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「現場」研究会特別編 シンポジウム開催報告

80年代におけるアヴァンギャルド系現代美術
――画廊パレルゴンの活動を焦点として――

[発表順番=掲載順番]
1. 暮沢剛巳
2. 藤井雅実
3. 大村益三
4. 吉川陽一郎
5. 市原研太郎
6. ディスカッション

司会
 最初の発表は暮沢剛巳さんです。
 暮沢さんには、絵画、彫刻の復位要求などがおきた80年代美術の全般的状況について、加えて、文化論一般、ニュー・アカデミズムなど当時の現代思想について、現在の視点から基調報告していただきます。発表時間は25分を予定しております。それでは暮沢さん、よろしくお願いします。




暮沢剛巳
 美術史のなかで80年代を絵画、彫刻の復権の時代だと捉えるひとつの通念があります。しかし、「復権」というからには、それ以前にかつて絵画、彫刻が栄華を極めていた時代と、冷や飯を食わされていた時代という二つの段階を想定しないといけないので、まずそのお話をします。この動向を分けるにあたって、いろいろな分け方がありますが、海外の動向と国内の動向という分け方が、てっとりばやいと思います。

 まず海外のお話をします。海外の絵画が栄華を極めていた時代でわかりやすいと思われるのは、50年代に全盛期を迎えたアメリカの抽象表現主義の時代です。それがある程度成熟を迎えた段階で、知覚を還元するミニマル・アートという次の段階を迎えますよね。いまご覧いただいているのが、ドナルド・ジャッド(1928-1994)の縦に直方体を並べた作品ですが、ジャッドの場合はスペシフィック・オブジェクトと言って、絵画でも彫刻でもない物体を強調していく戦略をとります。次は、ミニマル・アートとして知られているロバート・モリス(1931-)の作品。ジャッドがメディウムの性格を強調していく戦略をとったのに対して、モリスは空間の性格を強調していく戦略をとりましたよね。ユニタリーフォームという言い方をしていたと思います。こういった作品が60年代の終わり頃にピークを迎えます。絵画、彫刻が栄華を極めた時代から、絵画、彫刻の形式を強調するような時代へ移行していったことが言えると思います。

 次に、しばしば絵画の失権の時代と語られるのが、70年代です。さきほど言った抽象表現主義で始まった絵画のピークの時代が、ミニマル・アートを経て、知覚の追求あるいは形式的な還元において、一定の発展のなかでピークを迎えてしまって、もうそれ以上は追求できない状況まで来てしまった。その袋小路をどうやって突破しようとしたかというと、いわゆる還元的な傾向、コンセプチュアル・アートへ走るということです。表現的・造形的な質というよりは、言語や音に訴える傾向を強くもつようになりました。このソル・ルウィット(1928-2007)は、ミニマルからコンセプチュアルへの傾向を強めていった人なんですが、コンセプチュアル・アートのなかで代表的な作家として知られるのがジョセフ・コスース(1945-)です。彼の場合、椅子と、その写真、特質を述べた活字を並べた《1つおよび3つの椅子》(1965)を制作して、コンセプチュアル・アートの代表的作家として目されています。あとグループ作業として「アート・アンド・ランゲージ」に参加して、グループとしてもコンセプチュアルな作業を続けていきます。こういった傾向が70年代にピークを迎えた一方で、絵画や彫刻といわれた従来のメディアの作品に見るべきものが乏しかったため、しばしば「絵画、彫刻が失権した不毛の時代」という括り方をされることが多いように思います。

