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「現場」研究会特別編 シンポジウム開催報告

80年代におけるアヴァンギャルド系現代美術
――画廊パレルゴンの活動を焦点として――

[発表順番=掲載順番]
1. 暮沢剛巳
2. 藤井雅実
3. 大村益三
4. 吉川陽一郎
5. 市原研太郎
6. ディスカッション

司会
 次に、藤井雅実さんです。藤井さんは、今回シンポジウムのサブタイトルにもございます画廊パレルゴンの元主宰者です。藤井さんにはポストモダン状況に対する当事者視点から、アヴァンギャルド系現代美術の拠点としてのパレルゴンの成り立ちと消長のプロセス、およびその活動における具体的様相についてのお話をお願いします。




藤井雅実
 〔以下は記録を元に、即興での冗長部分を省き、その分、記述を充実させ、時間の都合で省略した後半部分を追加して、脈絡は保持しながらも全面的に再構成したものです〕
 いま紹介いただきました藤井です。今日は会場に、まさに’80ニューウェイヴの方々の顔もずいぶんあり、懐かしかったりもします。まず、僕は今は暮沢さんのように活発に現場の評論活動してるわけではありませんので、簡単に自己紹介しておきます。80年代初頭、今回の企画で大きく取り上げてくださったパレルゴンという名の画廊を奇妙な脈絡で主宰することになり、今日の話題の中心であるアヴァンギャルド系・・・当時、東京近辺の美大や大学院を出たくらいの作家たちを集めて展覧会をやったりしていました。しかし営業的には困難で、2年ほど後には芸大出身の作家たちを中心に自主管理で運営するパレルゴンⅡになりました。84年には、当時ニューウェイヴと呼ばれた作家たちの動向を総覧した『現代美術の最前線』という小冊子を出しました。80年代後半にはパレルゴンから少し離れて、他の画廊や美術館などでも色々な企画展やシンポジウムを行ったり、文化系の雑誌や当時、様々な形で出ていた各地のミニメディアなんかで、ニューウェイヴのムーヴメントや作家について書いたりしていました。

 しかし90年代に入る頃、ちょうど盛んに活動を始められていた椹木野衣(1962-)さんがまだ『美術手帖』の編集に携わっていた頃、同誌にニューウェイヴ論も書いたのですが、その後、湾岸戦争署名問題でも表立った業界内部の世俗政治に心底辟易したりして、現代美術の現場から距離をとりました。内的な事情としては、それまで僕は、後で語る構造主義やポスト構造主義といった思考をベースにしていたのですが、その自分の批評の理論的基盤を徹底的に見直したくなっていた。その後、古典美術のCD-ROM制作に何年か関わったこともあり、古典絵画の見直しや、ポスト構造主義からヘーゲルやカントなど古典美学や倫理学の捉え返しも含んだ原理的な研究の方に関心が移っていったのです。それで、ちょうど椹木さんが現場に介入するのと入れ違いになるように現場から距離をとることになってしまいました。
 というわけで、こうして当時を回顧するにも、自分が深く関わったとはいえ、一旦自分の中でも相対化してしまった過去の問題、半ば他人事のように、1人何役も振り分けて応じなくてはなりません。

◆幽霊的に漂う80年代美術
 80年代の美術というと、昨今の多くの美術史的な記述では、最初に北澤さんからのお話にもありましたように、かなり歪曲されたかたちで伝わっているようですね。そもそもその姿が、ひどく断片的なかたちでしか、まとめられていない。現代美術という歴史記述の物語の隙間に埋もれているような、見ることも語ることも難しい対象となっているようです。実際、90年代の半ば以降から現場に関わられた暮沢さんなども、80年代美術を語るにあたってもいろいろな資料を見直したり、大変だったと思います。作品を実際に見ることも非常に困難ですし、僕自身も今回いろいろ資料を探ったけれども、ネットにも当時の作品はあまり載っていない。今日は当時の作家の方々も随分いらしているようですが、ぜひとも昔の作品から現在の作品まで、どんどん公開してください。

