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●2007年5月26日(土)「現場」研究会討議記録 番外編

水野亮展「物置」 関連企画アーティスト・トーク
「作品を語ることについて語る」


2007年5月26日に水野亮アーティスト・トーク「作品を語ることについて語る」(主催:芸術文化学科 於:武蔵野美術大学9号館5階515講義室)が開催されました。
このトークは武蔵野美術大学民俗資料室で開催された水野亮展「物置」(展覧会期:2007年5月22日〜6月8日)の関連企画です。

昨年の秋頃に武蔵野美術大学で芸術人類学を教えていらっしゃる中島智氏から、氏が総合企画者として進めておられるAgora Musicaでの企画展のお話をいただき、水野亮展「物置」を開催する運びとなりました。
当初の計画では、水野亮の絵画と民俗資料を組み合わせたものを、と漠然と考えていたのですが、打ち合わせを重ね、水野亮の絵画作品を見た中島氏の「この絵を立体化してみたらおもしろいのではないか」との助言や、民俗資料室の収蔵品や地下倉庫にある未整理の資料を見せていただいた経緯のおかげで、展覧会のイメージがじょじょにかたまり、「物置」としてしつらえたギャラリー空間にて、水野亮初の立体作品のお披露目となりました。
まるでアウトサイダーアートのような立体の形状や今回の展覧会のコンセプトについて戸惑われた方も多いかと思いますが、民俗資料室に収蔵されている民具の作者不詳というアノニマス性と、水野亮に限らず表現者のなかから湧き出てくるブリュットともいえる表現の発露は通底するのではないかと思います。
今回、民俗資料室での水野亮展「物置」との関連企画といたしまして、アーティスト・トークの場を設けてくださいました芸術文化学科の新見隆氏、展覧会の準備から終了まであたたかく見守ってくださった美術資料図書館長の神野善治氏、民俗資料室の船川朗博氏、沖田憲氏および関係各位にお礼申し上げます。展覧会が終了してもご迷惑を掛け通しの中島智氏に重ねてお礼を申し上げます。またご来場くださいました皆様に感謝の意を表したいと思います。

それでは今回の展覧会の経緯や、過去の制作秘話、最近の展評活動までを含めた水野亮のマシンガントークをお楽しみください。(本展企画者 吉原沙織)


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水野亮:どーもミズノです。今回は芸術文化学科主催の特別講義ということで「作品を語ることについて語る」というテーマを設けてみました。というのも通常アーティストトークというのは作者が自分の作品についてガンガン語ったりするものなのかもしれないけれど、僕の場合自分の作品について語ろうとすると、急に言葉が出てこなくなる「失語症」みたいな状態になってしまうのです。あるいはたとえ言葉が出てきたとしても口に出した瞬間、たとえそれがどんなに真剣に考えた上のもので既に自分の血肉となったものであったとしても、途端に全部ウソくさく聞こえてしまう。それは何故か?ということと、じゃあ自分の作品についてはずっとダンマリを決め込んでいればいいのか? 作品とコトバをめぐる関係ってナンナンダロウ?ということ。今回語ってみたいと思うのは、主にそーゆー問題なんです。



[今回の展示について]


まず今回の展示「物置」についての説明をします。

去年の11月くらいだったかな? 吉原さんから「個展をやりませんか?」という誘いをいただきまして、最初は「ムサビの民俗資料室で」という情報だけでAgora Musicaのことも知らなかったし、民具を収集してるギャラリーだけど別に展示に民具を使う必要はないって話だった。なんか「すごく明るくてきれいなギャラリーだけど、水野さんの作品の展示には難しいかも」って言われたんですけど、でも僕もしばらく展示をやってなかったんで作品はタラフク溜まってるし、「まーとりあえずどんな条件でもできますよ」って安請け合いして、とりあえず一度打ち合わせをってことで11月の末頃ムサビを訪れたんです。

そこではじめてギャラリーを見せてもらったんだけど、これが思ってた以上にヤリニクソーで・・・。なにしろ壁が一面しかない。二面がガラス張りの窓で残りの一面はスタッフのための作業スペース。窓からはガンガンに日の光が入ってくるし、こりゃー絵の展示には向いてないわーと頭抱えちゃって。ここで俺の作品を展示するならとりあえず窓を使うしかねーのかなーなんて頭グルグルしてるときに、とりあえず収蔵資料も見ますか?って言われて、ギャラリーの奥にある一般公開している収蔵庫を見せてもらったんです。
まーそんときは「窓をどーしよー」みたいなことで頭いっぱいだったし、展示に民具を使う気もなかったんで、初めは「ふーん」てな感じだったんだけど、奥に箪笥がたくさん置いてあるスペースがあって、これにいきなりガビーン!ってなってしまった。もちろん箪笥自体の佇まいにガビーン!ってきたってのもあるんだけど、同時にこれは展示に使えるぞ!と。なんだ窓じゃなくて、箪笥じゃないか!って。初めはギャラリーに箪笥だけぽんと置いてある展示でもいいかなーとか考えてたんです。それで引き出しの中に俺の過去のボツ作品とかがいっぱい入ってる(笑)。なんかそーゆーアーカイブ風の展示でも面白いなーとか、その場でどんどん想像が広がってきて。結局アーカイブ風の展示ってのはやらなかったんだけど、でも今回の展示にはちょっとだけその名残を残してあったりもします。
あと箪笥も結局今回はメインではなくオプション的な使い方をしてるんだけど、でも作業してて思ったんだけど、やっぱり箪笥ってスゴイね。やってて「ここに凝りだしたら、いくら時間あっても足りねー!」って思ったもん。結局引き出しの中にいろいろモノを仕込んでいく作業って箱庭作ってるようなもんなんだけど、それって「世界」をひとつそこに作っていることでもある。箪笥の場合、その「世界」が何層もあって多元宇宙化してるんですよね。だから箪笥一個あれば展覧会ひとつ作れるなーと思った。まーこれは余談ですが。

