これよりも正確に言述してみせることは困難だと感じているからだ。ここでディディ=ユベルマンが述べている「イメージ=ヴェール」とは、すでに心霊写真を題材にしてみてきたような「無を否定する」ものとしてのイメージのことである。それはまさに「イメージ群の慰撫的な利用」のことであるが、このことはたんに偶像崇拝者たちだけにみられることではない。ディディ=ユベルマンが「亡霊たちを激しく払いのける者こそが、自分がそれに取り憑かれていることの明らかな徴候を示してはいないだろうか」と述べるように、それは偶像破壊者たちによる、偶像(イメージ)に看取された権力(イメージに付与された権力)としても現れるものなのだ。すなわち、それは無を否定し、世界を象徴界へと取り込むことでなされた権力を同じ方法で奪還しようとすることに等しい。これが表象としてのイメージを支えているものなのである。ではこれと分別されるものとしてディディ=ユベルマンが示す「イメージ=裂け目」とは何か。それは表象不可能な死をフェティッシュなベール(イメージ)で代理するような亡霊ではなく、まさに「われわれに対する無の眼差し」としてのイメージである。そこにはセザンヌの知覚を通してみてきたような、事物から眼差され、貫かれ、分裂‐生成する主体がある。すなわち、それはどこから湧いたのか、その所在の探索を無効とするようなイメージであり、その源泉としての知覚作用それ自体であり、あるいはそのイメージが帯びる超個人的な症候/残存である。【註56】

 ところで、ディディ=ユベルマンにとって、パウル・クレーの『新しい天使』は「不可能な接触というドラマトゥルギー」である。彼はそこでベンヤミンがその天使について述べた「[彼は]自分の眼差しが釘づけになっている何かから、遠ざかろうとしているように見える」という言葉を引用しているわけだが、ここでの「不可能な接近」と、ディディ=ユベルマンが先述の〈裂け目としてのイメージ〉にたいして「我有化しないままの接近」もしくは「〈他者〉のイメージ」と言い換えていることが重なり合ってみえてくる。だとするならば、これは知覚作用(作法)とかかわるテーマとして捉えることが可能であろうし、もしかすると私の名差す〈もう一つの亡霊〉も〈新しい天使〉の別名として考えることができるものかもしれない。ディディ=ユベルマンは次のように述べている。

  『失われた時を求めて』の語り手が、突如として見知らぬ「亡霊」の視覚から祖母を見出すとき、彼は そのことを興味深くも、「写真を撮りに来たカメラマン」になって見ることだと名づける。そこではいっ たい何が起きているのだろうか。一方で、身近なものが変質する。眼差しの対象が、馴染み深いものであ りながら、「それまで一度も見たことがない」ような容姿を呈する(これはお好みでフェティッシュを作 り上げることとは正反対である)。他方で、同一性が変質する。眼差しの主体が、観察の実践に没頭する あまり、空間的、時間的確信を一瞬すべて失う。プルーストがこれを指して残した表現は忘れがたいもの だ。「帰ってきたばかりの短い時間のあいだは、とつぜん自分自身の不在に居合わせるという能力を手に する、長続きしない特権」。

 すでに既知であるはずのものが未知へと変質をみせ、没入する眼差しにおいて自らの主体の不在に居合わせる。このような「亡霊」の視覚(知覚)については美術研究者でさえますます回避するむきが増えているように思われる。しかし、その「自身の不在に居合わせるという能力」はいまなお失われてはいないのだ。では、そうした能力はどこから来るのだろうか。

 古代ギリシアでは、感覚能力や意志や知性は、主体の「能力」として構想されてはいなかった。ジョルジョ・アガンベンは「だとすれば、これこれの感覚作用はどのようにして感覚作用の不在において存在できるのか?」【註57】という問いを立て、そこからアリストテレスが「潜勢力(dynamis)」と呼んだ問題へと導かれていく。アリストテレスの『霊魂論』によれば、潜勢力には二種類ある。一つは習得を通じて主体が変質する、類的な潜勢力であり、もう一つはすでに技術や能力を習得している者がそれを行使しない限りにおいて、その欠如において実現している「もちよう(hexis)」の潜勢力である。だが、これらは現勢力に規定された潜勢力にすぎない。なるほど画家も絵を描かないときでさえつねに眼は描いているものだ。しかし、それはたんに技術という惰性が起こしている幻覚でもなければ、タブローという現勢すべきフィグラ(figura)を目的化した運動でもない。つまり、その潜勢力は現勢力の亡霊(simulacurm)として位置づけられるものだけではなく、むしろそうした規定こそがつねに恣意的で文化的かつ後天的な要素にすぎないものなのである。げんに私自身、アジア、アフリカ、ヨーロッパ各所においてその各文化フレームによって恣意的に規定される自らの作品形態の変化にはつねに驚かされてきた。このことは作品というものが、作家自身がそう認める前から(ましてや鑑賞者を持つ前から)その現勢力においてすでに社会的なものであることを示しているのである。ともあれ、ここで私が問題にしているのは、潜勢力のほうだ。潜勢力のほうはと言えば、その一部が現勢したさいにも、あるいは現勢しないままであっても、潜勢力どうしがめまぐるしい転移をやめないでいる「ありよう」にあって、それが例の知覚そのもののオートノミ―ともかかわる能力として捉えられる気がしてならないのである。この点についてはアリストテレスもまた、もし感覚作用が現勢力という状態のみにあるものならば、人間は闇を見ることも沈黙を聞くこともできなくなり、思考も形式なきものを認識できなくなるはずであり、ゆえに感覚作用は潜勢力に支えられているものなのだと述べている。

  これを受けてアガンベンはこう述べる。

  人間の潜勢力の偉大さは——それは悲惨さでもあるが——、それが何よりもまず、現勢力に移行しないこ とができるという潜勢力、暗闇のための潜勢力でもあるということである。[…]じつのところ、潜勢力 がただ見ることができるという潜勢力、なすことができるという潜勢力でしかないなら、つまり潜勢力が、 それを現実のものとする現勢力においてのみ潜勢力として存在するなら(そのような潜勢力をアリストテ レスは自然的な潜勢力と呼び、これを非論理的な要素や動物に割り当てている)、私たちはけっして闇や 麻痺の経験をすることができず、「欠如(stresis)」を認識することも、したがって支配することもできない。

