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●2006年9月22日(金)

7月23日〜9月10日に開催された「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2006」について、ゲストに暮沢氏、村田氏、山盛氏、コメンテーターに斎藤氏、白濱氏、中島氏、村田氏、森氏を招いた。

 現場研究会討議記録報告者:

コメンテーター:

  • 斎藤哲郎(『美術手帖』編集)
  • 白濱万亀(アート・コーディネーター)
  • 中島 智(武蔵野美術大学)
  • 村田 真(美術ジャーナリスト)
  • 森 仁史(松戸市美術館設立準備室)

テーマ:

  • 「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2006」について


山盛英司氏発表

 報告は、北川フラムの人物像について。北川の思想や行動には三人の人物が大きな影響を与えていると思われる。父の省一、宮沢賢治、谷川雁だ。
 北川省一(1993年81歳で死去)は、東京大学を中退し、越後で農村をまわる貸本業や本の回読会をした。こうした啓蒙活動は、ほぼ失敗に終わり、左派の知識人としての挫折を抱えながら、省一は後に良寛の研究に没頭した。北川フラムは、このような父の姿を見て育った。
 北川は当初、東京大学を目指していたが、大学浪人中に、ボナールなどヨーロッパ絵画に魅了され、美術の世界に興味をもつ。1968年、東京藝術大学に入学。当時は大学紛争のピークの時期で、北川は自ら主導して、芸大で自由大学という構想を唱えたり、学校をバリケードで封鎖した。
 芸大では恩師で仏教彫刻の研究者である水野敬三郎と出会った。北川は学生時代に仲間と「ゆりあ・ぺむぺる工房」を立ち上げたが、その名は、水野の妻るり子が宮沢賢治(1896-1933)の詩を引用して、北川らをそう呼んだことに由来する。「ゆりあ」や「ぺむぺる」というのは、賢治が河原の化石に付けた名前だ。そのことからも分かるように、北川の思想や行動には、岩手の農村に根を張り、夢や希望、犠牲、人類愛などを思索した賢治への敬意が感じられる。北川が協働の夢を語るときのロマン主義的な語り口などにも、それはみてとれる。工房は、1984年に現在の「アートフロントギャラリー」に発展した。
 谷川雁(1923 – 1995)は、詩人でありながら社会活動家として、1960年代から吉本隆明らと並ぶ左派の理論的指導者として活躍した。谷川は、九州で多くのサークルを作り、それらを結ぶことで炭鉱労働者らの組織化を企てた。知識人と大衆を含みこんだコミュニティの形成だったが、試みは挫折し、東京に戻った。そして、国際的な視野をもつ子供を育成しようと、東芝テックの「ラボ教育」という学習塾の活動を始めた。
 北川フラムは、吉本と谷川を比較して、当時、周囲の人が何もしないことを正当化するかのように吉本を称賛しているのにうんざりし、とにかくも行動をした谷川に自分を重ねて「いいかげんさが、雁さんに近いんだ」という発言をしている。もっとも北川は、東芝テックの労働争議の際には、経営側にいた谷川と対立する労働者側として、過激な抗議行動をした経験もあり、谷川の信奉者というのではなかったようだ。
 父の省一、宮沢賢治、谷川雁は、行動する知識人として地域の現実と寄り添って活動をした。彼らの思想や行動は、越後妻有トリエンナーレでの北川の試みを理解する手助けになるのではないか。