それでそのあとAgora Musicaのディレクターである中島智さんと打ち合わせをしたんですけど、「どーですか?」って聞かれたときも「箪笥スゴイっすね!」みたいな話しかしなくて(笑)。そしたら「実は地下にはもっとあるんですよ」って話になって、なんかムサビの学生にもあんまり知られていないらしいんだけど12号館の地下に巨大な収蔵庫があって、そこに資料室に移される前の大量の民具が眠っているらしい。ぜひ見せてください!って頼んで、普段は来客に見せるスペースじゃないんですっていうその地下収蔵庫に案内してもらったんだけど、そこがもう・・・なんというか、宝の山状態なのね。まー「見方によっては」ってことなのかもしれないけど(笑)。 整理分別される前の、つまり「資料」になる前の民具たちが、それこそ物置状態で雑多に詰め込まれてるんだけど、なんかその佇まいも含めて衝撃を受けてしまって、「これだ!」と思ってしまった。「よし、これで行こう!」って。まーその時点ではまだ具体的なことはなんにも決まってなかったんですけどね。

作品のタイトルの付け方についてまた後で話をしますが、展示の場合はたいていタイトルを最初に決めちゃうことが多いんです。今回の「物置」という展覧会タイトルは、ムサビに行った翌日にはもうさっさと決めちゃいました。もちろんそれはあのステキな地下倉庫へのオマージュでもあるんだけど、それと同時に隠しテーマがあって、河原温の≪物置小屋の出来事≫という日本美術史、いや世界美術史に残る大傑作があるんですけど、僕はあれが好きで好きで大好きで、それが去年竹橋の近美で久々に全点展示をやってたんですよね。全点まとめて見るのは本当に久しぶりだったんで3回くらい見に行って、結局のべ十何時間くらい見てたかな〜。その11月末の時点でもまだその興奮が冷めやらなくて、よし!「物置」つながりで≪物置小屋の出来事≫へのオマージュにしよう!とか勝手に思って。まー結果的にはタイトルと裸電球くらいしかそのなごりは残っていないのかもしれないけれど、でもそーゆー個人的で勝手な思い込みってケッコー大切なんです(笑)。だから初めはタイトルもいろいろ考えて、「物置小屋のヒトリゴト」とか、「物置小屋の出来心」とか(笑)。でも結局あのギャラリーは小屋って感じじゃねーなーってことでシンプルに「物置」にしました。でもタイトルが決まっちゃえば展示の方向性はもう八割がた決まったよーなもんなんだよね。

アーカイブ風の展示っていうアイデアもまだ頭のどっかでは残ってたんだけど、基本的にはギャラリーを物置みたいにモノで埋め尽くして、同時にそこに俺の作品をがんがんに混ぜて「民具vs俺の作品」みたいな展示しようと思ってた。その時点では平面作品がメインだったんで、壁や窓も全部絵で埋めて、とかね。
でもその予定を変えたのは、今回展示してる紙粘土の作品「名無し」(タイトルの由来はあとでまた話します)が生まれたからなんだけど、そのそもそものキッカケっていうのが、その打ち合わせで初めてムサビに来たときに、中島さんから「立体があるといいですね〜」みたいなことを言われたからなんですね。でも僕って基本的に平面欲求しかない人間で、立体欲みたいなもんがゼンゼンない。だから過去にも似たようなことは言われたことはあったんだけど、大抵いつも聞き流してた。だから今回も「来たな!」とか思って(笑)。「いや〜立体はゼンゼン興味ないですね〜」とか言ってすげなく断ったんだけど、中島さんもなかなかしつこくて(笑)、「紙粘土とかいいと思うなー。あ、ちょっと買ってきますよ」って打ち合わせの最中に売店まで走って紙粘土をいくつか買ってきてくれたんです。
紙粘土って昔ながらのイメージしかなかったんだけど、今って結構いろんな種類のものがあって、何よりも驚いたのが持ってみるとすごく軽いんです。この「軽い」って感覚が新鮮で驚いた。それで基本的に僕は六畳一間のアパートで制作も生活も作品の保管もしているもんだから、新しい作品を作るときはまずそれを「どこにしまうか?」ってことを考えなきゃならないんだけど、これなら軽いし保管も楽かな、と(笑)。それで早速その夜、家に帰ってもらってきた粘土をテキトーに捏ねてみて、幾つか小さな立体を作ってみたんです。
絵を描くときも基本的に具体的な完成イメージは持たないでオートマティズムでイキナリ描くんですけど、このときも何も考えないでとりあえず捏ねてみて、まーその時点ではそれなりに面白くはあったけど、それでもまだ作品にはならないなーって感じでしたね。でもなんとなく自分の絵から出てきたようなイメージっていうのはあったんで、翌朝乾いた粘土に墨でドローイングしてみたら「あっ出来た」って。なんか粘土もらった翌日にはもう作品になってましたね。新しいシリーズを作り始めるときっていつもカタチになるまではそれなりに時間がかかるんだけど、コレはとにかく早かった。
でも立体作品って言っても、結局はドローイングなんですけどねー。粘土捏ねてるときも、ほとんど下地作ってるような意識だし。形状としては立体だけど、本質的にはやっぱり他の作品と何も変わらない。

それでも初めはまだ平面中心の展示で行くつもりだったから、添え物的にしか使わないつもりだった。でもやってるうちにどんどん出来てしまって、だんだん凄い数になってきて、だったらもうこれがメインでもいいかなー、と。
ちょうどそのころ知人に漆原友紀の『蟲師』って漫画を教えてもらってケッコーはまって読んでたんだけど、あの漫画に出てくる「蟲」ってのがすごく好きで。「蟲」っていうのは、動物でもなく植物でもない彼の世と此の世の狭間に生きるような生命体で、基本的には人間とはカンケーなく生命のおもむくままに存在しているんだけど、たまーにそれが人間に憑いてしまって、憑かれた人間のほうにいろいろ変調が起きたりする。その「蟲」と「名無し」の佇まいがどことなく似てるかなーなんて勝手にこじつけて、隠しテーマとして『蟲師』へのオマージュにしよう!って。とにかくいろんな隠しテーマやオマージュがたくさんある(笑)。言わなきゃ誰にもワカンナイけど(笑)。でも物置状態の民具から「名無し」が涌いてきたみたいな展示にしたら面白いんじゃないかって思い付いたとき、今回の展示プランはほぼ固まりましたね。