 しかし、その「欠如」は認識にとってのそれであって、おそらく欠如ではないのだ。またそれを「支配すること」もほとんど不可能なのだ。つまり、ある行動や認識を、しないでいられることは、主体のわずかな自由であるどころか、主体と現勢力とが等価であるようなレベルにおいて主体を捉えることにすぎないからである。とりわけプンクトゥムを敷衍しながらその相互作用をみてきた本稿のコンテクストにおいては、じつは潜勢力こそがより主体であり、同時に主体を生成・変成するものである。つまりアリストテレス―アガンべン的なレトリックを用いて言えば、欠如を〈支配しないでいる〉こともできるということなのだ。このとき闇や麻痺、あるいは非思考的なものは「欠如」としてではなく、一種のカオス(もしくは荘子的な混沌)として、「過剰」として立ち現われるものとなる。ところが実際はアガンベンも語彙や経路は異なれど、アリストテレスの『形而上学』に迂回しながら同様の考えに至っている。すなわち、「潜勢力をもつものは非存在を迎え入れ、非存在が到来するがままにするのであって、非存在をこのように迎え容れるということが、受動性としての、根本的情念としての潜勢力を定義づける」と。この根本的情念への眼差しは、ヴァ―ルブルグがその名付けえない学において試みてきたものともリンクし得るものであろうし、それはつねにすでにアーティストたちの拡張化された潜勢力においては「生、それ自体」として生きられてきた無意識的な主体なのである。ではここで、いったん潜勢力にかんする議論を中断して、一人の写真家に触れておくことにしよう。

 中平卓馬は彼の映像論集において、芸術写真にまつわるポエジーやイメージと称されるもの、その情緒性は「私による世界の潤色」であり「世界の私物化」にすぎないのではないかと考えた。「そうではなく世界は常に私のイメージの向う側に、世界は世界として立ち現れる、その無限の〈出会い〉のプロセスが従来のわれわれの芸術行為にとって代わらなければならない」と。もちろん、このような言説もまた人間化にすぎないと反論することはできるだろう。しかしそのようないたずらなロジックそのものも人間の信仰にすぎないものであり…と、まったく不毛な議論に陥らざるを得ない。ここで重要なことは人間がどの位相で語られているのかという点である。中平が疑いの眼差しを向けているのは、意識的な主体としての「私」なのだ。そしてその近代的な強い主体(個人主義的な個人)による世界へのイメージ(表象)の逆投影、それによって現出される作者の理念の道具として外化された作品群、そしてそのイメージ(表象)を作品から解読(絵解き)すればよいだけとみなされる観賞作法といった近代芸術にまつわる誤謬から出るということなのだ。だが、確かにこのような芸術家イメージはマスメディア等で戯画化されてきたものではあっても、すでに述べてきたように実際の芸術家たちが生きてきた知覚とは異なるものである。とはいえ、戯画化されてきた芸術家像においては、社会的(慣習的)な類としての知覚から逸脱していく芸術家の孤独にたいして、それを強靭な個人の確立プロセスと混同しながら言説化されてしまうような構図はけっして少なくなかった。中平はこう述べている。

   いかにも私は世界を見る、だが同時に世界は、事物は私に向ってまた物の視線を投げ返してくるのだ。 […] こうしているいま、私の前には(むろん後にも)世界は身体化された空間として拡がっている。【註58】

 ここではバルトやクレーリーが述べてきたような事物からの眼差しは、アガンベンの言う潜勢力として世界に散種されている。中平は、写真を撮ることとは、既知の叙述可能な象徴を求めることではなく、「未知の世界が偶然にも発してくる象徴」を引き受けようとする構えなのだという。そしてこのような、情緒を排することで立ち現れてくる亡霊は、「事物の極細の一片一片」を事物からの視線として受け取り、また「主体を超えたものが主体を認めてしまう」ことにおいて成就するのだ。さらに中平は、現代の情報化社会においては、その切れ切れとなった物質や情報が氾濫する環境のさなかで「世界は解体した断片として、まさしく裸形でわれわれを襲う」と述べている。これは高度情報化による〈イメージ=ヴェール〉の解体と微分化であり、プンクトゥムとしての世界であるところの〈イメージ=裂け目〉化であり、あるいはそのように否応なく貫かれてしまう知覚作用についての歴史的な説明であろう。もとより、このような経験もただちに「潤色」され「私物化」され、表象としての亡霊によって収斂されてしまう(もしくはその表象不能性を憂慮する)むきもなくなるわけではない。よってこうした裸形の断片が襲ってくるような歴史的経験も、写真家などが生きている知覚作用と陸続きなものとして捉えておくことが適当なのであろう。かくして中平は「植物図鑑」という一つのヴィジョンを得ることになる。

   あらゆる陰影、またそこにしのび込む情緒を斥けてなりたつのが図鑑である。“悲しそうな” 猫の図鑑 というものは存在しない。[…] あらゆるものの羅列、並置がまた図鑑の性格である。図鑑はけっしてある ものを特権化し、それを中心に組み立てられる全体ではない。つまりそこにある部分は全体に浸透された 部分ではなく、部分はつねに部分にとどまり、その向う側にはなにもない。

 要するに、プンクトゥムは意味作用に奉仕することはなく、それ自体にも意味はない。それらは情緒主体を超えて並置している。だが、それらは執拗に視線を投げかけてくるのだ。ロラン・バルトがプンクトゥムについて記述したのは中平の「植物図鑑」から数えて約七年後(1980)のことであった。とはいえ、この感覚はすでにベンヤミンにも認められるものであり、そこに共通して媒介されているのが写真であるとしても、この光学技術とかかわりなくすでにつねにあったと考えるべきものだろうと私には思われる。つまり、写真はそれを認知/共有するための一つの現勢力として機能したのである。そしてそれゆえに写真がもたらした歴史的経験は偉大なのだ。