 ともあれ今日、80年代美術は一種幽霊めいたものとなっている。しかし、その存在が見えないからといって、「80年代美術はダメだ」とかいうことにはならない。それ以前に、なんだか分からないのですからね。そもそも80年代とは、従来のモダンの評価基準自体が失効しつつあった時代、ポストモダンのセンスが全面的に開花した時代で、当時のニューウェイヴもまた単一な基準を許さない形で展開されていたのだから、それを単純に良い悪いとかいうことはナンセンスでしかない。そこに、あの時代の面白さがあるのですが、同時にそのことも、今の視点からすると捉えにくさともなって、微妙に中途半端なかたちで歴史の隙間に漂わせることになる。それで成仏もさせられず、まだ魂はさ迷っているわけで、その魂を呼び寄せる招魂作業はできるかもしれない。今日のこのシンポジウム、現場研のサイト上で今後アップされる資料、それらは幽霊空間に漂う魂を召喚する作業ですが、それは、幽霊たちを蘇生させる、あるいは完全に成仏させる、そういった作業になるかもしれません。いずれにせよ、そういった魂はどのような姿をとっていたのか、それを垣間見る1つのステップに、このシンポジウムがなっていただければと思います。

 そのように曖昧に漂っている80年代美術なので、近過去なのに散在する資料を通してしか触れられない。だから、暮沢さんの観点からなされた先ほどのお話、現場を生きた感覚とのズレは当然あるわけで、そのズレ自体、興味深いのですが、そこは後で言及します。

◆画廊パレルゴンとその名
 このシンポジウムでは、80年代美術を捉え返すにあたって、なぜか僕がたまたま主宰してしまった画廊パレルゴンをメインキャラクターとして採りあげてくれました。1980年前後の東京の現代美術環境は銀座圏と神田圏が二大中心地で、その神田で81年2月オープンしたんです。小さな画廊だったけれど、夜は毎晩のように9時頃まで若い作家や学生やお客さんたちが集う、一つのターミナルとなっていた。82年、ニューウェイヴ系の作家たち4〜50人に、スタイル別に8週間に渡って展示してもらった「現代美術の最前線」という展覧会を企画しました。パレルゴンで個展をしたり、よく出入りしていた作家には多摩美術大学・東京藝術大学・Bゼミの出身者が多かったのですけど、武蔵野美術大学や東京造形大学、筑波大学や女子美術大学の作家なんかもいて、そういう若い作家たち200名くらいが僕の内緒の通信簿にリストアップされてたんですが、その中から40名くらいに協力をお願いした。83年には『シンボリック・シティ』『スキャッタード・イメージ』など露骨にポストモダン的気分を謳った展覧会もやった。暮沢さんが語られたニューアカ現象の、前夜ですね。そうした展覧会に参加した作家たちやパレルゴンだけでなく他で発表していた作家たちも含め、80年代初頭の2〜3年のうちに、70年代までとはかなり異質なスタイルで広がりを見せて、いつしか「ニューウェイヴ」と呼ばれるようになっていました。そしてその新しいムーヴメントを総覧できるよう、84年に『現代美術の最前線』を出版したんです。40余名の作品写真、コメント、傾向別の五つの座談会、そして僕が総論を書いています。大胆にも初版2500部で刷ったのですが、驚いたことに参加者や関係者に配布した500部を引いても2000部をほとんど完売できました。(現場研HPにPDF復刻版がアップされました)。