ただ一点だけ引っかかっているコトがあって、つまり12号館下の地下収蔵庫みたいなホンモノの物置で展示をやるんだったら話は単純だった。でも実際は「物置」とはいわば対極にあるような、明るくキレイで無個性な、ショージキ面白みに欠けるあの13号館のギャラリーで展示するってのが前提としてあったから、あの空間を展示のために一回人為的に「物置」状態にしなければならない。わざわざ物置とは対極にあるキレイなギャラリーをモノで埋めて「物置化」してから、さらにそこに自分の作品を仕込むという、つまり二回作業を行わなくてはいけないわけですね。その一回目の「物置化」の作業にどんな意味があるのか? そこらへんが今回の展示のカギになるんじゃないかなーとはずっと思っていた。
ところがこの「物置化」がやってみたら大変で・・・。既に物置状態にある地下倉庫からどんどんモノを運んじゃえばまだ楽だったのかもしれないけど、基本的にあそこにあるものって未整理状態のものだから、動かせないんですね。つまり動かしちゃうとこれは何々さん家にあった何っていうモノってのがわからなくなって「資料」になることが出来なくなってしまう。だから「物置化」には、基本的に13号館に収蔵されている資料を使うしかなかった。
でもこれが大変な作業で、つまり資料だからあれらには全部通しナンバーが振られてきっちり管理されている。それをひとつひとつちゃんともとの収蔵棚に戻せるようチェックしてリスト作りながらギャラリーに順次運び入れるって作業は、正直「なんでこんなメンドクサイことしてるんだー!?」って叫びたくなるくらい大変でしたね。入れても入れてもゼンゼン物置っぽくならないし(汗)。作業には三日間使ったんですけど、そのほとんどが「物置」作るのに費やしてしまいました。結局あんまり物置っぽくないねってみんなに言われてますけど・・・まーそれはいいや(笑)。

「物置化」の意味に関しては、吉原さんも民俗資料室のホームページにUPされた文章で書いておられますけど…。


吉原:そうですね。資料として確立された民俗資料をもう一度作者不詳であるアノニマスの状態のモノに戻すということは、まあ、元の状態というと、モノにはいろいろな使用の変遷があるので、どの時点だという問題も出てきますが、とりあえず、今回のテーマとして、「物置に在った」状態に焦点を絞って考えてみることにしたいと思いますが・・・。

資料としての価値を一度引き剥がして、モノという次元に戻すということは、生活用具であった状態から、使用価値を失い物置にしまいこまれた民具を民俗資料として武蔵野美術大学に代表されるように大学や博物館などの研究機関が引き取る、という一連の民俗資料化の順当な流れとはまったく逆の手続きをすることになります。しかも今回の展示では民具が生活の場で活躍していた状態ではなく、民俗資料化される一歩手前の状態、「物置に在った」という状態に留められました。
それは通常、資料室等の展示では民具がどのような役割を果たしてきたかというコンセプトのもとに整然と陳列される方法が主流だと思われますが、今回の展示はそういう意味では、民具として使用価値のある状態でもない、モノの状態として見せるということが大きかったと思います。これは民俗資料としての有様の意味の転換を生じさせる試みでもあったと思います。
また、展覧会開催前には作品として未成立にも思われた「名無し」が、他者としてのモノとどのように共存するのか、どのように作品として成立していくのか、その空間がどのように観覧者の眼に映るのか、つまり何が見えて、何が見えないのかという実験的な展示であるというようなことを書かせていただきました。

出来上がった展示光景を見ると、これが資料であるとは思えないほど、"擬似物置"が出来上がっており、わたしは準備の期間から会場設営現場に立ち会うことができ、変遷を見てきたので、「物置」と「物置化」の違いが目に見えて感じることができ、さらにこの「物置化」に伴い、「名無し」の作品としての成立過程もまざまざと感じられておもしろかったですね。完成したこの「物置」展示を観覧した方たちが、資料とモノ、作品とモノの境界をどれほど理解していただけるのかという不安が充満したマニアックで理解困難な展示かなとは思いますが、観覧した人から、民具のかたちに興味をひかれたとか、「名無し」に気づかなかったとか、「名無し」が見えすぎ・主張しすぎ、などの意見を聞くことができ、モノの見え方・見せ方の展示としてはおもしろいことができたのではないかと思いますが・・・。


水野:一応やる前にはいろいろ予想はしてみたんですよ、僕も。つまり原点として13号館の収蔵室と、地下にある物置状態の大倉庫の見え方の違いってのがあった。13号館のほうの整理・分類されて「資料」となってしまったモノたちよりも、物置のなかに雑然と置かれたモノたちのほうに、モノ本来の個性みたいなものを強く感じたんです。つまり「かつては用途を持っていたモノたち」って、その用途を失った時点でたいていは「ゴミ」になってしまう運命。それが体系的に整理・分類されることによってモノたちは「資料」として第二の生を生きることになるんだけど、でも「資料」となってしまった瞬間に見えなくなってしまうものもまたあると思うんです。それはそのモノ自身が個別に持っている記憶のようなものなのかもしれない。つまり資料=「記録」になってしまうことで、モノたちが個別に持っている「記憶」は見えにくくなってしまうのではないか? だとすれば一度整理・分類されてしまった資料を使って物置状態を作るということは、彼らに彼ら自身の個性や記憶を取り戻させることになるのではないか?、とかね。でもまーそれは単なる机上のゴタクで、やってみないと何が起こるかはワカランナーとは思ってたけど。


で、、、やってみた結果どうだったかというと、見てもらった人はわかるかもしれないけど、なんかもー「名無しシティ」というか「名無し遊園地」というか、つまり民具が「名無し」たちのための遊具施設にしか見えなくなっちゃったんだよね(笑)。展示してて思ったもん。なんか「名無し」を置けば置くほど民具が見えなくなってくるぞ!って。物置から涌いてくるようにとか言ってたけど、ゼンゼン涌いてきてないよね。明らかに他所からやってきて、占拠してる(笑)。「お前ら、ハシャギスギ!」って思わずツッコミ入れたくなってくる厚かましさだよね(笑)。なんか見方によっては「名無し」が民具を蹂躙してるようにさえ見えてきてしまって驚いた。

