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●2006年1月14日(土) 現場研究会討議記録

ゲスト:暮沢剛巳氏(美術評論家)
テーマ:横浜トリエンナーレについて

〈暮沢氏の発表〉
・国際展とは何か…仮設会場で数年おきに開催される大規模な展覧会。世界各地から作家が出品する。古い伝統を持つものとしてはイタリアのヴェネツィア・ビエンナーレ、アメリカのカーネギー・インターナショナル等が有名。国際展のほとんどは戦後に始まった。80〜90年代に急増。国際展の数が増えてきた現在では、展覧会の特色をいかに出すか、画期的なプランを立てるかが各国の課題となってきている。
国際展は次の2つのパターンに大別される。
(1)国別参加形式(ヴェネツィア・ビエンナーレ、サンパウロ・ビエンナーレ等)→参加国ごとにパビリオンを持ち、作品を展示する。賞レース式の展覧会の場合もある。アーティストを選出するのはコミッショナーの仕事である。展覧会の性質上、アーティストの国籍が大きな意味を持つ。なお日本の場合、コミッショナーを選出する権限は国際交流基金にある。以前は高名な美術評論家がコミッショナーを勤めるケースが大半だったが、最近は中堅クラスのキュレーターが指名されることが多い。日本がこの形式の国際展に初めて参加したのは約50年前で、以後はコンスタントに参加している。
(2)1人のディレクターによる企画形式(ドクメンタ等)→1人のディレクターが展覧会を指揮する全ての権限を持つ(会場の構成、アーティストの選出等)。結果、展覧会はディレクターによるひとつの作品といった趣を帯びる。最近ではこの形式が主流となっている。

【その他】(ミュンスター)→ドイツの地方都市で10年に一度行われる屋外彫刻展。1人のディレクターに強い権限が与えられている。アートによる地域振興の側面が強い。

・横浜トリエンナーレ(以下、「横トリ」)とは…日本初の大規模な国際展。2001年に第1回目が開催された。21世紀に入ってからの国際展開催は、世界的に見れば後発の部類に入る。1年遅れで出昨秋に行われた第2回目ではディレクターに川俣正を起用した。そもそもは韓国や台湾など近隣諸国の国際展に遅れをとるまいとして、日本でも国際展を立ち上げねば、という機運によって実現されたもの。諸外国の動向に倣って展覧会が企画されたという点では、横トリの動機の弱さが指摘される。横トリの場合はコミッショナーを選出する形式だが、各国のパビリオンを持つわけではなく、展覧会としての性格が曖昧である。国際展のタイプとしては(1)と(2)の中間に位置付けられる。

・国際展の予算と、海外の国際展事情について…横トリの全体予算は約8億円。ドクメンタやヴェネツィア・ビエンナーレの予算は推定約12〜15億円。伝統的な違いがあるとはいえ、日本は欧米に比べて文化に投資する資金が少ないことは確か(ヴェネツィアの場合は組織委員が法人格を持っていて独立採算で運営されているという事情も関係している)。また韓国の光州ビエンナーレでは、自国のアートを海外に発信する目的を強く持っていて、政府が積極的に文化的産業に注力している。
中国では、96年に上海ビエンナーレが発足。第1回目に展示された作品はほとんどが国内の作家の水墨画だった。現代美術の文脈が欠けた展覧会だったが、第2回目以降は海外のアートを輸入する姿勢に向かっていった。中国・韓国で特に顕著に見られる傾向として、国際展が海外のアートを紹介する窓口の役割を果たしている。横トリにも海外のアートの窓口となる効能があるかどうかはまた別の問題になるだろう。

・横トリのテーマ…第1回目(2001年)のテーマは「メガウェーブ」。4人のディレクターによる展覧会だった。2つの会場のダブルカウントで約35万人の動員が記録された。現代美術ものの展覧会としては多くの観客を集めたと言える。
第2回目(2005年)は「アート・サーカス」がテーマ。「日常から非日常の色彩に向けて飛躍する」意味合いが込められている。そのほか、「参加する」「場と関わる」「人と関わる」「運動体としての展覧会」という4つのサブテーマが展覧会の基本的性格を成している。
上に挙げた4つのテーマは、ディレクターを務めた川俣正の作品にも当てはまる内容だ(いわゆる「ワーク・イン・プログレス」)。