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村田早苗氏発表

 出品作家が企画した見学ツアーに誘われ、3回目で初めて妻有入りした。数日だが、運営スタッフやボランティアの常宿である旧三省小学校に滞在した。「妻有トリエンナーレは今年が最後」という噂も多少作用したが、見学ツアーを企画したのとは別な出品作家から制作資金を集めたいという相談を受けており、持ち出しでも参加したいと作家を思わせる妻有トリとはなにか、妻有という地域、フェスティバルの魅力、運営について、内側から見られる機会と思い参加した。ガイドブック等予習は一切なしで妻有に向かった。
 300を越す作品の数に、確かに圧倒された。それ以上に心を奪われたのは、山の奥の奥まで作品の設置と鑑賞者の移動を可能にする整備された道路網である。これは、過疎地であっても「豊かさ」を享受できるよう交通(情報)を確保しようとした田中角栄の遺産であるが、このインフラなしに妻有トリは成り立ち得ないだろうと感じた。妻有においてアートはインフラ、妻有トリとはアートという開発であるような印象を持った。否定されることを怖れずいえば、妻有トリの首謀者は、角栄が描いたヴィジョンを引き継いでいる。
 妻有トリは、横浜トリエンナーレの運営主体とちがって、北川フラムというアート業界の怪物の元に全てが集約されているようにみなしてきた。しかし準備から12年という月日の中で、当初の「強さ」は和らいだのではないか。私は自身の経験から、コミュニティ・アートというプロジェクトの到達点は、アートが人と人が交流する媒介、メディアとなることであると考えている。プロデューサー、アーティスト、ボランティアなどの人間力を必要とし、政治力も発揮しなければならない「コミュニティ・アート」の深淵に分け入っていくなかで、北川氏の立ち位置やリーダーシップは、作家らが土地の人たちとのつながりをどう継続していくかということに妻有における制作をシフトさせているように、変質していったのではないだろうか。
 ボランティアの数が不足していると聞き、合宿所内は殺伐としているのかと思われたが、3回目にあたり設備や対応を整えたせいか和やかだった。ミーティングルームでは、各地から集ったボランティア「こへび隊」が明け方までしゃべっていたし、食事の面が予想外に美味しかった。ボランティアを受け入れる体制、対応が非常に整備されたと思う。
 地元の意識の変化も感じた。事務局が作成・設置したものとは別に、地区ごと様々なかたちのノボリやフラッグが出ていたが、それらは自発的に、町会費を捻出して作られたと聞く。地区によっては独自にマップを作成し配布したところもある。アートはもう村おこしのツールではなく、道路網とともにインフラであり、メディアと受け入れられているのではないか。フラッグの様々なかたちはそれぞれの参加のかたちであり、交流の目印のようにみえた。

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暮沢剛巳氏発表

 妻有トリエンナーレは、数ある国際展のなかでも「ミュンスター彫刻プロジェクト」によく似ていた。ミュンスター(ドイツ)で10年に1度開催されるこの展示は、地域密着型という点で類似している。そこでは、地方の各所の空間に野外彫刻が配置され、ガイドマップを片手に作品を見てまわるようになっている。妻有トリエンナーレと同様にミュンスターでもスタンプラリーがあり、おそらく、当初は、ミュンスターがモデルとして考えられていたであろう。
 しかし、妻有トリエンナーレは回を重ねるたびに変質してきた。1回目は、ミュンスターのように野外彫刻主体で構成されていたが、2・3回目は、建築的なプロジェクトが多く見られるようになった。その背景として、北川フラムの義兄でもある建築家・原広司との関係が大きいだろう。第2回の2003年は、その原広司によるキナーレやMVRDVの雪国文化センター、手塚貴晴の森の学校キュロロの建築物が象徴的である。2006年にはドミニク・ペローを招くなど、建築の存在が際立つようになった。
 そして、今回の第3回では、建築物のなかでも「空家」がキーワードになってくる。それは、2004年の中越地震で多くの古い民家が、被害を受けたことによる。その後、民家は、取り壊す費用もないということで、そのまま放置されてしまった。そのため、2006年度の企画には、この民家をアートを通じて再生しようということで、「空家プロジェクト」が始動したようである。
 ところで、今回の第3回では、「空家」に加えて、「廃校」というのもキーワードになるのではないか。現地では、廃校を舞台としたプロジェクトが10箇所以上あったと記憶している。作品でいえば、クリスチャン・ボルタンスキーらの《最後の教室》や日比野克彦の2003年の作品は、廃校を舞台として制作されている。それは、妻有に限らず各地の農村においてもいえるが、過疎の問題が深刻化しているということも示される。ボルタンスキーの作品をはじめ、古い民家や写真、教室、ハガキなどは、過去の「記憶」との結びつきが強いものである。