でもそれもある程度事前に予測可能なことではあったんだよね。つまりこれはインスタレーションであってもインスタレーション作品ではないってこと。「作品」を主体にして考えたとき、「作品を展示するのには相応しくない空間」を民具を使って「作品を見せやすい空間」へと変容させたという風に捉えれば、結局民具であの空間を埋めた「意味」って、展示用にペンキで壁を塗り替えるのとその意味合いにおいては大して変わりはない。つまりあれって見かけは変わっていても、構造的には極めてオーソドックスな「作品展示」でもあるわけです。
でも「作品」の立場に立てばそれでもいいのかもしれないけど、民具たちの立場に立ったとき、それではあまりにもヒドイな、と。しかももし「物置化」の作業が、「資料」になったモノたちに本来の記憶や個性を取り戻させるという意味合いを持っているのだとしたら、一回人格を取り戻させておいて、それを今度は記憶も記録もへったくれもなく単なる展示台として使って踏みにじるっていう・・・それってなんて傲慢なんだ! 基本的に俺は傲慢なものが大嫌いなんだけど、俺の嫌いなものって大抵その傲慢性に因っている。車が嫌い、電話が嫌い、テレビが嫌い、読売ジャイアンツが嫌い・・・みんなそうなんだよね(笑)。だからどんなに成り上がろうとも成り下がろうとも傲慢な人間だけにはなりたくないって常日頃から思ってるんだけど、その俺をしてナンナンダこの傲慢さは?ってことなんです。
ただこの傲慢さが果たして「俺」に由来するのか、「名無し」に由来するのか、それとも「美術」に由来するのか、それはまだわからないけれど、でも俺が作品を作ってそれを発表するということを続けていく限り、これって一生付き纏っていくものなのかなーと、それはちょっと思った。だからこの「傲慢さ」は、じゃあ反省して解消しましょう!とかそーゆーものではなくて、それは多分本質的なものであって、俺が今後ずっと引き受けていかないといけないものなんだと思う。

ただ展示をやってみていつも感じるのは、やってみてわかることも多いけど、同時にわからなくなることもまた多いということ。特に今回民具を使って自分の作品を展示したことの「意味」ってのは、いまちょっと断定的に感想を言ってみたけど、でも実は自分でもよくわかってないんだよね。
今日、見に来てくれたお客さんを観察してて面白かったのは、会場に入ってきてまずは大抵拍子抜ける。「え? これだけ? これが作品なの?」と。そのうち「名無し」に気付くと、嬉々として探し始める。そして一通り探索が終わり引き出しも全部開け終わると、今度は民具についていろいろ語りだす。「これって何に使ってたんだろう?」とか、「こーゆーのって昔はあったよねー」とか。
結局いくら遊具施設化されようが展示台化されようが、民具がそこに在るの確かなんだし、展示を見るひとたちは皆それを目にしている。そのことにどーゆー意味があるのかっていうのは、もう俺の想像の範疇を遥かに超えたところにある。その「答え」はまだまだ全然見えてこない。・・・てゆーか多分「答え」は見てくれた人の数だけあるハズ。作品や展示ってもともとそーゆーものだしね。
この民俗資料室のアート企画であるAgora Musicaのコンセプト「民俗と美術の接点を探る新しい試み」なんて、自分の展示ではとても抱えきれない巨大な問いなんだけど、なんか結局やってみた結果「民俗+美術=ナントカ」といったA+B=C的な明確な解が「すぐには見えては来なかったこと」こそが、実は今回の試みの最大の成果なのかもしれないなんて、いまは密かに思っていたりします。



[作品を語れなくなっていく過程]


こんな感じでベラベラベラベラ喋ってると、自分の作品について「語れない」とか言っておいてがんがんに語ってるじゃんとか思われるかもしれないけど(笑)、でもこれはまあ裏話と、あと今日展示を見てみて思った感想みたいなもんなんで、作品について真正面から聞かれると途端に言葉に詰まっちゃうんです。「いったい何を描いているんですか?」とかね(笑)。

でもそれって最初からずっと語れなかったわけじゃなくて、実は「語れなくなっていく過程」ってのがあるんです。それをここ十年くらいの僕の主な作品をお見せしながら説明してみたいと思います。



「FUNNY DOLL 1000」 1997-1999     

この作品は1000枚組みの鉛筆画の作品。1997年から2年半かけて描きました。
この作品を描き始めたころ僕がなにをやっていたかというと、昼間働きながら大学の夜間部の社会学部に通っていました。社会学部に入ったのは特に積極的な理由があったわけじゃなくて、まあ成り行き的な部分も大きかったんだけど、でも社会学に興味があったのも事実だった。でも入ってみて分かったんだけど、まーこれは単に俺があんまり勉強しなかったせいだけなのかもしれないけど、とにかく社会学と美術ってのは、なんかあまりに噛み合わないのね。マッタク相反するものにすら思えた。その頃俺は20代半ばだったんだけど、そのくらいの年代ってとにかく結果が欲しくて焦るじゃない。僕の場合も受験失敗して芸大入れなかったところから始まって、20代前半ってとにかくなにやってもうまく行かないことばかりで、なかなか「次」にうまく進めなかった。だからそんななか無理して社会学部に入ったんだから、とにかく学んだことがソッコーすぐ制作や作家活動に「使える」ようになりたいって焦るんだけど、なんかやりたいこととやってることの溝がどんどん広がるばかりで、この頃はかーなり悩みの時期でしたね。
それでも4年生になったときに、とにかく腹をくくって丸一年かけて卒論を書いたんです。原稿用紙400枚分(笑)。卒論のテーマは「ポルノグラフィを可能にする社会的要因についての考察」。ポルノグラフィを「性欲喚起装置」として可能にしているのは、人間の先天的な「本能」というよりも、むしろ規制や規範といった社会的な要因に拠ってる部分が大きいのではないか?っていう内容の論文だったんだけど、自分にとってはこれを書き上げたことは凄く意味が大きかった。っていうのも20代半ばの頃って表現欲求だけはやたらあって、作品もいろいろ作ってはいたんだけど、でも「最後までなにかをやり通した」っていう達成感を得られたことってついぞなかったから。だから出来はともかく「ひとつのことをやり通した!」っていう感覚は、そのときの自分にとっては凄く自信になったんです。

