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mailto「現場」研究会について今月の「現場」研究会
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先日は現場研お疲れ様でした。
今年最初の現場研ゲストはフリー編集者の三上豊さんでした。

現在は和光大学教授として
編集術コース・現代美術を担当されています。

出版社の美術部門が縮小されつつある現在では
実現不可能な美術全集黄金期ともいえる時代の
大手出版社の豪快な裏話、
スカイドアでの単行本の制作など
幅広い活躍をされた貴重なお話をうかがいました。

また10年ほど前から
ときわ画廊や秋山画廊、日辰画廊、靭ギャラリーなどの
画廊の活動記録をライフワークとして
個人で制作、出版されています。
非売品なので店頭で手に入れることはできませんが
冊子販売所とされている和光大学芸術学科三上研究室へ
問い合わせをすれば
残部のある冊子であれば送っていただけるそうです。
貴重なアートドキュメンタリーですね☆

三上研究室では
美術手帖などで活躍する若き美術評論家も輩出し
書き手の質と底力はここで培われているのだと
納得の指導方法もお聞きすることができました☆


●2008年2月16日(土)「現場」研究会討議記録

テーマ:美術図書の編集について
ゲスト:三上豊(美術図書編集者)

●要旨
フリーの編集者として、小学館やスカイドアなどの出版社で雑誌・書籍の編集に携わり、画廊の記録集の編纂なども展開している三上豊氏をお招きし、美術図書の編集についてお話を伺った。

●三上氏の発表
<大学卒業の頃>

私が初めて現代美術から衝撃を受けた体験が、1970年に東京都美術館で開催された東京ビエンナーレという国際展でした。70年といえば、大阪の万国博覧会もあったのですが、中原佑介さんや当時毎日新聞で働いていた峯村敏明さんらが関わった都美術館のビエンナーレの方はお客さんが入らなくて…。そのビエンナーレで、美術館の床全面を布で敷き詰めるクリストの作品や、リチャード・セラが植えた木の作品を見まして、こういうものが美術でいいのかな?と、衝撃を受けながらも現代美術の洗礼を受けたわけです。大学2年生くらいの頃ですね。 和光大学では、多木浩二さんのゼミに属していました。多木さんが映像論の講義をやっていたんです。和光に入学したのも、映画が好きだったので、何か映画のことを勉強できる大学かなと思い入ったのですが、全然違いまして…(笑)。 実際入ってみたら多木さんは悪い先生で、まずほとんど大学に来ない(笑)。ゼミでやったのは、オランダのデ・ステイルです。いま世界遺産になっているシュレーダー邸や、リートフェルトのレッド・アンド・ブルーチェアーなどを(模型で)復元して作ったりしました。その時にコルビュジェとかライトとかミースなど、近代建築の三大巨匠をグループに分けて研究しろと言われたのですが、大学の図書館には何の本も文献もなかった。街の本屋に行って鹿島出版社のミースの本があっても、高くて買えなかった記憶があります。リートフェルトの洋書を一冊多木さんが持っていたのですけれども、「コピーするのが面倒くさい」とか言われて。結局何をやっていたのかよくわからないのですが、デ・ステイルを具体的な〝もの〟を造って体験したことは、後々、『美術手帖』の編集部に入ったときに役に立ちました。

<『美術手帖』時代>

大学を出てからは、映画の助監督のようなことをやっていました。そのあと26歳か27歳くらいのときに、『美術手帖』にアルバイトとして入りまして、それが3ヵ月。正式に入社してから11年間『美術手帖』の編集をやりました。その間3人の編集長と仕事をしたわけですが、いまご活躍されている椹木野衣さんとも一緒に仕事をすることがありました。 『美術手帖』をやっていたときは、原稿料も安くて、なかなか原稿料を払えないから、自分の知りあいの筆者にしか原稿を頼めなくなるんですが、そういう風にやっていくと、だんだん自分の世界が狭くなっていく…。そのへんが嫌になって、辞めたいちばんの理由はそれだったと思います。 『美術手帖』での経験で有難かったのは、大学時代の先生である多木さんとまた巡り会ったことです。多木さんといろいろな特集を企画したことが、自分の力になりました。例えば、SFの図像の特集で、SFに関連するいろんな図像を(マンガや映画からチョイスして)並べてイコノロジー的に解読してみたり。写真や建築、ファッションの特集とか、正統な美術ではなく少し外れたところにあるものを多木さんと一緒にやる。おかげで自分の興味の幅を広くとれたということがありました。