 ところで「パレルゴン」という名前、暮沢さんも触れられましたが、これは、フランスの哲学者ジャック・デリダ(1930-2004)が75年に書いた「パレルゴン」という論文からとられています。なぜパレルゴンという名を画廊に冠したか。この論文は、美術や芸術に関わる境界、枠、縁といった問題をとても繊細に探求した、その意味では美学に関わる論文です。ただ美学といっても、美術や芸術に関わる思考や振る舞いの限界を、縁を問い詰める、「反美学的な美学」というパラドキシカルなテキストです。パレルゴンという言葉は、カントの『判断力批判』(1790)で使われていた。『判断力批判』という本は、アカデミズムの美学だけでなく近代的な美意識や芸術観の源泉の一つとなったテキストですが、パレルゴンは、その中でごくエピソード的に出てくる。そうした細部に着目することで、デリダは、カント美学の伝統的な読み方を覆し、ひいては近代的な美意識や芸術観の限界を指し示そうとしていました。

 パレルゴンとは元はギリシャ語で、作品を意味するergonという言葉にpar――外に、傍に、傍らに、を意味する接頭辞――が付されたものです。作品の傍にあるもの、作品の外にあるもの、つまり作品のオマケであり、付属物であり、飾りとされているようなものを意味する。具体的には、絵画の額縁、彫刻の台座、あるいは署名のパネルなどがパレルゴンですね。古典的な絵画であれば額縁がない絵画は考えられない。彫刻なら台座のないダヴィデ像は考えられない。作品それ自体ではないけども作品に付随して、作品を外の日常空間を切り分け、と同時に関連付け、作品をその作品たらしめる、いわば結界の機能を果たすものです。台座や額縁を不要とした現代美術の場合でも、インスタレーションやパフォーマンスなら、画廊や美術館の空間がパレルゴンとして機能する。台座や額縁や署名パネル、特殊な展示空間といった具体的なモノの姿をとるけれど、その働きのコアは、ここから内側はアートという非日常的な空間だとする結界の機能ですね。それは作品の本体でないにも関わらず、作品が作品となるために不可欠な働きを担う。その意味で、作品の外であることで、作品の限界を定め、そのようにして作品のコアを担う、つまり外であることで内で働く。

 で、そういった働きを名指す名前を画廊につけてしまったわけです。画廊というのは元々パレルゴン的な機能を果たすのだけども、その機能は、額にしろ台座にしろ、作品本体にとっては付属的なもので、隠れて働くものだった。その隠れた結界機能を、自ら公言してしまうことで、画廊空間の隠されている機能を明示する。そうすることで、モダンからポストモダンへの移行期における美術や文化のダイナミズムの中に、この画廊自体のポジシヨンと機能をリンクさせ、またこの画廊の存在自体に、そうした時代のモードを再帰的に体現させようと、そんな狙いで命名したんです。そしてまた、当時のニューウェイヴの表現で僕が関心をもったのも、その表現自体がパレルゴン的だったことにもありました。

◆70年代芸術の行き詰まりとポストモダン思潮
 暮沢さんと違って当時現場にいた立場から、当時の文化状況を概観してみます。まず80年代の前、70年代には現代美術はモダンのさまざまな観念や価値観の限界に達し、そこで行き詰まりに直面していた。その頃、美術家としては一般的な論壇でもっとも発言していた宇佐美圭司(1940-)さんが、後に『絵画論』(1980)という本に収録された「失画症」というエッセイで、典型的なエピソードを書いています。当時彼はBゼミの講師をしていたのですが、その学生たちが作品を作れなくなっていた。制作する以前に、作る理由を探さなくちゃならない。「自由に作品を作れ」と言われると何を作ればいいかわからない。どんなことも、もうやりつくされた感じが学生たちはしていた。それでもなお作るとは、どういうことなのか? 70年代後半は、そんな気分が覆っていたという。そうした中で、しかし次第に、その限界それ自体を積極的に制作の条件と捉えるような気分が生まれてきた。限界と思われていた状況を、逆に制作の可能性の条件と捉えて、限界を超えていく。80年代に入る頃には、そんな可能性が直感的に感じられるようになっていたようです。