それと同時にこの論文を書くことで、ひとつ「悟り」のようなものも得られた。というのも社会学って基本的に人が自明と思っていることをわざわざそのハシゴ蹴飛ばして説明付けちゃうみたいな結構ヤラシー学問なんだけど、でも卒論書いてて思ったのは、そんな社会学を使ってもどうしても説明できないものってのは必ず出てくる。それで社会学じゃダメならってんで今度はほかの学問の理論を持ってきていろいろ説明しようとするんだけど、そーやってなんとかかんとか理屈付けしてみても、やっぱり最後にはどーしてもナットクできない部分ってのは残る。
まあそれって単に勉強不足だっただけなのかもしれないんだけど、それでもそれはひとつの啓示として俺には働いたのね。つまり世の中にはどうやっても理屈では説明できないものがある、ということが。もし自分が純粋に学問を志している徒だったらもしかしたらその事実に絶望したのかもしれないけれど、幸いにして俺は絵描きだったんで「なーんだ、じゃあ俺はそれを作品で表現すればいいんだ!」って単純に納得してしまったわけ。ある意味その「悟り(?)」を得るためだけに、4年間学費払い続けてたって言ってもいいかもしれない。

それでとりあえず「言葉で説明できる部分」を卒論を書くことでやり通したから、この作品では「言葉では説明できない部分」をとことん最後までやり通そう!と思って描いた。描き始めたのは卒論書き始めたのとほぼ同時期で、だからはじめの1年では100枚くらいしか描いてない。卒業してからあと1年半かけて残りの900枚を描きました。1000枚って数字は書いてる途中で決めたんだけど、まー100枚じゃ少ないけど10000枚じゃ多い、くらいの意味かな。鉛筆で描くのもこの作品がはじめてで、それまではCGで静止画とかを作ってた。とにかく自分の手で引いた線がキライで、鉛筆なんていうのはもっとも不得手な画材だったんです。でも敢えて不得手だからこそ選んだという面もある。この作品には僕のいい面も悪い面も、出来ることも出来ないことも全部入ってて、だからこそ自分にとっては意味深い作品になっていると思います。

そして実はこの作品はまだ「語れる」段階にあったんですよ、書き始めた時点では。
これってよく「顔の絵」って言われるんだけどちゃんと体も描いてあって、まー1.5頭身くらいしかないんだけど(笑)、でも一応全部モデルがあって服装と髪型だけは全部子ども向けのファッション雑誌から取ってきてるんです。その頃子ども向けのファッション雑誌が面白いと思って集めていて、どこらへんが面白かったかっていうと、よーするに明らかに子どもを玩具化しているそのキッチュ感ね。当時は「社会の壊れた部分と自分のなかの壊れた部分をシンクロさせる」なんて言ってて、もちろん言葉に出来ない部分もたくさんあったけど、それでも照準点は明確だったし「なぜこれを描くのか?」みたいな問いにもちゃんと答えることが出来た。
でも最初に作った「枠組み」はそうだったんだけど、描いてるうちにそんなことはどんどんどーでもよくなってしまった。むしろ描いてる最中は描画のことばかり考えていたなあ。「何を描くか?」という問題はフォーマットとしては最後まで残ってはいたんだけど、その意味合いは描き始めのころと描き終わった頃ではだいぶ変化していた。ある意味この作品は、作品についての「説明の言葉」がどんどん薄れていく過程でもあったんです。



「内側(部分)」 2000-     

これはその次に描いたシリーズですね。この作品あたりから手法的には完全にオートマティズムになっていきます。
いつも作品を描くときは、最初に「こんな感じのものを作りたい!」という漠然とした「感覚」みたいなものがある。それは具体的なビジュアルイメージではないんです。例えばこの作品は、とにかく巨大な画面にギッシリビッシリなにかが詰まってる、みたいなそんな感じだった。
それで次にそれを作るためにはどーゆー技法で、どーいった素材を使えばいいかを考える。六畳一間で制作も生活も作品の保管もやってるから、「巨大な画面」って言っても普通にやっちゃ描けないわけですよ。それでいろいろ頭絞って「小さい絵を繋げて大きくすればこの部屋でも描けるし、作品の保管も出来るんじゃないか」って思い付いて。つまりこの絵って一枚はB4サイズなんですけど、まずその一枚を埋め尽くすようにペンでドローイングしていくんですね。それが描き終わったらその隣に新しい紙をおいて、その「つづき」をまた描いていく。そうやって上下左右どんどん繋げていくと細密な描写がぎっしり詰まった巨大な絵が出来上がるっていうワケ。
だから基本的にこの絵には「大きさ」っていう概念はないんです。どこまでも繋げて広げていけるし、果てはない。つまり作者である僕自身も決して全体像は見ることができないわけです。描いているドローイングもどんどんその前に描いた「隣のドローイング」に影響されて変わっていくしね。ある意味それって自分自身の内側をどんどん掘り広げていくようなそんな作業なんだけど、ここで明確に「何を描いているか?」っていうのは既に僕自身にも分からなくなっている。むしろそれを探るために描いていると言ってもいい。



「1200人」 2002     

これは逆に小さい絵が描きたくて描いたシリーズ。小さい絵をたくさん描いても管理が大変そうだなーって思ってたときに、ふと原稿用紙の升目を目にして、あーここに描けば管理も楽だな、と(笑)。それで升目のある紙をノートとかいろいろたくさん集めて、とにかく埋めまくりましたね。
これもやってることは前の作品と同じなんです。オールオーバーか並列かっていう差があるだけでね。「よくこんなにたくさん考え付きますね」とか言う人がいるんだけど、こんなもん考えてたら出てくるわけがない。頭からっぽにしてオートマティズムでどんどん埋めていくんです。そーするとこーゆー変なもんがいっぱい出てくる。それがいったい何なのかは、僕にもまったくワカラナイ(笑)。