<小学館での大型企画>

『美術手帖』を辞めた後、ちょうど昭和が終わった頃で、昭和の時代を総括する企画が出版界で流行っていたのですが、毎日新聞社から『昭和の美術』という全6巻の本が刊行されました。そのときに、「アート・ドキュメンタリスト」という言葉を最初に使った人である中島理壽さん――当時は都美術館の司書をされていて、いまは新国立美術館でアーカイブの仕事をされている方です――、彼と付き合いがあった関係で、『昭和の美術』の編集を手伝う仕事などもやってきました。そこで、近代の日本画の世界を知るようになります。なかなか新鮮でした。日本の近代美術を見直す機会が与えられたことで、非常に勉強しました。月刊誌をやっていくときには数ヶ月前から企画のために動いていきますけど、完成したらそれはそれで終わり。でも、外に出てフリーの編集者になって勉強しようとすると、学んだことがずっと継続していくんですね。それが自分の中では大きな体験でした。
そのあと小学館の『世界美術大全集』の編集を藤原えりみさんたちと一緒にやります。『原色日本の美術』という本があるのですが、美術全集というのは、1928年か29年に平凡社が20巻くらいの美術全集を作ったのが最初です。だいたい、20年周期くらいに、大きな美術全集が出てくる。今でも出ているじゃないかと思う方がいるかもしれませんが、外国のシリーズものを翻訳してつくる全集と、自分たちが企画して、日本人の筆者を立てて、図版構成をしてつくる全集とでは根本的に違います。よく岩波とかが出版している全集はカラー図版がたくさんあるけれども、翻訳物というのは、英語版のテキスト部分のフィルムを外して、日本語のフィルムを入れているっていう形。つまり、そういう形とは違うものが20年に1度くらい出てくるのです。
残念なことに、今では講談社、小学館、集英社も美術の編集部は解体してしまいましたが…。それら大手の美術全集のほとんどを一手に引き受けていたのが座右宝刊行会という戦前からある会社です。その歴史を見るだけで美術全集の歴史がわかるというくらい、大手の編集を手がけていた会社なんです。その会社がバブルのちょっと前に倒産してしまいまして、色々なプロダクションに社員が分かれていくんですね。そのうちの一つが小学館の子会社なんかに吸収されていくんです。非常によくできる編集者がたくさんいました。私なんか比べ物にならないくらい勉強や語学が出来る人たちが揃っていました。小学館はその人たちと自分の社員を入れて、世界美術大全集のスタッフを作ったわけです。私は19、20世紀の4巻くらいを担当しました。その当時、資生堂ギャラリーの75年史の作成、スカイドアの編集、大学の非常勤の仕事もあり、全面的に小学館のほうをフルに出来る態勢ではなかったため、しんどい面がありました。
印象に残っているのは、その小学館の全集で20世紀のパートをどう作るかで揉めていたとき、ジョン・バージャーの著作に〝20世紀の美術は大体が抽象系と具象系に分かれる〟ということが書いてあったのを思い出して、それを会議の席で私が発言したことで、シュール系と抽象美術系に大別した方向が出来上がりました。ちょっとしたことで大きなことが決まりびっくりしました。
昔、小学館は、ルーブル美術館の分厚い本も作っています。そういった大型本が書店より売れるのは外商なんです。外商のチームというのが全国にいるわけですが、ルーブル美術館の全6巻本が、例えば、秋田県で100セット、愛知県で100セットとか売れる。みんな大体弁護士とか、お医者さんが買うわけです。昔、百科事典が応接間セットだったように、美術全集もそうやって〝置くもの〟だったんですね。そういう時代が終わっていくわけです。小学館のほうも、西洋編を出した後、東洋編をやって。日本の編集者が編集して、海外に行って(作品を)撮影をして作っていくような規模の大きい紙の全集は、もう作れないと思います。
小学館の大全集が終わった後、フィルムの財産を生かすということで、歴史が専門の編集者の下で『日本美術館』と『西洋美術館』を12人の編集者で作りました。私は『日本美術館』の現代編、『西洋美術館』の中世編を担当しました。その後は『週刊美術館』西洋と日本の各50巻本の編集に関わります。