  ところで中平は、なぜ植物なのか? の答えとして、なまぐさくもなく彼岸でもない、「中間にいて、ふとしたはずみで、私の中へのめり込んでくるもの、それが植物だ」と述べている。それは対象に主体があって働きかけてくるわけでも、こちらからの働きかけに応えるのでもない、クレーリーの言う「我有化しないままの接近」やディディ=ユベルマンの言う「不可能な接触」という天使的なものとどこか似ている気がしてくる。それは知覚の事物化と喩えることのできる溶解体験/断絶体験なのだ。かくして「アレ・ブレ・ボケ」と呼ばれる写真スタイルで知覚の宙吊りそれ自体を目的化していたかにみえる中平は、「あまりにもよく見えるものは、見えないものよりもなおいっそう敵意を含んでいる」(ル・クレジオ)という〈白昼〉の知覚へと歩を進めていくことになった【註59】。だが、この中平の一見したところ素人のスナップとみまごうばかりに朴訥で、私有化を排し、情緒を排した作品展開は、複数の批評家たちによって「写真家を辞めざるを得ない方向」と誤解されたことも事実だ。しかし、そのような知覚の脱権力化や脱表象化が、写真家(芸術家)であることを揺るがすものであると考えることは、先述の戯画的な認識にとどまっていることの証左にほかならないものなのである。

 再びアガンベンを召還しよう。彼はアリストテレスの『霊魂論』に立ち返りながらこう述べている。

  自らを自らに与え、自らを救済し、現勢力において増大するというこの潜勢力の形象から生じてくる帰 結のすべてを、私たちはさらに計り知る必要がある。この形象が私たちに強いてくるのは、潜勢力と現勢 力のあいだ、可能なものと現実的なもののあいだの関係をはじめから考えなおすということだけではない。 この形象はまた、美学においては創造行為や作品のありかたを、政治学においては構成された権力におい て構成する権力が保存されるという問題を、新たなしかたで考察することを私たちに強いてくる。だが、 生が、自らの形式と実現をたえず超過する潜勢力として考えられるべきものであるというのが真であるな ら、生きものに関する理解のすべてが問われ、撤回されるのでなければならない。

 さまざまな形式において実現されたものの本質を定義するのは、つねにすでに潜勢力である。それは現勢力へと移行することで潜勢力であることをやめるのではなく、むしろそのことによって潜勢力をさらに増大させるのだ。それはちょうど教科書的な知識体系が知と無知との関係を反比例するものと見なしてしまうのとは異質な、智恵のありようにも似ていなくはない。そこでは知の形成は未知を加乗しながら増大させていくものだ。このことは結果的に、アガンベンが述べるように「潜勢力が潜勢力自体に対しておこなう極端な贈与」となるものであり、この「贈与」のプロセスにおいて明滅しているものが主体や、あるいは作品なのである。もとより、このことは作家であれば誰しもが知っている基本的なことであり、中平が作品を撮りつづけなければならない理由もここにある。つまり、それは「生」、もしくは知覚作用そのものの問題なのである。もしかりに潜勢力という亡霊が自らを増大させるすべを失ってしまえば、ブリコラージュやアートと呼ばれる活動もアルカイックな人類の知が湧出する場ではなくなってしまうであろう。そうなってしまったとき私たちは、現勢力こそが「生、それ自体」であり、その価値を〈代表〉するものだとみなしてしまうような、閉塞した〈他者〉のない、表象としての亡霊に取り込まれてしまわざるを得なくなるのである。


5c1takagikozue. ground.jpg

Fig.1 高木こずえ《ground》2009

(高木こずえ『Cozue Takagi; GROUND』2009)

作家HP http://cozuetakagi.com/g_main.html

© Cozue Takagi 2009 courtesy of TARO NASU

5c2 Tsukada, Specter.jpg

Fig.2 塚田守《Specter》2006

「自らコントロールできないものに、日々接していること。 それは過去と繋がっているのだけれど、線的に繋がってい るのでなく、いきなり思わぬ所に、人に繋がってしまう。 そのダイナミックな動き。自然。」(塚田守氏からの私信2008)

作家HP http://www.mamorutsukada.com

5c3shiga. Forest of Figs.jpg

Fig.3 志賀理江子《Forest of Figs》2007

「この世の時間軸が写真側にあるとすれば、私は全くその圏外にいて、 現在という宙ぶらりんでつかむことができない不確かなものから逃れようと、その確かに存在する軸への手がかりを必死に探す。[…]予測不可能にカメラに撃たれることを待っている。」(Lieko Shiga 『CANARY』2007)

作家HP http://www.liekoshiga.com/works.html

5c4 takagi1.jpg

Fig.4 高木正勝《Bloomy Girls》2006

(同名DVD作品からのカット)

「[ラスコーなどの洞窟壁画は] 何か越えられない境界線に穴をあけ て回路を開く行為、という方が当たっているように感じます。僕は 昔のことを調べれば調べるほど、人間は昔も今も基本的に変わって いないと思えるんです。」(『Art Anthropology 03』2009)

作家HP http://www.takagimasakatsu.com/



【註1】昨年(2009)、ヨコハマ国際映像祭事務局より映像フィールドワークを委託された。そこで私は、公共圏における非目的行動を追う「フラヌール調査A」、ホームビデオにみられる注意と散漫さを追う「フラヌール調査B」(通称:眼のフラヌール)、そしてアンケートにデジカメ画像で答えてもらう生活財生態調査である「ブリコラージュ調査」を三本柱としたプロジェクトを始動した。本稿は以上の調査を補完する、いまだ始動していない「ブリコラージュ調査B」(別名;眼のブリコラージュ)に相当するプロジェクトのための理論的エスキースである。