 それが復権をとげたと言われるのが今回のテーマである80年代です。これはジュリアン・シュナーベル(1951-)の作品ですが、70年代終わり頃から、ニュー・ペインティングとか、ネオ・エクスプレッショニズムとか、トランスアヴァンギャルディアといった言い方をされる新しい動向が出てきます。こういった横文字の用語は、それぞれ厳密には細かいレベルで違いがあるんですけれど、この場合敢えて3つ一緒にしてしまいます。ジュリアン・シュナーベルの作品を見ればわかる通り、絵画以外の何物でもないですよね。ネオ・エクスプレッショニズムは新表現主義と訳されますが、禁欲的だったコンセプチュアル・アートに対して、激しい筆致などで描き出し、感情の湧出がみられるようになります。次はアンゼルム・キーファー(1945-)の作品です。ドイツの民族性という性格も強くもっているとは思いますが、表現の傾向としての文脈はほぼ同じではないかと思います。イタリアではトランスアヴァンギャルディアという言い方をされたりしますが、こうした文脈で70年代のコンセプチュアル・アートとは全然別の傾向を持った作品が出てきて、これをニュー・ペインティングとか、ネオ・エクスプレッショニズムとか、トランスアヴァンギャルディアと言うようになったのが、80年代の主な動向かと思います。こうした文脈が絵画、彫刻の復権といわれるようになった国際的な大きな動きだと思います。日本でこういったことが語られるようになったのも、この流れを受けてほぼ同じような傾向の作品が台頭してきたからです。

 ここまで海外の傾向として語っておきたいのですが、次は国内の方を見てみます。考えてみたのですが、日本の場合、抽象表現主義的な意味で、絵画が玉座についていた時がおそらくなかったんじゃないかという気がするんです(笑)。何かありましたっけ?・・・アンフォルメルとか・・・そのあたりが入るんでしょうか。アンフォルメルとかは私も考えてみたのですが、なかなか同じ文脈で語ることはちょっと苦しいかという気がしたのです。いまご覧いただいているのは、関根伸夫(1942-)《位相‐大地》(1968)です。先ほど言ったコンセプチュアルとミニマル・アートの系譜で考えると、もの派という決定的に重要な出来事が、60年代末期から70年代の初めにかけて起こりました。これは、題材としての木とか石をそのまま作品とし提示する作家の一派という意味です。少なくとも絵画ではないわけですから、このような運動が中心を占めていたこと自体、それ以前の絵画の支配的傾向が弱まっていたということになります。国際的な動向ではミニマリズム、あるいはそれに続くコンセプチュアル・アートの動向におそらく位置づけられるだろうという、重要な性格モデルとして位置づけられますよね。中原佑介さんが1970年に企画した「人間と物質」という展覧会も、もの派に対してそのような文脈を与えたことで知られています。次は、もの派のなかで重要作家として知られる李禹煥(1936-)の《関係項》という作品ですが、こうしたもの派のような作品が主流になり、その後に――一括りにしていいのかわかりませんが――ポストもの派といわれる傾向が70年代後半から台頭してきます。彼らが、もの派の出した問題を克服するために、試行錯誤を繰り返す。今日お話しするパレルゴンの方々も、おそらくこうしたなかに括れると思います。こうした文脈があり、海外に対して日本で「絵画の復権」とか「彫刻の復権」として語られる時代があったとしたら、その前にあったもの派との関係が決定的に重要な要素を持ってくるんじゃないかという気がします。

 そして、ニュー・ペインティングに対応するような動きが、日本でも82、3年頃から現れてきます。いま見ていただいている日比野克彦(1958-)の作品なんかもそうです。彼はグラフィック展の大賞を受賞したことがきっかけで世に出たわけですが、当時日本のファイン・アートのなかでは、そうした作品の受け皿がなかったので、グラフィック系の文脈に依拠する必要があったんですね。次の、2006年に大きな展覧会をした大竹伸朗(1955-)なんかもそうで、日本でニュー・ペインティングに対応するような動きが出てきたのは、おそらく彼らが台頭してきたことによるだろうと思います。ファイン・アートのなかよりグラフィック・アートやデザインの方に近いところから頭角を現してきたのは、当時の日本のアートの状況をあらわす兆候だろうと思います。

 今日の話とはずれるんですが、このニュー・ペインティング現象はさらに進められて、80年代後半になって、アプロプリエーションとかシミュレーショニズムと形容され、次の資本主義の発展段階に対応したようなアート作品に展開していきます。日本で言うとこれに対応するのは、村上隆(1962-)かヤノベケンジ(1966-)とか中原浩大(1961-)といった人達の作品になるでしょう。シミュレーショニズムの時代のピークは海外では80年代末期なんですが、日本では90年代に作家の問題になるので今日の話のなかには入ってこないかなと思います。