<スカイドアの出版>

本を売るためには、1冊だけ作っても無意味だから書店ルートを作ったほうがいいと考えられることもあります。対してスカイドアの場合、「1冊作るのが無意味なら自分のところのお得意さん(会員組織)に配るための機関誌を作ろう」というスタンスです。この機関紙(「コンテンポラリー・アーティスト・レビュー」)では、日本の若手の作家のインタビューを中心に載せました。スカイドア(のギャラリー)で展覧会を開く作家を主にフューチャーしたのです。そのほかには、外国人作家を取りあげたり、コレクターの特集をやってもらったり。コレクターを紹介する連載は、最終的に『マイ・アート』という本にもなっています。スカイドアの機関紙は、1号作るのに大体400万円くらいかけて、1000部ほど刷っていました。
出版と一緒に運営していたのが(アートプレイス青山という)ギャラリーです。ギャラリーの運営をするうえでカタログを作ったほうがいいとアドバイスしたり。インスタレーション・ビューも入れたカタログ作りは、当時ではフジテレビギャラリーとスカイドアぐらいしかやっていません。何でインスタレーション・ビューが必要なのかというと、ある会場でどんな展示をしたかということが、非常に重要なものとして後々に残るからです。こういった形が、アートドキュメンテーションの最初のものになるんです。
画廊の印刷物と同時に並行してやっていたのが単行本の製作です。大体20冊くらいスカイドアから出版しました。最初に出したのは岡部あおみさんが書いたフランス現代美術の本。フランスの戦後の現代美術の動向をまとめたものが日本でまだ出ていなかったので、彼女に頼んで書いてもらいました。その次が、ブリュッケの橋本さんとの関連もあったのですが、馬渕明子さんの『美のヤヌス』。その後、今橋理子さんの『江戸の花鳥画』とか…そういう他の出版社が出せない美術史のもののルートを作っていきました。
そこではある程度(70パーセント)売れたら直接原価は回収できるように考えていました。直接原価、つまり印税、取材費、写真を借りたりする資金、印刷代、製本に関する費用です。私の場合、人件費は除き、直接原価というものを回収できるように考えて作っていきました。その意味でも、スカイドアの美術ものは、自分がよく知っていて、自分で料理できるものだったんです。

<画廊史の作成>

そんな中、神田にあるときわ画廊が閉まることを知り、ギャラリー史を作ることを思い付きます。なぜギャラリー史に興味をもったのか、それは資生堂ギャラリーの75年史を作っていたこととも関係します。外苑前に「ときの忘れもの」という画廊があって、ここは版画を中心に扱う画商さんなのですが、一度版画を刷りすぎちゃって倒産したことがあったんです。倒産した後、「資生堂が面白そうだから」ということで、その画商さんが資生堂に食い込んでいくんですね。資生堂の企業文化部ができたのもこの頃です。企業文化部ができたことによって、資生堂ギャラリー75年史が予算化され、刊行されます。戦後のギャラリーの資料はあるのですが、戦前部の資料が(戦火で焼けて)ほとんどなかったため、国会図書館に学生チームを作って、新聞、雑誌、主なものを全部見に行かせるわけです。特に雑報欄ってところを。資生堂の〝資〟の字に注意して見てこいとか言って…。それで、マイクロフィルムをひっくり返して、複写して、膨大な資料を作るんです。
今、ときの忘れものをやっている綿貫不二夫さんという方が、資生堂の人たちよりも資生堂の文化史について知っている方なんですね。今でも、企業と文化に関する論文を書きたい人たちが彼のところに出入りしています。そのギャラリーの歴史を作っていくノウハウを利用しつつ、「じゃあ、自分で何ができるか」ということを考え、ときわ画廊の記録集を作ろうと思いたったんです。最後の展覧会の閉廊日に間に合わせるよう作りました。この一連の作業を私は、アートドキュメンテーションと呼んでいるのです。教鞭をとっている和光大学や、以前非常勤として通っていた多摩美術大学の芸術学科の学生などに、教材として配ったりもしています。
ときわ画廊を作った後は、その近くにあった(移転前の)秋山画廊の記録を作りました。それから、銀座にあった日辰画廊。私が記録集を作ると画廊が潰れるとか言われますけど(笑)、そうではなくて、閉廊した画廊を対象にしているのです。秋山画廊を作ったときには、毎日新聞社の三田さんが(記録集のことを)小さなコラム記事を書いてくれたんですね。そしたら、全国から送ってほしいと問い合わせが来ました。マスコミの力はやっぱりすごいなと思いましたね。