左「個人史(幼年期の終わり)」、中「個人史(クロノスと魚)」、右「個人史(背後霊)」 2003   

そうそう、タイトルの話をしないと。基本的にタイトルの付け方には二パターンあって、「湧いてくる」パターンと「降ってくる」パターンの二通りがある。「湧いてくる」っていうのは文字通り描いていると画面のなかからタイトルがじわっと湧き上がってくるような感覚。つまり描いている最中になんか自ずと決まってしまう。対して「降ってくる」っていうのは、必要に応じてタイトルを考えていると、どこからともなく言葉が降ってくる。それはピタッとそこに留まるものもあれば、そのまま通り過ぎてどっかに行ってしまうものもある。留まってタイトルとして正式採用されたものでも、何日か経つと「なんでこんなタイトルにしたんだろう?」って居心地が悪くなってしまうものもある。
このシリーズはトニカク黒い感じ!とか思って描いた鉛筆画のシリーズなんだけど、「個人史」っていうタイトルにした。典型的な「降ってきた」パターンで、一枚一枚にも同じように個別のタイトルを付けてるんだけど、この頃はその降ってきたタイトルの「留まる率」がまだ高くて、今見てもそれぞれのタイトルはしっくりしてる。でもこのあとだんだんその「打率」が落ちてくるんです。



左「手遅れ」、右「愛しい人」 2005     

これは繋いでいくのとはまた別の方法で大きい絵が描きたくて描いた作品。小さなエスキースを分割してプロジェクターで大きな紙に投影してトレースし、その一枚一枚を個別に仕上げたものを組み合わせると大きな一枚の絵になるという仕組み。
このシリーズも個別に一枚一枚ちゃんとタイトルを付けてるんだけど、典型的な「降ってきた」&何日か経ったらしっくりこなくなるパターンで、なんでこんなタイトルにしたんだろーって首を捻るものが多い。つまりこのあたりから作品について「語れない」だけでなく、タイトルすらも付けられなくなってきた。



左「治療」、右「治療」 2006     

この作品のシリーズタイトルは「治療」。実はこれを描く前にしばらくCGのドローイング作品を作っていて、結構な枚数を描いたんだけど、それはついにタイトルが付けられなくて全部「無題」にしちゃったんだよね。今までなんとか「無題」だけは避けてきたのに、ついにもうそれしか付けられなくなってしまった。それでその頃ナンカ原因不明の腹痛に悩まされるようになってて、病院に行ったら過敏性腸炎でストレスが原因だって言う。でもゼンゼン思い当たる節がなくて、もしかしてここんとこずっとデジタルで制作してるから「テクノストレス」ってやつかな?とか思って、試しに治療の為にアナログに墨と筆で描いてみたのが、このシリーズなんです。結局これも100枚くらい描いたけど、やっぱりタイトルが付けられなくて、じゃあ過敏性腸炎の治療の為に描いたんだから「治療」でいいやって。このシリーズは一枚一枚の個別のタイトルはないんです。100枚全部「治療」。わかりにくいったらありゃしない(笑)。
そーそー、結局腹痛はそれまではどんな薬を飲んでも効かなかったのに、これを書き始めたら三日で治りました。やっぱり絵って偉大だな~と改めて思った(笑)。

ただこの頃になると「タイトルが付けられない」意味合いも少し変わってきた。降ってきたタイトルの「留まる率」が下がってきたとか、そーゆー問題じゃなくなってきたんです。むしろどんなタイトルを付けても、それが「しっくりきてしまう」ようになってしまった。つまりAというタイトルを付けたらその絵はAという作品として、Bというタイトルを付ければそれはBという作品として、充分成立してしまうような気がしてきたんです。しかもそれがAでもBでもCでもDでもEでもZでもなんでもいい。それってある意味タイトルが降ってこなくなることより、ずっと怖いことなんです。「何でもいい」っていうことは、「選べない」ってことでもある。しかもその何でもいいなかから無作為に一つのタイトルを選んでそれを付けてしまったら、その瞬間からその絵は「あったかもしれない無数の可能性」を封じられて、その名の下に生きていくことを余儀なくされる。そのことを考えると途端に「失語症」になってしまう。


「名無し」 2007        

そー、それでこいつら「名無し」ね。結局これも一個一個全部に名前が付けられないんで「名無し」にしたんです。まー「無題」と一緒なんだけど「無題」よりは気が利いてるかな、と。
つまりもうここまでくると、タイトルが付けられないことを逆手にとってタイトルを付けてるわけですね。



[作品を語ることについて]


さて僕が作品について「語れなくなっていく」過程を自作に沿って説明したわけですが、でもよく言われるじゃないですか、世間では、「作者はもっと作品について語れ!」って。日本の作家は自作について語れないとか、挙句は作家にプレゼンテーションの技術を伝授するNPOまであるらしい。
でもよくよく聞いてみると、そこで作者に「語れ」と言われてる内容って、要は商品の新開発プレゼンテーションっていうか、もっとレベルの低いのになると入社試験の面接の自己PRみたいな、要するに営業用のプレゼンテーションなんですね。言ってるほうも聞いてるほうも半分嘘だとわかってやりとりしてるような、そんなコトバ。
まあ百万歩くらい譲って言えば、美術市場というものが確として存在して、「作品」は商品としてそこで流通する。そして得てしてそこでは作者自身がセールスマンとしての役割を担わなくてはならないというのもまた事実なんで、作家に営業トークの技術を求めるってのも、まームベナルカナって部分は確かにある。
でも作品とコトバをめぐる関係が、そんなfxxk!な営業トークだけだとしたら、それはいくらなんでも貧しすぎる。そんなことばっかり言ってるから、シーンが枯れるんだよね。

一方で「言葉にできないことを表現してるんだから作品については一切語らない」っていう態度の作家もいる。僕も実ははじめはそう思ってたんだよね。つまりスタート地点として「言葉にはできないものを表現するんだ」っていう「悟り」があったから、それをもう一度言葉にする必然性ってのが分からなかった。
でも、今日お配りしたプリントは僕がweb上で初めて描いた展評で、去年西洋美術館でやっていた「いろいろメガネ」っていうイベントについてなんだけど、例えばそこに載っているモネの≪プラン氏の肖像≫についての作文なんて、そんな短い文章なのにモネの絵をめぐる見方を一変させてしまうような、そんなスゴイ魔力を持っている。そこにも書いたんだけど、作品をめぐるコトバには実は凄く大きな力が秘められていて、それは見るものと作品の関係を一変させてしまう可能性も持っている。そしてそこには、見るものの世界を拡げるというプラスの面と、逆に見方を限定してしまうかもしれないというマイナスの面の、両極面がある。
確かに負の側面のほうに配慮して「何も語らない」っていうのも一つの態度だと思う。でもそこに作品と見る人のあいだに無限の世界をひらくという可能性が少しでもあるのなら、それに賭けてみたいという気持ちも強い。