 今までが海外と国内に分けた場合の、主に美術の動向に着目したレベルになるわけですが、じゃあその背景として、どのような思想的ムーヴメントがあったのか。ひとつキーワードとして挙げられるのが、ポストモダンあるいはポスト・モダニズムということになると思います。この言葉自体は説明の必要がないかもしれませんが、どういうことかと言っておくと、ヨーロッパのポスト近代思想ですよね。固有名詞で言うと、ニーチェ(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ、1844-1900)、フロイト(ジークムント・フロイト、1856-1939)、ハイデガー(マルティン・ハイデガー、1889-1976)らによって確立されたモダニズム思想なんかを克服しようとする動きです。現実社会のなかで言うと、1968年5月にパリで五月革命という政治的出来事が起こりますけど、それにインスパイアされた70年代フランス現代思想というかたちで開花したものですよね。その後日本でもたくさん翻訳されましたよね。具体的に言うとドゥルーズ(ジル・ドゥルーズ、1925-1995)・ガタリ(ピエール=フェリックス・ガタリ、1930-1992)の『アンチ・オイディプス』(1986)とか、概念で言うとデリダ(ジャック・デリダ、1930-2004)のディコンストラクション、脱構築ですよね。今日の話題になっているパレルゴンというのも元はカント(イマヌエル・カント、1724-1804)の『判断力批判』(1790)にある言葉なのですが、これを再解釈したしたのがデリダの『絵画における真理』(1978)であって、このあたりは藤井さんからお話があると思います。あと、冷戦時代とその終わりに対応している言説というと、ジャン=フランソワ・リオタール(1924-1998)の「大きな物語の終焉」、ヘーゲル的な歴史的読解を組み替えていったところ、たまたま冷戦時代の終わりに対応していたという符合をもつんですけども、それがポストモダン思想としてかなり広く展開される。これらの文献の翻訳は70年代からされていましたが、これが開花を迎えたのが80年代のニュー・アカデミズムということになります。

 これは僕の個人的見解なのですが、ポストモダンとポスト・モダニズムというのは分けて考えるべきだなと思っています。ポストモダンが主に思想の問題であるのに対して、ポスト・モダニズムは一定の歴史的様式というか、主に70年代から80年代にピークを迎えた、デザインや建築の言語のことだろうと僕は考えています。いまご覧いただいているのは、チャールズ・ジェンクス(1939-)のモダン建築なんですが、この人は1970年代に『ポスト・モダニズムの建築言語』(1978)という本を書いているのですが、そのなかでモダニズムの禁欲というか合理的要素を排除して、かなり装飾過剰で派手なスタイルの建築を考え、それをポスト・モダニズムと呼びかえようとしたわけです。彼自身は素朴なダーウィニスト、進化論者でもありましたので、モダンというのは常に否定してポストモダンに行くという非常に粗雑というか単純な歴史認識を示して、装飾過剰な建築を考えました。日本でポスト・モダニズムの建築というと、おそらく磯崎新(1931-)が挙げられると思います。これはちょっと古い作品なのですが、群馬県立近代美術館(1974)です。リニューアルされた時点(1998)の作品でもうポストモダンと言っていい作品だと思います。デザインの文脈で言うと、エットーレ・ソットサス(1917-2007)の作品で、これは引き出しなんですけど、引き出しの機能というより下駄が二つみたいですよね。機能という点では何の役にも立たない装飾物です。こうした装飾過剰なデザイン言語が流通したのが、ポスト・モダニズムの特徴だろうと思います。誤解を招きやすいんですけども、冷戦終結後の90年代にポストモダンは終焉したと言われるんですが、確かにデザイン様式としてのポスト・モダニズムは終わったという言い方はできるのですが、思想としてのポストモダンはその後も有効であり続けているので、僕自身はそういう点でも、ポストモダンとポスト・モダニズムは分けて考えるべきだろうと思います。

