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●2008年4月19日(土)「現場」研究会討議記録

土曜日はお疲れ様でした。

ゲストは現場研代表の北澤憲昭でした。
ゲストというよりホストですね☆

今年3月まで北澤は某大学業務に忙殺されており
現場研参加もままならない状況が続いていました。
そのためホスト不在時にお越しいただいた
昨年のゲストのみなさまには大変失礼をいたしました。

今月から復帰しましたので、
今後の会合はさらににぎやかになると思いますので
みなさまぜひご参加ください☆

今回の会合では今年7月に現場研で準備計画しているシンポジウムに関連するテーマをということで
80年代美術についてお話いただきました。
(シンポジウム情報については詳細が決定次第お知らせします)


●2008年4月19日(土)「現場」研究会討議記録

80年代アヴァンギャルド美術を再検証するシンポジウム開催に先立ち、80年代美術の概要をメンバー内で共有するために4月に開催した定例会討議記録

テーマ:80年代アヴァンギャルド美術について
北澤憲昭

 70年代の二度に渡るオイルショックが日本の経済成長に歯止めをかけ、経済的な豊かさに支えられた闘争する進歩主義が後退した。そして、いわゆる「新保守主義」が議会政治の表舞台に登場してくることになった。このような流れのなかで、美術においても、70年代後半からは60年代の反芸術アヴァンギャルドを否定し、歴史に根ざす表現媒体すなわち絵画や彫刻へと回帰する保守的な動きが見られるようになった。
 このような動きのなかでアヴァンギャルド系現代美術は、いったん歴史の表から姿を消したかにみられているが、しかし、どっこい生き続けていた。その拠点となったのが画廊パレルゴンである。
 パレルゴンは若い人たちが共同運営するオルタナティヴ・スペースで、利潤を目的としない現在のNPOの先駆けのような画廊であった。藤井雅実がオーナーを務め、大村益三や関口敦仁といった作家たちが発表を行っていた。岡崎乾二郎や松浦寿夫もかかわっていた。
 神田にはパレルゴンのほかにも、いくつかの画廊があった。山岸信郎が経営する田村画廊、この画廊は「もの派」以後のアヴァンギャルドの拠点で、「く」の字に曲がった不思議な空間構造をもっていた。道を挟んで、その向いには彫刻専門の秋山画廊があり、ときわ画廊や真木画廊といった画廊もあった。これらはすべて貸画廊だったが、購入予算をもつ公立美術館の台頭とともに、やがて貸画廊ではなく画商が力をもつようになった。
 公金を基盤とする仮初めの現代美術マーケットが成り立ったわけだが、こうした動きのなかで、発表の場の中心は、貧乏くさい神田からおしゃれな銀座へと移り、さらに青山方面へと拡散してゆくことになる。また、美術館のコレクションとなりやすい絵画、彫刻がもてはやされるようにもなった。絵画、彫刻への関心は、新保守派の台頭と連動する思想的な問題でもあり、また、極限的な表現まで到達した現代美術へのリアクションという美術史的な出来事でもあったのだが、えげつない経済的動因も、そこにはかかわっていたのだ。
 こうした動きのなかで、80年代前半の神田エリアに登場したのがパレルゴンであり、そこを拠点に、さまざまなアヴァンギャルディズムが展開されたのだった。パレルゴンは神田エリアの終焉を告げる最後の花火のようなものだったわけだが、しかし、歴史におけるその存在は、80年代の美術が絵画、彫刻への復帰という動きだけで語りきれるものではないことを示す、なによりの事例といえるだろう。
 しかしながら、これまで美術の80年代は、「絵画」「彫刻」の復権、保守回帰の時代として語られるばかりで、パレルゴンにみられるようなアヴァンギャルドの動きが、きちんと歴史的に位置づけされることはなかった。たとえ「ニュー・ウェーヴ」という名で、アヴァンギャルド的な動きが回顧されることはあっても、その歴史的意義についてまっとうな考察は行われないまま今日にいたっている。保守回帰をシミュレーショニズムという概念によって換骨奪胎する論者はあっても、80年代美術を、保守回帰と、それに対抗するアヴァンギャルドとの関係によって叙述することは――わずかな例外を除いて――企てられたことがない。歴史の多層的を踏まえた80年代美術の再評価は、いまだになされていないのである。
 80年代美術に対し、根本的な見直しがなされなかった原因のひとつに批評家の世代交代と弱体化が挙げられる。針生一郎、東野芳明、中原祐介ら60年代の批評家たちにとってかわって、70年代に登場した峯村敏明ら次世代の批評家たちが、保守回帰のリーダーとして現場の主導権を握ったのだが、その彼らは、台頭するニュー・アカデミズムの論客たちによって、またたくまに相対化されてしまったのである。こうした動きは、批評が現場から遠ざかる現象をもたらさずにはいなかった。この時代は現場と言説とが変質し、拡散し始めた時代だったのである。80年代の総体的な検証が未だになされていないのは、ニュー・アカデミズムに一蹴された現場の批評家たちの不甲斐なさのせいもあるが、彼らに次ぐ批評世代の現場離れの傾向と、現場自体の変質、拡散もかかわっているのである。
 1980年代生まれが20代に達する時代になった。80年代に20代だった世代は中年に達する年代である。われわれは現在、80年代を歴史化できる地点まできたといってよい。80年代の現場と状況について改めて考え直すべきときが、ようやく到来したのである。

[質疑応答]
Q:パレルゴン以外に80年代アヴァンギャルド系現代美術はなかったのか?
A:パレルゴン以外になかったわけではない。真木・田村画廊もいまだ健在だったし、ときわ画廊も活動を続けていた。また、パンフレットやリトルマガジン(小雑誌)という形でアヴァンギャルド系が情報発信するということがあった。

Q:それは画廊が出すのか
A:ぼくが編集していた田村・真木画廊の『展評』誌のように画廊が出版するものもあったが、リトルマガジンの多くは作家や批評家たちのさまざまなグループが発行していた。

Q:そもそもアヴァンギャルドの流れはいつからあったか?
A:日本に関していうと、未来派美術協会を契機に1920年から始まるといってよい。ただし、挿し絵まで視野にいれると、政治とかかわる動きが明治にまで遡ってみとめられる。政治は美術の外部であり、これとかかわる美術はアヴァンギャルドと呼ぶことができる。アヴァンギャルドとは振動する境界のことであるからだ。
Q:20年代によく用いられた「造型」という概念はどのような変貌を遂げたのか
A:「造型」という概念は、美術以外にも、かたちを作る営為のあることに注意を促さずにはいない。たとえば工業は実用的な器物や、生産のための機械を「造型」する。このように美術と美術ならざる営為が「造型」の語で結び合わされるとき、美術の純粋、自律をうながすモダニズムは弱化せざるをえない。それがプロレタリア美術や戦争画を準備したといえる。

(記録/web complex編集部)

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