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コメンテーター発表:

白濱万亀氏
 妻有トリエンナーレには、《かかしの嫁入り》の出品で関わっていた。今回、100体ほどかかしを制作した。地元(松代エリア)に関しては、協力的な方が多く、作品は共同制作の場合もあり、また、参加アーティストが地域に根付いていたところもあった。
 かかし制作費そのものは、概ね深川資料館通り商店街の助成金でまかなわれた。しかし、他の参加アーティストは、自費で現地に赴き、作品に掛かる費用も自分で負担する場合が多い。ほとんどの作家が、赤字であると聞く。

村田 真氏
 2000年に開催された1回目から3回目の6年のスパンには、大きな変化が見受けられる。1回目は、パブリック・アートとしての傾向が強く、都市の作品を田舎に設置したようであった。それは、広域におよぶ野外彫刻展を思わせた。2回目は、シェルターやアースワークなど建築的な作品や建築物自体を作品として発表していた。3回目は、「空家プロジェクト」として、古い建築物を作品化していた。第1回で美術館を飛び出したはずの作品が再び美術館化した建物(空家)の中に入れられた。
 端的にいえば、資金が年々少なくなっているために、このような変化がみられたのであろう。

斎藤哲郎氏
 パブリック・アートは、「都市」で造られたものである。共同体と関係して公共性を伴わせる場合、「地方」には、そぐわないのではないか。そもそも、日本においてパブリック・アートが必要なものなのかどうかも疑わしい。
 たとえば、「空家プロジェクト」では、過疎によって廃校となった建築物があった。しかし、それは、学校として――公共、共同体をつくる場――の機能が無くなったというものであった。また、このような建物では、歴史やそれまでの利用目的が空間を形づくっているということもある。
 今回、いけばなや陶芸の展示もあった。会場では、1・2回目の展示を鑑賞しに訪れる人たちとは、違う層の人たちが集まっていた。このような、日本的なものや空家を利用したことからは、「自分の手から離れた」という特徴がある。それが、来場者の変化に影響を与えていたのではないだろうか。

森 仁史氏
 「巨大な公共投資」という印象を受けた。平岡正明や谷川雁、宮沢賢治の存在は、直接こうした事業を導くものではないだろう。能舞台やキョロロに見られるように、それらは、大きな事業投資によって支えられている。
 地元の人にとって、アートは、外から人を呼び込むことができるものとして捉えられているのではないか。地元の人たちは、「観光産業」として、人をもてなし、人と出会う場をつくりたいと思っている。げんに、お金によって、外から訪れた人(参加アーティスト、こへび隊含め)の受け入れ方に地域差があったようである。
 お金が、妻有トリエンナーレの深いところに影響を与えていた。そのような面が活動を支えていたという事実を、見逃してはならないであろう。

中島 智氏
 地域の人は、都市型のアートを見ようとしているのか疑問に思われた。村には、村の共同体・共有性があり、土地じたいに意味や伝統がある。地域の人々に「興行性」レベルを超えて受け入れてもらえるためには、都市型の「公共性」と地域型の「公共性」の質的差異という問題があらかじめ前堤として共有化され、組み込まれていなければむずかしいであろう。
 そうしたなかでも、作家と地元の人の関係は、成立していたようだ。しかし、それは、作品や作家というより、人と人とのコミュニケーションで慣れていったことによる。妻有トリエンナーレは、北川フラムが総合ディレクターを務めていたが、じっさい、200もの集落をまとめるには、個々の作家に頼るほかなかったであろう。資金面においても同様のことがいえる。

(記録/complex編集部)

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