でも「どうやって?」っていう問題が、常にある。そりゃ確かに「この作品はコレコレこーゆーコンセプトで、こんな意図で作りましたっ!」みたいなパネルを展示室に貼っておくっていう、あんまり頭のよくない方法もあるよ。でもタイトルすら付けられない有り様のこの俺には、そんな野蛮な方法はとてもじゃないけど取れやしない。
じゃーいったいどーやって作品についてのコトバを放てばいいのか?

そんなことを考えてるときだったんだよね、ちょうど、吉原さんから「現場」研webのレビューコーナーに展評を書かないか?っていう誘いがあったのは。
僕が「現場」研の集まりに顔を出すようになったのは2002年の秋頃かなあ。20代のころは自分がなにをやっているのかってのがなかなかわからなくて、自分が作っているものが「美術」なのかどーかさえもわからなかった。むしろ「美術」からは疎外されてる気がしてた。
でも30になったとき「もーそんなことで悩んでるときじゃない!」ってハラ括って、それで30歳の誕生日に「画家宣言」したんだよね。数人の友人にメールで送っただけだけど(笑)。でもこれからはここで戦ってやる!ってそう決意した。
「現場」研に誘われたのもちょうどそんなときだったから、初めはもう敵陣に乗り込んでいく気持ちだよね。まず敵のことを知らなければ!って。「現場」研っていうのは美術の現場に携わっている人をゲストに呼んで毎回現場のナマの話を聞こうっていう会なんだけど、参加してみて「美術」の、というか「美術界」のイメージは変わりましたね。なんか勝手に手の届かないところにいる巨悪(笑)とか思ってた人たちが、実はあんまり景気のよくない業界の劣悪な労働環境のなかで、日々自分の仕事を懸命にこなしているんだって知って、なんか「倒そう!」とか思ってたのが「う~ん、逆に俺が盛り立ててやんないとイケナイのかな~」なんて気にすらなってしまった(笑)。
でもやっぱり現場の人の話が聞けるのは面白く、周りに美術の話が出来る人間もいなかったんで、そのまま「現場」研自体には毎月の会合を楽しみにしながらずるずると出続けてたんです。

ところが一昨年の夏くらいかな。「現場」研でホームページを作ろうっていう不穏な動き(笑)があって。ケッコーみんなあれがやりたいこれがやりたいって盛り上がってたんだけど、僕はどっちかっていうと距離を置いてた。こんなのに巻き込まれたら貴重な制作の時間がなくなるぞ!って警戒して。でも「信頼できるレビューコーナーがあるといいね」みたいな案は出したりしてたんだけど、それも単なる思い付きで。だから吉原さんから執筆の依頼があったときは意外だったし、書く気もまったくなかった。
だからものすごーく距離感のある返事をしたんですよね。なんかもー書くとしても10年くらい先ですねってくらいのやる気のないメールで(笑)。一応その返信を出した後に、でも「俺が書くんだったらどの展覧会がいいだろう?」ってちょっと考えてみたわけ。で、たまたまそのとき西美でやってた≪いろいろメガネ≫のことを思い出して、これだったらちょうど自分がいま考えている問題にも繋がるし、なによりも常設展示のレビューってのも変わってて面白いかな、と。あと吉原さんに「書くとしても10年先です」みたいなメールを送った翌日に、「もう書きました!」って原稿送りつけたら、とりあえず笑いは取れるかなって(笑)。まー真面目半分本気半分みたいな感じでチャッチャと書いて送った原稿が、いま皆さんのお手元にあるやつですね。
それでとりあえず一本書いたからもーいーだろーってそのままほっぽっといたんだけど、「お前面白いからもっと書け!」っていう要請が来まして、それならばっていうんで以来だいたい月1本くらいのペースでポツポツとですが書いてるというワケです。

でも本格的に書き始めるにあたっては、結構悩んだんですよね。つまりあのレビュー欄にズラッと並んでる執筆者名って、僕以外はみんな本職の美術評論家じゃないですか。このなかで俺が文章を書くにはどーゆー意味があるんだろう?、と。
モチロン僕に評論家の真似事が出来るわけがないし、するつもりもない。展覧会は好きでいろいろ見ているほうだとは思うけど、それにしたって細かくギャラリーを廻ったりはしてないから、格別他人が知らない面白い情報を持っているというわけでもない。日本語もまだまだ練習中だし、こんな俺が他人様の作品について書くとしたら、それはいったいどういったスタンスで書けばいいんだろう?って。
結局結論としては、一人の作家として、つまり「俺」として書くしかないってことだったんだよね。あそこで書いてることって誰に向けて書いてるかといえば、実は誰よりもまず自分に向けて書いている。放ったコトバはブーメランのように旋回して、常に我が身に突き刺さるようにしている。多分そのリアリティがなくなったら、俺があそこで文章を書く意味なんてない。

しかしそもそも自分の作品について語れない人間が、どうして他人様の作品や展覧会についての文章が書けるんだ?っていう問題がある。自分のことはわからなくても他人のことならわかるのかっていうと、そんなことは全然ない。他人のことだってやっぱりわかんないんだよね。でも俺が見ず知らずの他人の生み出した作品を見て、そこにナニカを感じたりする。それって、その作品の持つナニカが、俺の中にあるナニカと共振してるってことなんだと思う。だから俺が他人の作品について何かを語ろうとするならば、その共振している「自分の中にあるナニカ」に基づいて書くしかない。ある意味それは開き直りでもあるんだけど、それでも「俺」とその「作品」のあいだのリアルって、結局そこにしかないんだよね。
だから書いている内容は全部他人の作品や展示についてなんだけど、同時にそれは全部自分についてのことでもある。つまりこれも作品とコトバをめぐる関係の模索のひとつなんです。語っている対象は他人の作品や展覧会なんだけど、それはどこかで自分の作品を語ることにも繋がっている。