【註2】シュールレアリストたちの会合で不思議な「跳ねいんげん豆」を目にしたカイヨワは、ただちにその豆を割って原因究明すべきだと訴えるが、ブルトンらに「神秘は神秘のままでよい」とにべもなく躱されてしまう。このエピソードは、合理主義者カイヨワを象徴するものとして伝えられることになるが、カイヨワ自身にとっては、非科学的であることを神秘と混同するシュールレアリストたちとして終生彼らを批判する際の象徴的なエピソードとなる。

【註3】Images,images…(Gallimard,1996)邦訳『イメージと人間』、Obliques(Gallimard,1967)邦訳『斜線』(邦訳は共に思索社)

【註4】ガマエ(Gamahe)とは自然かつ偶然に生まれた画像のことであるが、その画像は基底石と不可分であるため、ここではカイヨワの文脈に添って同格に扱う。ちなみに東洋の形象石(水石等)は断面ではなく自然石そのものの佇まいを見立てる(ブリコラージュする)ことが多い。また形象石は古風な趣味にとどまらず「Xenepic Online」というゲーム空間にも現われ、その説明文には「石自体が加工する者のイメージに合わせて変化する石」とある。

【註5】ロジェ・カイヨワ『イメージと人間 想像の役割と可能性についての試論』塚崎幹夫訳 思索社 1978

【註6】都築響一『TOKYO STYLE』筑摩書房 2003、『賃貸宇宙 UNIVERSE for RENT』筑摩書房 2005

【註7】ベンジャミン・リベット『マインド・タイム 脳と意識の時間』下條信輔訳 岩波書店 2005

【註8】アンリ・ミショー『小海永二翻訳選集2 アンリ・ミショー集Ⅱ』小海永二訳 丸善 2008

【註9】カルロ・ギンズブルグ『神話・寓意・徴候』竹山博英訳 せりか書房 1988

また、彼は『糸と痕跡』(みすず書房 2008)においても彼自身が歴史家として徴候知を生きていることを述べながら、フィクションと真実のあいだにある第三項を追うメタ歴史学的な考察を行なっている。

【註10】中井久夫『徴候・記憶・外傷』みすず書房 2004

ここで中井は自己分析をしながら、彼のなかで〈徴候的=微分回路的〉認知に親近性が生まれた二つの要因として「精神医学が、現前よりも、これら現前の周辺に揺曳するものに多く触れる」ということ、そして彼自身が「生きることは、予感と徴候から余韻に流れ去り索引に収まる、ある流れに身を浸すことだと考えてきた」ことを挙げている。

【註11】中井久夫『分裂症と人類』東京大学出版会 1982

【註12】中井久夫『治療文化論 精神医学的再構築の試み』岩波書店 1990

ちなみに参考にはならないが、平成19年度の調査では、学部生全体における芸術系学部在籍者の割合は、芸術学部が1.02%、美術学部が0.27%である。

【註13】この点に関しては拙著『文化のなかの野性 芸術人類学講義』(現代思潮社2000)で述べた。

【註14】中原浩大・小川信治・袴田京太朗の各氏に「非作品」を出品していただいた「非作品によるブリコラージュ」展(銀座芸術研究所 2008.5.5~5.18)。当研究所の地場賢太郎氏より展覧会企画を委託され、私が80年代に出会った上記の作家たちに出品を依頼した。

【註15】出品作家の一人である小川信治は、アーティストの制作心理とプロセスを研究した東京大学駒場博物館での展覧会に寄せて、次のようなキャプションを記している。

1. 心の中のイメージの一点に集中する。

2. イメージの中に自己を埋没させてゆく。

3. 大きな構造のわずかな一部分が見えてくる。

4. 構造の全体を見ようとする。

5. 構造の全体だと思われていたものをさらに大きな構造の一部分のように思えてくる。

6. さらに無数の構造が周囲に存在している感触をもつ。

7. 構造間の関係に気づく。

・・・ Aug.2008

【註16】技芸空間以外で、徴候知が学問において主題化されてきた流れをここで整理しておこう。

ジョバンニ・モレッリ(絵画鑑定)⇒ジークムント・フロイト(精神分析学/症状形成)⇒アビ・ヴァールブルク(イコノロジー/症状・残存)⇒カルロ・ギンズブルグ(ミクロストリア/徴候認知型パラダイム)⇒中井久夫(精神医学/微分回路的認知)

【註17】ジョン・ハーヴェイ『心霊写真 メディアとスピリチュアル』松田和世訳 青土社 2009

【註18】小池壮彦『心霊写真 不思議をめぐる事件史』宝島社 2005

ちなみにハーヴェイも心霊写真の歴史的変容について「心霊写真はまたモダニズムの視覚様式の発達と歩調を合わせ、同様の軌道を辿って具象からコラージュを経由し、抽象に辿り着いた」と述べている。彼はこの「抽象」の背後にルドルフ・オットーの『聖なるもの』に見られるような、ヌミーゼ(絶対的他者への感情・体験)を見る。そうであれば、これは永らくキリスト教において神的なものが人間的な概念の内に飼い馴らされてきた歴史からの解放を視覚化していることになる。

【註19】スピノザ『スピノザ往復書簡集』畠中尚志訳 岩波書店 1958

それはそうあって欲しいように見ようとする憧れのレベルにあり、一種のアイドル化である。例えば、ソシュールの実績について語るさい、交霊術師エレーヌに興味を寄せた異言研究などをあえて避けようとすることも同様に一種の亡霊化なのである。互盛央は『フェルディナン・ド・ソシュール 〈言語学〉の孤独、「一般言語学」の夢』(作品社 2009)のなかでおそらく初めて〈亡霊ソシュール〉にではなく〈不在者ソシュール〉に生身で向き合っている。