・横トリのプランニング…最初に選出されたコミッショナーは磯崎新だったが、諸事情によって川俣に交代した。磯崎は建築家・アーティスト・NPOの三位一体からなる「ワールド・アトラス・オブ・コンテンポラリーアート」「イマジン」など、時間的、予算的に到底実現不可能なプランを計画していた。磯崎特有の破壊衝動が強く現われていて、主催者がそれをうまくコントロールできなかったことがうかがわれる。

・作品について…会場の入り口付近に高松次郎の〈影〉が展示されている。この作品の展示には、川俣正の東京ビエンナーレに対する思い入れが反映されているのではないか。もの派と横トリを繋げる狙いが読み取れるかもしれない。近年では、大阪の国立国際美術館で開催された「もの派展」でもエントランスに高松のトリック作品が展示されていた。もの派のルーツが高松のトリック作品にあるとする見方が広まりつつあるのだろうか。
また、川俣がいちばんやりたかった企画は、ダニエル・ビュランを呼んでパフォーマンスをさせることだった。「アート・サーカス」というテーマもここに由来するものと思われる。


〈横トリについて現場研メンバー各自の感想〉
「印象に残る作品がない。高嶺格の作品が良かったが、ある種のエンターテインメント性によって受け入れられている感じもする。」
「同行した友人はソファーのような作品に興味を示していた。このソファーでくつろいでる家族連れの観客も多かった。『日常からの跳躍』というテーマを考えれば、人々が求めるのは癒し系の作品なのかもしれない。」
「目玉となる作品がない。前回の草間弥生、オノヨーコのような、展覧会の売りとなる作家もいない。全体的に見て、目立つものがないと思った。」
「横トリに対し、学園祭、縁日という印象を持った人もいた。」
「あれだけの観客が集まったのが不思議。横浜市民も見に行くのだろうか。家族連れが多いのにびっくりした。」
「前回に比べて妙にサービス旺盛だった。『非日常』を掲げるテーマの割りに、会場を見回すと様子は日常そのもの。会場に設置されている自動販売機の方が非日常的に見えた。日常と非日常が逆転したかのようだ。」
「12月に見に行くと寒さがきつい。会期によって(いつ訪れるかによって)体験が随分と変わるのではないか。」
「都市自体がすでに色彩的空間なのだから、横トリというイベントそのものは空騒ぎに終わったとしか思えない。」
「作品のある場所を無理に探そうとしない人の方が展覧会を楽しめたようだ。仮設の仕方が中途半端。」
「作家も84人集め、カタログも展覧会開始に間に合った。短い準備期間を思えば『よくやった』と思える。
会場をまわっていると、『アートとは何か』について考える必要がないくらい楽に鑑賞できた。何も考えずにただ見ているだけでいい。川俣が目論んだのが何度も足を運びたくなるような展覧会であるとすれば、見事に術中にハマったと思う。
そもそも、会場の構造が開放的すぎて、作品鑑賞に向かない。絵画や写真が出品されないのはそのためだろう。
展覧会のボランティアスタッフなど、横トリの内部に関わっている人が楽しんでいるように見えた。スタッフが充実感を得ているということは、コミュニケーションを重視したコンセプトがある意味では成功したということなのだろう。」
「日常からの飛躍というテーマに期待したが、期待はずれだった。」
「サーカスとして成立していない。個々の作品が『作品』として見られない環境だ。わざとそのように仕組んだのではないだろうか。いっそのこと川俣の作品として展覧会が成立している方がはっきりしていて良い。」
「倉庫を使った普通の展覧会。展覧会として見ればつまらない。『展覧会』の枠組みを壊すくらいじゃないと面白くないのでは。作家レベルで言えば、前回の方が面白かった。」
「モノポリーの作品、シマウマがロープを渡る作品が良かった。」
「この先も横トリが続いていくべきかどうか、疑問。」
「家族連れが多く、展覧会という雰囲気ではない。ゲームセンターのようだった。作品を売り出すバザーがどうなるのか気になった。」
「会場入り口付近に設置されていた階段の作品に感動した。」
「関係者はよく頑張ったと思う。現在の日本で国際展をやることの意味を考えれば、今回の横トリはラディカルだった。方法として間違っていないと思う。」