結局作品とコトバをめぐる関係なんて無数にあると思うんです。僕が展評を書くのも、あくまでその試みのほんのひとつにすぎない。しかもそれって僕はたまたま「作者」のひとりだけど、実は誰でもいい。≪いろいろメガネ≫のなかでモネの絵について書いているのは小学生だしね。別に専門家でなくて「作者」なんかでもない、一介の小学生が放ったコトバがその絵をめぐる世界を一変させてしまう可能性だって充分あり得る。作品とコトバをめぐる関係ってそのくらいセンシティブなものだと思うんです。

繰り返しになるけど、そこにはプラスの面とマイナスの面の両方がある。可能性を押し広げるチカラと押し殺してしまうチカラ。それでもそこにほんの少しでも作品とそれを見る人の世界を拡げる可能性が秘められているのだとしたら、俺はそれに賭けてみたい。そのことに対する模索はこれからも続けて行きたいと思ってるし、それにもしもっともっと大勢のひとたちが「自分のコトバ」で作品について語り始めたら、「作品」をめぐる世界は一変してしまうのかもしれない。そんな気さえしますね。



≪会場との質疑応答≫

中島水緒:展評でもそうなんですが、水野さんの場合は自分の問題にひきつけて美術を語っているから、地に足がついている印象を受けます。自分の言葉を探りながら作品を語る、これは一見地道な作業でいい面も悪い面もあるでしょうが、支持したい姿勢ですね。

水野:自分の言葉、ということは、文体も含めて常に考えながら書いています。単純にムズカシイ文章は自分じゃ書けないし読めないってのもあるけど、美術評論ってなんか難解な文章ってイメージがあるじゃないですか? まー凄くステレオタイプなイメージですけど。でも一概にムズカシイ文章って言っても、なぜムズカシイのか?は、個々の文章によってその事情が異なってるのだと思います。特に専門用語と業界用語の違いってのはあると思う。専門知識を説明するのに必要なのが専門用語で、自分がその分野の専門家であるというチンケなアイデンティティを守るために必要なのが業界用語。業界用語はむしろ初心者や部外者には通じないほうがいいんです。そのコトバを知ってる/使えるってことだけが彼の「専門家」としてのアイデンティティを守ってるわけだから、かえって簡単に理解されちゃ困る。だからムズカシイ文章って言っても三種類くらいあって、まずその難解な言葉を使わないと説明できない場合。あるいは単に文章や説明が下手クソな場合。そしてそれが専門用語ではなくて実は単なる業界用語である場合。
とりあえずいまんとこはムズカシイ言葉も概念もぜんぜん知らないからなんとかなってるけど、でもこの先自分がものを書くことに手馴れたとしても、業界用語でタブラカスよーな文章だけは書きたくないと思ってますね。あと手癖で書けるようにだけはなるまいと、いつもそれだけは心がけてます。まーまだまだ全然心配ないけど(笑)。でも「自分の言葉を探りながら語る」という姿勢がなくなったら、僕が作品について語る意味はなくなると思ってます。


吉原:展評を書くときは自分に向けて書くとおっしゃっていましたけど、では作品を制作するという行為は外に発信しているのですか、それとも内ですか。

水野:僕の場合「作ること」と「見せること」は自分の意識のなかで完全に分離していて、基本的に「作ること」は自分ひとりのためにやっています。それは僕が「生きる」上で必要不可欠の行為に近いんです。対して「見せること」は、完全に他人のため、もしくは作品のためにやってます。作品たちにしたって一生僕ん家の暗い押入れの中から出られないんじゃカワイソーだし(笑)。だから展示に関してはいつもエンターテイメントを目指しています。見る人と作品とが最良の「出会い」を出来るよう演出するのが展示だと思っています。


提髪明男:「現場」研の展評ブログは好きなこと書けるからおもしろいんだけどね。水野くんが作家として自分に向けて書くというし、僕は観察者としてなぜ自分にとって面白かったかを、自分を解剖するように書いてる。そういう意味ではさまざまなタイプの展評があっていい。

水野:今は個人のブログで展覧会の感想を書く人も増えているし、今まで本当に一部の専門家だけに寡占されてきた「作品とコトバをめぐる関係」が、メディアの多様化によって今後は少し変わっていくんじゃないかなーという気はしています。

提髪明男:大部数を刷っている媒体の美術批評は大部数分だけ薄まってしまうのはしょうがないけれど、ブログは個人の心象なども投影されていて、そこがおもしろいと思う。


佐原和人:僕は作家ですが、評論ってあまり読まないんですね。なんか型にはめて書かれてたらやだなっていう気持ちもあるし、水野くんの言っていたように、作品は類型的な部分だけでなく、その軌跡も含めてその全体を見たいと思ってるし。作品というものは作家個人を投影するものだから、そのプロセスというものは必ずあるものだし、その人個人が見えてくるのがすごくおもしろいから、僕は人の作品を見たりするんだけど、それを型にはめてインデックス化してしまうと別のものになっちゃうんじゃないかなって危惧はあります。

水野:展覧会というメディアは凄く不便でぜんぜん現代的じゃなくて、つまり限られた会期内に開催されているその場所に行かないと見ることが出来ない。全ての展覧会を見ている人なんていないわけで、だから表層的な部分だけを掬ってインデックス化してみせただけの、底の浅い「評論」がハバを効かせたりもするんだろーけど。でも僕はその「その時その場に行かないと見ることができない」という不自由さにこそ、展覧会というメディアの特質と可能性はあるとも思っているんです。
ただ世の中の大半の人はその展示なり作品なりを写真や記事でしか目にすることが出来ないというのもまた事実なワケで、そうすると結局写真うつりのいい作品や展示ばかりがメディアを賑わせるという事態にもなりかねないし、現にそうなっているフシも多々ある。だからこそ作品とコトバをめぐる関係というのは、他のどのメディアと比しても美術や展覧会といったジャンルにおいては重要になってくると思いますね。


吉原:では、そろそろお開きにしたいと思います。今日はありがとうございました。

(2007年5月26日)

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