【註20】小池壮彦「『眉唾写真』の魅力 霊と宇宙人」『心霊写真は語る』一柳廣孝編 青弓社 2004

【註21】美術館の起源がヨーロッパにおいてギリシアの「ムセイオン」からさらにエジプトの廟墓、あるいはラスコーやショーベに遡ることができるとすれば、それは必然的にオリエントに開かれる。美術館の起源がこうした「(近代的な意味での)観賞を拒むもの」であることはきわめて示唆的だ。また私がアフリカで確認したように、それらが意味内容を伝えるための絵(ただちに消される絵)と峻別されるものであることも興味深い。こうした問題(知覚のアルケオロジー)についてはすでにバタイユ(『ラスコー壁画』)や港千尋(『洞窟へ』)、中沢新一(『対称性人類学』)などのアプローチがあるものの、本稿ではあえて深入りせず改めて稿を起したいと思う。

【註22】レジス・ドブレ『レジス・ドブレ著作選4 イメージの生と死』嶋崎正樹訳 NTT出版 2002

【註23】カルロ・ギンズブルグ『ピノッキオの眼 距離についての九つの省察』竹山博英訳 せりか書房 2001

【註24】クロード・レヴィ=ストロース『パロール・ドネ』中沢新一訳 講談社 2009

【註25】ヴァルター・ベンヤミン『図説 写真小史』久保哲司編訳 筑摩書房 1998

【註26】小池壮彦『心霊写真 不思議をめぐる事件史』宝島社 2005

【註27】このフラヌール調査については、調査メンバーの有吉達宏がフィールドノートを公開している。

「都市のミーム」プロジェクトURL http://sns.yokohama150.jp/community.php?bbs_id=642

【註28】ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論Ⅲ 都市の遊歩者』三島憲一他訳 岩波書店 1994

【註29】これは映像が世界の「客観的偶然」や「同時多発性」を捕捉するということに加えて、映像が神経的速度をはるかに上回る光学的速度をもっていること、つまり、撮影者は自らが何を撮っているのかを知らないということから必然的に生じざるを得ない「偶然」でもある。

【註30】小林秀雄『Xへの手紙・私小説論』新潮社 1962

【註31】長谷正人「ヴァナキュラー・モダニズムとしての心霊写真」『心霊写真は語る』一柳廣孝編 青弓社 2004

【註32】ここでは「象徴界」という言葉をジャック・ラカンのいう意味のまま、ひねることも修正することもせずに使うことにする。とはいえ、西欧語で考えられている「象徴」の意味あいが極めてローカルなものでしかないことは附記しておきたい。

【註33】ここで「罪」と表現されるものについては、前出『パサージュ論』を参照のこと。

【註34】蜂巣敦、山本真人(写真)『殺人現場を歩く』ミリオン出版 2003

【註35】Buku Akiyama『Composition No.2“an exceptional state”』(秋山ブク作品集)edition.nord+FARM 2008

ちなみに宮本常一の撮った膨大な写真はほとんどが日常(ケ)である。これは宮本のプライベートな記録であり、彼の鋭い「徴候知」がその背景にあるものなので、一見すると素人のスナップ以上に下手な写真に見えてしまう。これと対照的なのがユネスコの無形文化遺産アーカイブであり、そこではケと不可分なはずのハレの映像のみが収集されている。

【註36】ロラン・バルト『明るい部屋 写真についての覚書』花輪光訳 みすず書房 1985

【註37】荒金直人『写真の存在論 ロラン・バルト『明るい部屋』の思想』慶應義塾大学出版会 2009

【註38】石倉敏明氏からの私信でスピノザ‐ライプニッツ書簡のなかに「機構学的点 punctum mechanicum」というイメージポイント・像点を表す言葉があるとの指摘をいただいた。調べてみると確かに1671年10月にライプニッツから贈られた小論「高等光学に関する覚え書」に対する翌々月のスピノザの返信にその言葉はあった。ここで交わされているのは純粋に光学的機構にかんする内容であるが、ここで共通しているのは対象:像の関係を立体:平面でも平面:平面でもなく点/点の対応で考えているということであった。当然のことではあるが光学的には図/地の区分は存在しないのである。

【註39】ロラン・バルトは《細部》について「たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる」と述べ、その《名指し得なさ》については「私が名指すことができるものは、事実上、私を突き刺すことができないのだ。名指すことができないということは、乱れを示す良い徴候である」と述べ、そして《偶発性》については「「写真」は純粋に偶発的なものであり、またそのようなものでしかありえない(そこにはつねにある何ものかが写っている)ので、「写真」はただちに、民族学的な知の素材そのものをなすある《細かな事実》を伝達する」と述べている(前出『明るい部屋』)

【註40】ここに列挙しているような微分的な知覚は、さほど認知度の高くないものではあるが、広く人間行動を支えている基本的な資質の一つである。たまに、芸術人類学というのは『○○人類学』として分化・派生した専門領域の一つで「芸術」を研究対象に絞ったものだろうといった誤解を受けることがあるが、芸術人類学が取り組んでいるのはこのような知覚であって特定の対象ではない。もっとも、この種の知覚が端的に現れやすい領域として「芸術」があるわけで、この既成ジャンルはその象徴となり得るものなのである。

【註41】ロジャー・シルバーストーン『なぜメディア研究か 経験・テクスト・他者』吉見俊哉他訳 せりか書房 2003

【註42】ジョナサン・クレーリー『知覚の宙吊り 注意、スペクタクル、近代文化』岡田温司監訳 平凡社 2005

【註43】ジークムント・フロイト「分析医に対する分析治療上の注意」小比木啓吾訳『フロイト著作集9』人文書院 1990

【註44】中井久夫『徴候・記憶・外傷』みすず書房 2004

【註45】この、歴史的な脱歴史化についてクレーリーは次のように述べている。「マネやスーラやセザンヌの作品において、持続する注意力は、昇華という複雑な社会的、心理的装置から完全に分離されることはけっしてなかった。一方、没入する知覚は、彼らにとって、視覚の否認ないし回避であり、それによって、満たされたことのない熱望の傷ついた地平が暴きだされたのである。だがまた、この注意の宙吊りにおいて、現在というときが一見したところもつ必然性や自己充足性が溶解していく諸条件が生み出された。このことによって、把握しがたい未来が予期されるだけでなく、記憶から打ち捨てられた対象が放つかすかなきらめきがふたたび救いだされるのである。」