〈ディスカッション〉(一部)
暮沢「前回に比べれば評価したい展覧会だった。統一感があり、作品数が少なく会場がひとつしかないのも大きな要素だ。」
発言者1「川俣のカリスマ性の強さが今回の横トリの大きなポイントだと思う。」
発言者2「展覧会のノリの中に、日本でも国際展を活性化させなければ、という妙な気負いを感じる。」
暮沢「川俣は横トリを自分の作品の一形態として見せているのではないか、という批判についてだが、川俣自身はその見方を否定している。」
発言者3「川俣が横トリを自分の作品として割り切った方がラディカルなものになったのではないか。」
暮沢「家族連れは何を求めて横トリに行ったのか。観客層がよくわからない。」
発言者4「今回は11万人を動員した。美術手帖でアンケートをとったところ、展覧会そのものを楽しめた人は多かったようだ。家族連れとか普段は展覧会を訪れないような人も、高嶺格の作品や静かになると点灯するランプの作品など、高度なアートにも反応している。逆に、普段から展覧会を見ている人にとってハードルが高い展覧会だったのではないか。」
発言者1「また来ようと思わせる展覧会。コミュニケーションとしての機能も果たしている。これが開催者側の意図なら、その狙いは成功したと言わざるを得ない。空間として、そういうつくりになっていた。」
発言者5「業界内部と外部とで、評価が二分している。いくつもの次元を考慮すると、総体的に答えが出せない状況だ。業界内では評価が高いのでは?」
暮沢「業界をどこに設定するかによる。どこまでが業界と呼べる領域なのか。」
発言者5「要するに裏事情を知っている美術関係者たちのこと。作家たちにも評価は高いのかな?」
発言者1「一方で、業界内ではアートに期待を持って接している人が少数になってきているのでは。素直に横トリを楽しんでいる子供を見ると、アートにはこのような受け止め方もあるのだなと考えさせられた。
川俣がやりたかったのは映像作品中心のセレクションだったはず。作品を輸送する費用を懸念するのもあったと思う。」
暮沢「インスタレーションは設置費用がかかる。」
発言者2「現代美術の風潮として映像作品が流行ったのは90年代から。横トリとかの国際展でいまだに映像作品が主流を占めているのを目の当たりにすると、現在映像をやる意味が拡散しているように思える。」
発言者1「資金があれば作家に援助して作品をつくらせることも可能だが…。」
暮沢「今回は準備期間がとにかく短かった。旧作を持ってきている作家も多かった。」
発言者5「全体的に作品を見て思うに、横トリのコンセプトは実は啓蒙主義だったのではないか。つまり、一般に開かれたアートを目指すということ。芸術の貴族主義VS市民主義という構造で現象を読み解けるかもしれない。」
発言者3「『なんとなくいい』という意見が観客から出てくるのがポイント。想定されている観客層はおそらくアッパーミドル、小金持ちの横浜市民だと思う。これに川俣のカリスマ性が加わって、人を惹き付けている。このどちらかの階層に入り込めない人からすれば、横トリは楽しめる展覧会ではない。」
暮沢「ブルデューによれば、趣味とは階級によって異なるもの。横トリが提示している趣味は一体何なのか、また、設定している階級はどこになるだろうか? それこそ子供が喜ぶような展覧会ということだろうか?」
発言者5「何にせよこういう形で客を集めたのだから、業界からも評価されるだろう。貴族と市民とプロレタリアートという3つの項。人生と芸術の歩み寄りがこの構図で果たして解消されるのか。」
発言者6「子供が喜んだのだから展覧会として優れている、そう思わせる方向に持っていっているように見える。」

(記録/complex編集部)

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