 美術の話に戻すならば、先程ご紹介したニュー・ペインティングとかネオ・エクスプレッショニズムといった傾向は、こうした西欧の思想的な背景と強く関連していると言えると思います。今ご覧いただいているのは、浅田彰(1957-)氏の『構造と力』(1983)です。ポストモダン思想というのは断片的に70年代から入ってはいましたが、開花を迎えるのがこの83年でして、象徴的なのがこの年に小林秀雄(1902-1983)が亡くなっているんですよね。文芸批評が思想をリードしていた古い時代の終焉と同時に、ニュー・アカデミズムといわれる新しい主張が到来しはじめます。この本はお読みになられた方も多いと思いますが、フランスのポストモダン思想、当時はポスト構造主義という言い方もされていましたが、ラカン(ジャック=マリー=エミーユ・ラカン、1901-1981)やクリステヴァ(ジュリア・クリステヴァ、1941-)なんかも含まれて、かなり強引にというか見事に整理されています。次に中沢新一(1950-)のこの『チベットのモーツァルト』(1983)です。彼はダライラマの元でチベット仏教を修行したという怪しい経歴の持ち主ですが、この本の中ではそのエッセンスを随所にちりばめたほか、カスタネダ(カルロス・カスタネダ、1925-1998)を論じたりとか、ニューエイジ思想なんかに対応するような、思考のジャンプにも努めている。いずれにせよ、従来のアカデミズムとはまったく異質な思考を展開していたわけですよね。僕はニューアカが流行していた当時、短期間ですが学生寮のようなところで暮らしていたことがあるんですけども、だいぶ年上の先輩に自分のニューアカかぶれを自慢気に話したら、「ニューアカ? なんだ、それ、新しいアカのことか?」なんて言い返されました(笑)。でもいま思うと、ポストモダン思想自体がマルクス、あるいはヘーゲルを読み替えた側面がありますから、「新しいアカ」というのは実は当たっているんですよね。ちなみに、その先輩はすごい共産主義嫌悪があったらしく「アカがこわい」というのが口癖で、いつも部屋の窓ガラスと蛍光灯に青いセロファンを貼っていました(笑)。83年というのは、そうした象徴的な事があったわけですが、それが美術とどう結びついているかということで、美術評論の方に話がうつっていきます。

 次に、僕よりパレルゴン世代の方のほうが詳しいと思うんですが、美術評論のマッピングを考えてみます。70年代の美術評論に大きな影響を持っていた言説としては、まず藤枝晃雄(1936-)的フォーマリズムが挙げられると思います。彼はあくまでもフォーマリズムの芸術観に固執し、それと異質な性格を持っていたもの派なんかには、非常に敵対的な立場で接する。それが1つの軸としてありましたよね。それに対応するような軸で逆に存在したのが、峯村敏明(1936-)的な、より現場に密着した立場からもの派を援護するような言説です。この2人はどちらも当時ほとんどまとまった著作はなかったはずなので、主に『美術手帖』の誌面などが議論の舞台でしたが、当時パレルゴン世代の作家の方々にも一定の影響力はあったんじゃないかと思います。彼らより若い世代では、例えばたにあらた(1947-)とか千葉成夫(1946-)といった人達がやはり現場とリンクするような言説を展開して、それなりの影響力を行使していました。ところが80年代に入って、そのへんの地勢図が変わってくる。大きな理由は今日のテーマでもある絵画で、ニュー・ペインティングという現象がスタートした時、従来とはまったく異質な表現であったものだから、日本でそれに類した表現が出てきた時、従来型の言説ではおそらく対応できなかったんですよね。この状況に対して、あくまでも『美術手帖』なんかのバックナンバーを見ながらの印象に過ぎないんですが、藤枝さんは、自分のお気に入りというか好みの作家を見つけて閉じこもっていく傾向を強めたと思いますし、逆に峯村さんも平行主義と自称するようなシフトチェンジをはかっていたように思います。また『美術手帖』の特集なんかを見る限り、ニュー・ペインティング現象をよく採りあげていて、当時新しく出てきた伊東順二(1953-)さんとか篠田達美 (1951-)さんといった若い批評家がその紹介の役割を担っていたけど、彼らはどちらもジャーナリスティックなタイプで理論家ではなかったので、同時代の思想の動向などと連動するような言説というのは形成しえなかったのではないか。そうした美術批評の空白を埋めたのが、おそらくニューアカ的な知性なんじゃないかという気がするんですよね。僕は当時美術と関わっていなかったので何とも言えないんですけども、美術評論家の書いたものより、ニューアカの人達が書いたものの方が、よほど面白く知的な刺激を受けたことは確かですし、これは当時の美術家達にも類した経験があるんじゃないかな、という気がします。美術評論の土俵にそうしたニューアカ的なバックボーンを持って登場したのが、おそらくその後の話になりますが、椹木野衣(1962-)さんなんじゃないかな、と思います。ただ、彼のいうシミュレーショニズム云々というと90年代の話になってしまうので、80年代アヴァンギャルドがテーマであるここでは触れません。