【註46】ロバート・F・マーフィー『ボディ・サイレント』辻信一訳 平凡社 2006

【註47】ジョージ・レイコフ/マーク・ジョンソン『肉中の哲学 肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する』計見一雄訳 哲学書房 2004

【註48】知覚を考えていく上でなされた彼らによる身体への注意は、ここでは「認知的無意識・マインドの身体化・メタファー的思考」であり、身体と世界がその相互関係のなかで進化させてきた「ゲシュタルト知覚・メンタル・イマジェリー・運動相互作用」である。

【註49】ここで彼らによって標的にされざるを得ないのが西洋の慣習的思考パラダイムであり、そのパラダイムをもつ言語体系によって構築されてきた哲学理論である。彼らの述べる身体的リアリズムはまるでオートポイエーシス論の河本英夫が禅宗の学習プロセスを例にして述べた「わかるのではなく、そのような知識はその知識と共にできるように「成る」。ここがポイントです」(『生命と自己』慶應義塾大学出版会 2007)という言葉を想起させる。河本は問いかける。「わかるだけではどうにもならない領域の知識があり、ここに生命の手がかりがあるのではないでしょうか」と。

【註50】中島智『文化のなかの野性 芸術人類学講義』現代思潮社 2000

私はこのなかでシャーマニズムとアートの類縁性に触れながら、ここでレイコフらの述べているような「錬磨」され「身体化」された知覚技術について言述した。というのは、すでに一昔も前になるが、当時の美術界ではいまだ表象的知覚において「見る」ことも脱表象的知覚において「見る」ことも、「見る」ことにおいては対称性を持つものだといった誤解が、アーティストの知覚にたいする無理解を生じさせていたからであった。なお、本稿ではその知覚〈技術〉以前のところで人類に遍在している知覚の〈資質〉レベルにみられる共通基盤(ベーシックレヴェル、またはブリコラージュ能力など)から照明されるべき「我々の生存に関わる」技術としてのアートについて、道草がてら考えている。

【註51】中島智「レヴィ=ストロースの構造芸術学」『思想 №1016 クロード・レヴィ=ストロース 生誕100年を祝して』岩波書店 2008

【註52】中平卓馬『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』筑摩書房 2007

こうしてみてくるとセザンヌに対する「近代絵画の父」という敬称も怪しく思えてくる。クレーリーが示したような、セザンヌ的知覚と映像的知覚との歴史的な並行性といったロジックを用いれば、セザンヌの知覚がもつ反近代性と中平卓馬のポストモダンを近質なものとして語ってしまう可能性すらあり得なくはないのかもしれないが、そこには陥穽もある。この点にかんしては先述のレイコフらが述べているような、古来より連綿と続く技術(アート)の系譜、もしくはその「症状」においてセザンヌ的知覚を捉えていくことのほうが精確であろうと思われる。

【註53】港千尋『影絵の戦い 9.11以降のイメージ空間』岩波書店 2005

【註54】文化人類学者の太田好信は『亡霊としての歴史 痕跡と驚きから文化人類学を考える』(人文書院 2008)のなかで、ローレンス・レッシグの『コモンズ』から、デジタル時代の創造の定義、「既存の資源を脱コンテクスト化し(rip)、それらは新たに組み合わせること(mix)から、新しい何かをつくりだし、そして自分からそれを発信すること(burn)」を導き出しながら、「創造とは孤立した人間がまったくの無から何かを生み出す行為 いわば「ロマン主義的個人」にその範をとっている と考えられてきた。その考えが、著作権法など知的所有権をめぐる法制度を暗黙のうちに支配してきたことになる。なぜなら、著作権法とは、個人による創造の産物をその利益が損われないようにという理由で、その創造の産物への自由なアクセスを制限する法律であるからだ」と述べている。デジタル時代の創造性については、このような議論が出てくるはるか以前から人類はつねにすでにブリコラージュにおいてそのようにしてきた。それが一時期、例外的な近代社会において影を潜めたのは、まさにバルトが述べているように「所有こそ存在の基礎であるとする社会」のイデオロギー支配によるものだった。人は自らをすら所有はできない。バルトの直観では、この所有=アイデンティティー信仰を切り崩したものが写真ということになる。

【註55】ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』橋本一径訳 平凡社 2006

このなかで彼は、アウシュヴィッツの、すべての実在を徹底して消し去ろうとする権力に抗して、秘かに命懸けで撮られた四片のイメージを、美学的にでも歴史的にでもなく、人類学的なものとして、われわれを突き刺すイメージとして捉えることを試みている。そこには作業として遂行されている焼却風景や、ガス室に追いやられる全裸の女性たちがかろうじて写っているのだが、そのなかの一枚、梢と空しか写っていない(余り価値のない失敗写真として忘れられている)写真にも注目し、そこに「アウシュヴィッツの地獄から四枚の破片がもぎ取られた際の、その切迫した条件」をみている。このときディディ=ユベルマンは、まるでそれを隠し撮りするために役割を分担した一人の名も知れぬユダヤ人に、ユダヤ人として憑依されているかのようである。だが、これはやはり人類がある凡庸さにおいて為してしまう類の普遍的な問題であって、ユダヤ人迫害の民族史にとどまるものでは決してないのである。ディディ=ユベルマンは、この歯みがきチューブに隠されてわれわれに届けられたそれらのイメージについてこう記している。「証言に関するジョルジョ・アガンベンの考察はこの点で、それらの写真のステータスを解明しうるものである。それらの写真もまた、「分節の非‐場所」に場を持つからだ。それらの写真もまた、「本質的な部分」が結局は欠落でしかないような、根本的な亀裂を明るみに出しているからだ」と。アガンベンの〈欠落〉については後に触れるが、ここで重要なのは、それらを挿画(情報)として眺めることではなく、そこに「亀裂」を捉えることなのである。