今、5冊目をやっています。5冊目の、ある画廊の資料を集めているところです。みなさんにお渡ししたのは、大阪にあった靭ギャラリーの記録集です。78年から85年くらいにかけて活動していたギャラリーでした。これをやろうと思ったのは、関西の空気を知ろうと思ったからでもあります。
2年に1冊くらいの割合で記録集を作っています。なので、私が大学にいる間に10冊くらい作れればいいかなと思います。今5冊なので、あと5冊くらい出したら、いわゆる現代美術系の日本の貸し画廊の姿みたいなものを浮かび上がらせる事ができるんじゃないかな…と思っています。中身の作り方は、みんな違っています。その対象となる画廊をどうやって伝えたらいいのかということと、資料がこれしか集まらないという制約のほうが強いんですね。靭ギャラリーは、本当に苦戦しました。オーナーの方がまだご健在だったのですが、オーナーのところに資料がまるっきりなかったんですね。引越しを3回されていたので、その間になくなっちゃったということだったのですが。お会いして、「大変だからやめたほうがいいわよ」とか言われたのですけど…。
『美術手帖』の編集部にいたとき、大阪に出張があると、日帰りで神戸くらいまでは(美術館やギャラリーを)見に行ったりしていたんです。靭ギャラリーの展覧会もいくつか見ていました。信濃橋画廊、ギャラリー白と靭というのが、その当時の雰囲気を一番よく出しているということを、国立国際の学芸員の方なんかと話をして、出来るんじゃないかと。オーナーのところには、まるっきり資料がない…じゃあどうしようかということで、半年くらいかけて、芋づる式に作家の方の住所を集めてくれたんです。その人たち全員に、手紙を書いて、資料を大学の方に送ってくださいって頼んで。届いたものをスキャナーで取り込み、一つ一つ資料を作っていく作業をしました。作家の略歴は、85年までで切っています。それ以降のものは載せていません。
膨大な資料を何年ごとにまとめたり、どうやって編集しようかを考えていると、資料が自分に語りかけてくる瞬間みたいなのがあるんです。本の作り方が見えてくるのです。それを目の前にしているときが、編集をやっていて一番おもしろいときだと思います。後は、見えてきたものに向って整理していけばいいんです。だいたい700部作るんですけど、全部で35万から40万くらいの費用しかかかりません。自分のお金で作れるものなんです。貸し画廊で展覧会をやったつもりで、自分の作品としてこういうものをつくっていきたいなと思います。

ときわ画廊のときは最後の閉廊のときにいろいろな人がきて配ってくれたんですけど、その資料はぜんぶ東京都現代美術館に収まっています。秋山画廊の資料は、ダンボール8箱くらい送られてきたんですけれども、ある1年間分の資料が入ったダンボールがなかったんです。そこはどうやって埋めようかと考え、文化財研究所と神奈川県民ホールギャラリーに行って、文化財研究所にあった資料を見つけて、複写して載せるというようなことをやりました。神奈川県民ホールギャラリーのほうにもある研究所の資料が寄贈されたとのことで探しに行ったのですが、古くなった紙焼きがひっついちゃって中身が見られなくなっていたので、非常に残念でした…。でも、ないものは復元できないので、そこをどういうディレクションでやろうかなと考えることも結構おもしろい作業なんです。靭ギャラリーの場合は、逆に全く資料がないので、120〜130人の作家と連絡をとって…。郵送代と時間がかかったのを覚えています。今とりかかっている銀座の画廊には、スキャナー取り込みの作業をやってくれる学生が出てきたので、3月に資料を見る段階にきています。
私が記録集を作っていくいちばんの目的は、展覧会をやった作家さんたちに届けたいということなんです。だから、いつも、作家の方からのお礼状が一番うれしいですね。

<ディスカッション一部抜粋>

質問1:この冊子は非売品なんですよね?
三上:なぜ非売品にしているかというと、著作権の問題があります。また、自分のお金で作っているもので、儲けようとしてやっているわけではないので、それに対してお金をもらうのが嫌なんです。送料の切手代だけいただくようにしています。

質問2:今もまだ、冊子の残りはあるのでしょうか?
三上:ときわ画廊はもうないですね。秋山画廊が後少しだけ、日辰画廊、靭ギャラリーはまだあります。

(記録/web complex編集部)

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