 僕の方では当時の言説、ニューアカとの関係をすごく大雑把なかたちですけども、およそ以上のようにマッピングできるかなと思います。詳しい話は後に作家さんに展開していただくとして、80年代を記念する出来事として、コバヤシ画廊で行われた「80’s」という展覧会が開かれました。いずれも80年代末期に制作された作品ですが、これに出品された作品をいくつか見ながら、どういった作品が出たのか簡単なキーワードを交えながら振り返ってみたいと思います。最初は川俣正(1953-)さんのプロジェクトで、彼の場合最初からサイト・スペシフィックという用語で説明される作品でしたよね。デビュー当初から、もの派の次の世代を担うという意識を強烈に持っていた人です。次は関口敦仁(1958-)さんの作品ですが、僕にとってはメディア・アーティストというイメージがすごく強い作家ですが、それ以前はこのようなニュー・ペインティングの傾向が強いものを作っていたんですね。最近はまたペインティングの方に回帰しているようですが。次は吉澤美香(1959-)さん、当時は超少女という言い方をされていました。たしか椹木さんが「超少女というから女を超える存在で、男でなければならない」という言い方をしていて「あぁ、確かにそうかも」と思った記憶があります(笑)。次は今日会場にいらしてますが、前本彰子(1957-)さんの作品です。本人にとっては心外かもしれませんが、当時は彼女の作品もやはり超少女という文脈で受容されていたのかなと思います。これについては、後で他のパネリストの方から補足をお願いします。次は石原友明(1959-)さんの場合、彼は当時やはり関西のニューウェイブという言い方で語られた作品ですね。これも後で説明があると思います。次は岡﨑乾二郎(1955-)さんの作品です。今回80年代の話なので『The 80’s : 80年代の美術』(1994年、コバヤシ画廊発行)という記録集が出ていたので僕も調べてみたのですが、そのなかに岡﨑さんもいて、ほぼ今と同じ議論を展開していています。彼の最近の活躍ぶりは言うまでもありませんが、当時から同じようなスタンスを持っていたんだなという実感を持ちました。次は、既に亡くなられましたが、諏訪直樹(1954-1990)さんの作品です。87年頃でしたか、『現代思想』で「日本のポストモダン」という特集が組まれていて、今井俊満(1928-2002)が表紙を飾っていたことがありましたが、ポストモダン的な文脈で日本画が見直されるという部分がなくはなかったわけで、これも当時はそのように見られていたのかもしれないな、という気がします。絵画の話ばかりしていますが、彫刻の復権ということも語られていて、青木野枝(1958-)さんの作品も彫刻の復権というように当時は見られていたと思います。次は黒川弘毅(1952-)さんの作品です。彼の場合、ポストモダンというよりゴリゴリのモダニストなんですが、おそらく同じ文脈で語られていたんじゃないかなと思います。次は笠原恵実子(1963-)さんの作品です。主に90年代以降に展開をみるシミュレーショニズム、アプロプリエーションという技法を先取りした日本画作家だったのではないかなという気がします。では、時間ちょうどということで・・・後はほかの方々の話を聞いて、改めてコメントしたいと思います。全体を俯瞰するようなかたちで非常に大雑把で恐縮ですが、あくまで叩き台ということで、ここまでにさせていただきます。


司会
 80年代美術および思想状況についてコンパクトにご解説いただき、また建築分野にも発展いただき、ありがとうございました。


[発表順番=掲載順番]
1. 暮沢剛巳
2. 藤井雅実
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4. 吉川陽一郎
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