【註56】この、「もう一つの亡霊」について言述することはきわめて難しい。それは「名づけがたい何かの顕現」であって、それをイメージしようとすることによっては捉えられないイメージであるからだ。それはほかの概念と類比的な関係でしか指示することはできない。それがすでに古今の芸術的思考において生きられてきた基本的な要件だとしてもである。哲学者の高桑和己は「剥き出しの生と欲望する機械」(高桑和己「剥き出しの生と欲望する機械 ドゥルーズを通して見るアガンベン」『ドゥルーズ/ガタリの現在』小泉義文・鈴木泉・檜垣立哉編 平凡社 2008)のなかで、ジュルジョ・アガンベンの思想の中核をなす概念は「剥き出しの生」であるが、この言葉の出自であるベンヤミンとの差異については問われることはあっても、その「イメージすることの困難さ」ゆえに、それが表わすところのものへの探求は回避されてきたと述べている。そこで高桑はドゥルーズの「自己享楽(セルフ‐エンジョイメント)」という概念を、ドゥルーズが自死した二日後に『ル・モンド』紙に掲載されたアガンベンによる追悼文を通して導き出し、それを、人間にはイメージできない圏域としての「動物たちの自己享楽の地位」へと重ねてみせる。また、その境位とは、神による管理から免れた、法権力からの忘却としての「例外状態」とも連合したものだ。このような、イメージしようとすることの困難な一連の境位において指し示される「剥き出しの生」とは、イメージ作用それ自体であり、その起源でもあるところの「イメージ=裂け目」とも連関をなすものなのかもしれない。すなわちそれは、知覚や認知においてはストゥディウムや代理=表象からの脱却としての、知覚そのものを「成る」ように贈与するものとしての、メディアとしての生命/事象としか名指し得ないような力動性のことではないだろうか。ただし、それは名付けがたさゆえにか、あるいは思考の圏外と見なされているためかは不明ではあるが、やはり回避されてきたテーマであるという点では共通している。ではここで、高桑に導かれながらアガンベンの論集に収められた「ヴァルター・ベンヤミンと魔的なもの」(ジョルジュ・アガンベン「ヴァルター・ベンヤミンと魔的なもの ベンヤミンの思考における幸福と歴史的救済」『思考の潜勢力 論文と講演』高桑和己訳 月曜社 2009)を追いつつ、名付けえぬものについてみていくことにしよう。アガンベンはここで、ベンヤミンがパウル・クレーの『新しい天使』に見た「鈎爪と鋭利な翼をもった天使」とは、ゲルショム・ショーレムが読み解くようなルシフェル的なものではなく、むしろエロースの領域であろうと仮定する。すなわち、それは「ユダヤ‐キリスト教的な意味での魔ではなく、ギリシア語の意味でのダイモーンである」と言う。そして彼はベンヤミン自身の「この天使とは、与えることで人間たちを幸福にするより、奪うことで人間たちを解放することを好む、ある泥棒天使である」という言葉を引用する。このエロースの天使によってなされる解放とは、あるいはクレーリーにおける画家的知覚の、「確立された状態にある人間の知覚から解放されること」と共鳴しているものではないだろうか。すなわちそれは、剥き出しにし、忘却し、生成変化していく条件としての、魔的なものである。そして、それは主体に交換的価値のレベルにある何かを与えることではなく、主体そのものを生起させる力動的な、原因レベルにある贈与のかたちなのだ。かりにそのような連関があり得るものだとするならば、前者は「幸福」を借り受けることで「幸福」が負債とならざるを得なくなる主体のありようであり、後者は「至福、それ自体」であるところの生の領域とのコンタクトの〈ありよう〉ということになるのであろうか。ベンヤミンは、天使の欲する幸福について「その幸福とは、一度きりの、新たなものの、まだ生きられていないものの陶酔と、もう一度の、あらためてもつことの、生きられたものの至福、この両者の対立関係である」と述べている。つまり、その幸福とは、一つの座標上で測られたり、物象化されたりし得るものではない。それは「新しい人間を引き連れていく」一つの条件としか言えないものなのである。そこでアガンベンは、ある意味で「例外状態」の写像とでもいうべきグノーシスやカバラー、イスラーム神秘主義などの観想空間、すなわち生み出すものと生み出されるものが同じとなる忘我的な境位に触れながら、天使という中間的存在があらゆる二項対立を無化していく魔術的なロジックにほかならないことを確認する。(ここで重要なキーパーソンとなるのがアラビア語圏の思想哲学をヨーロッパに紹介した功績をもつアンリ・コルバンである。彼の日本語訳本はまだ少ないが、幸いなことにわが邦には井筒俊彦の偉大な業績がある。)そして、その両極性・両義性において、天使の鈎爪は形象化されていると考える。また、この両義性(無分別性)はベンヤミン自身がその思想において体現しているものであるわけだ。すなわちアガンベンがここで試みているのは、天使論というよりも、よりベンヤミン論なのであろう。アガンベンは、天使がもつイメージと、起源および救済のイデアとが類同的な性格をもつということを流麗に論じている。この救済とは、記号で代用する清算(liquidazione)ではなく、負債そのものを消尽へと導くものである。また、起源とは一回性の発生のことではなく、歴史以前/以後にかかわる反復にあるものだ。すなわち、「人間に会いに来る天使は、結局のところもともとのイメージではなく、私たち自身が自分の行動によって造形したイメージであるが、それと同様に、歴史的救済においては、最終的に起こることは、かつてけっしてあったことのないものなのである」。となれば、救済とはかつてけっして見たことのないものを思い出す、歴史的かつ非歴史的な地平へ「新しい人間」を引き連れていくことであり、起源とは創造行為が創造者を生み出していくようなアクチュアルな置換なのだ。そして、その天使は「人間に会いに来る」のだ。天使もまた、それをイメージしようとすることでかたちを現わすのではなく、私たちの行動がもたらすイメージなのである。アガンベンの論旨をていねいに説明しないまま、まさに“覚書”として記してみたが、ここで語られる天使が、知覚作用そのものと相似的な性格(とその語りがたさ)を持っているように私には思われてならないのである。

【註57】ジョルジョ・アガンベン「思考の潜勢力」『思考の潜勢力 論文と講演』高桑和己訳 月曜社 2009

【註58】中平卓馬『なぜ、植物図鑑か 中平卓馬映像論集』筑摩書房 2007

【註59】この中平の転向にさいして、彼は過去の自作に対する自己批判を行なっているのだが、ここにはきわめて無理があると言わざるを得ない。森山大道が『中平卓馬 原点復帰‐横浜』(OSIRIS 2003)で述べているように、その資質は「結局は変わらない」のだ。つまり彼の作品に一貫してみられる知覚は、すでにそれ以前からのものとしてあるということだ。このことは作家が自らの無意識的な知覚に対してまでは自己批判不可能であることを如実に表しているものであろう。また森山大道は『犬の記憶 終章』(河出書房新社 2001)で、「かつて、あまりにも単純明快(むろんいちばん大事なことだったのだが)にすぎて、むしろ茫然としてしまった彼の一言、“悲しそうな顔をした猫の図鑑などない”に、当時のぼくはうろたえて、改めて自らの軌道を修正せざるを得なかった」と述べている。そして、その後に展開されていく中平の写真(図版)を眺めながら、一つの言葉を思い出している。「かつて中平は、ある興味によって写された一枚の写真の、そのすぐ横の写されなかった場所に、じつは何かとんでもなく恐ろしいものが転がっているのではないか、というようなことをぼくに語ったことがあった。中平の、現在の日常の視界には、そんな事物ばかりが映り見えているのではないか。」 ここにもまた、予兆としての写真がある。


【図版キャプション】

一章

Fig.1 形象石

Fig.2 形象石(水石)

Fig.3 形象石《鹿》 三重県・鹿の湯温泉

Fig.4 アンリ・ミショー《メスカリン素描》1956~58

「紙の上に残された線状の痕跡は、彼に誰かを思い出させる、母や父を、すでに人間を、あらゆる人間たちを代表する人間、人間そのものを。」(アンリ・ミショー『アン リ・ミショー ひとのかたち』2007)

二章

Fig.1 《心霊写真》

コンビニの床に現れた女性の顔(代表的な投稿サイトに掲載された心霊写真)

Fig.2 《心霊写真》

これらはモダニズムとポストモダンとの折衷型といえる心霊写真である(同上)

Fig.3 《巌窟王》 山口県・秋芳洞

鍾乳洞は、現在なお〈見立て〉の宝庫である。これはラスコー洞窟空間にそれぞれ西欧建築に見立てた命名がなされていることも同様である。だが、もとよりラスコーやショーベに徴(絵画)を残した人々は更に高度な見立てを行なっていた。

Fig.4 「洞窟天井の凹凸が […]ちょうどバイソンの肩や尻の肉の盛り上がり、足のあたりのくぼみと一致して、あたかも彫刻のような立体感があり、いまにも動き出しそうな姿なのである。」(齋藤嘉博『メディアの技術史』1999)

Fig.5 奇岩《象岩》 倉敷市・国指定天然記念物

岡山の池田家所蔵古文書に宝永元年(1704)作の「六口島象岩の図」が残っている。もっとも〈象〉の形象を知るまでは別の見立てがなされていたのであろう。

三章

Fig.1 カール・ブロースフェルト『美術の原形』1928

Fig.2 ウジェーヌ・アジェ『写真集』1930

Fig.3 山本真人『Buku Akiyama composition No.2』2008

Fig.4 山本真人『Buku Akiyama composition No.2』2008

Fig.5 アンドレ・ケルテス《ヴァイオリン弾きのバラード》1921

「ある種の細部は、私を《突き刺す》ことができるらしい。もしそれが私を突き刺さないとしたら、それはおそらく、写真家によって意図的にそこに置かれたからである。」(ロラン・バルト『明るい部屋』1985)

四章

Fig.1 ヴァルター・ベンヤミンはハシッシュ体験のなかで初めて「装飾」の意味を理解した。(ベンヤミン『陶酔論』1992)

Fig.2 棟方志功《壁画》 倉敷国際ホテル

棟方志功の近視眼と〈板画〉という技法が出会うときにも、プンクトゥムは発生する。

Fig.3 ポール・セザンヌを〈眼差した〉、サント=ヴィクトワ―ル山

Fig.4 中平卓馬《沖縄》1978 (『中平卓馬 原点復帰ー横浜』OSIRIS 2003)

五章

Fig.1 高木こずえ《ground》2009(高木こずえ『Cozue Takagi; GROUND』2009)

作家HP http://cozuetakagi.com/g_main.html

Fig.2 塚田守《Specter》2006

「自らコントロールできないものに、日々接していること。それは過去と繋がっているのだけれど、線的に繋がっているのでなく、いきなり思わぬ所に、人に繋がってしまう。そのダイナミックな動き。自然。」(塚田守氏からの私信2008)

作家HP http://www.mamorutsukada.com

Fig.3 志賀理江子《Forest of Figs》2007

「この世の時間軸が写真側にあるとすれば、私は全くその圏外にいて、現在という宙ぶらりんでつかむことができない不確かなものから逃れようと、その確かに存在する軸への手がかりを必死に探す。[…] 予測不可能にカメラに撃たれることを待っている。」(Lieko Shiga『CANARY』2007)

作家HP http://www.liekoshiga.com/works.html

Fig.4 高木正勝《Bloomy Girls》2006(同名DVD作品からのカット)

「[ラスコーなどの洞窟壁画は] 何か越えられない境界線に穴をあけて回路を開く行為、という方が当たっているように感じます。僕は昔のことを調べれば調べるほど、人間は昔も今も基本的に変わっていないと思えるんです。」(『Art Anthropology 03』2009)

作家HP http://www.takagimasakatsu.com/

inserted by FC2 system