 70年代美術と同様の行き詰まりは、また、文学や音楽などハイアートのどんなジャンルでも直面していました。そうしたなかで、哲学や思想、それを担った批評などの試みが、最先端の一種の芸術的効果――日常を新しく見直させるような効果を、芸術にかわって担っていた。20世紀は多くの場合、美術が文化の最先端を牽引し、欲望のモデルを提示することが多かったのですが、70年代頃にはむしろ思想的なものが、その役割を担っているようかのようだった。それが、50年代頃のフランスの人文社会科学で顕著となり60年代に活性化した構造主義、それをさらに過激にしたデリダらのポスト構造主義と言われる思潮でした。そのコアは、何について考えるにも、それを支える「構造」、特に思考に不可欠な「言語の構造」を重視して捉える考え方です。それが70年代には欧米諸国や日本にまで広まってきた。

 今ではポストモダン思想と一括されるそうした思潮は、日本では80年代、ニューアカデミズムという姿で開花したと、暮沢さんも先程言われたし、昨今の日本現代思想史のガイドの類いでもよくそう書いてあります。確かに83年、浅田彰の『構造と力』が難解な思想書としては異常な10万部以上の部数が出て、『朝日ジャーナル』の編集長の筑紫哲也が「若者たちの神々」と名付け新たな文化シーンとして取り上げ、以後、80年代末のバブル状況へ向けてコマーシャルアートや宣伝企画、商品開発にまで影響を与える広がりを見せた。その頃学生だった暮沢さんらの世代は特に、そのニューアカ環境が世界観の形成の大きな土壌となっていたかもしれません。しかしその新しい思潮が、その先端性を際立てたのは70年代後半で、その頃、文化の先端的環境で斬新な知的可能性として炸裂し、盛んに求められていました。美術批評家としても伝説的な宮川淳(1933-1977)、そして蓮實重彦(1936-)、豊崎光一(1935-1989)、といった仏文系の人達が、フーコーやバルト、そしてドゥルーズやデリダなどを盛んに紹介し、自らも、従来の啓蒙的な学問や批評とは異質の、斬新ゆえに難解な思考を、その難解さと衒学性を誇示することでこそ魅惑的となる、特異に凝った文体で書いていた。

 そうした思潮を全面的に押し出した雑誌が75年に創刊されました。思想誌としては画期的な、杉浦康平の装丁と字組みによる『エピステーメー』(1975-1979)という雑誌。それを、人文社会系の専門家や学生たちだけでなく、デザイン科の学生なども「かっこいい」と言って小脇に抱えていた。中の難解な議論など分らなくても、いやむしろ難解だからこそ斬新な何かが、秘密を隠した暗号文のような魅力が感じられていたんですね。デリダの「パレルゴン」も、原文が出た直後に『エピステーメー』創刊号に載り、以後、間歇連載されました。最近は難解な思想でも、明解であることをウリにするのが「良き作法」となっていますけど、当時はむしろ、「難解な表現それ自体が喚起する侵犯力や批判性」こそが、魅力のコアでもあった。その意味でも、行き詰っていた芸術に対し、先端思想が芸術的アヴァンギャルドの使命も担っていた(まあ専門家たち自身よく理解できていなかった、特にラカン理解は悲惨だったという面もあるし、衒学性の陥穽も大きいのですが、「難解ゆえの魅力と可能性」という問題は楽しい問題だと思います)〔註1〕。

 しかしその『エピステーメー』は79年で終刊しているんです。つまり70年代後半こそ、今ではポストモダンと一括されるラディカルな思潮や、そうしたものに典型していた新鮮な雰囲気が、文化の最前線のムーヴメントを促していたし、アート系の学生たちでさえ直感的にそうした気分を身体化していたんですね。現代美術の勉強会をやっていた僕の周囲でも、美術雑誌に出る言葉を陳腐なものに感じさせ、ずっと新鮮な暗号のような魅力の対象となっていたんです。そういったラディカルな思想的探求は、近代の思考法や価値観の根拠を問い直し、ひいては古代ギリシア文化以来の西欧的思考法や価値観を、場合によっては東洋思想や文化も含む人類史全般に及ぶ思考法や価値観の、徹底的な問い直すものだった。そうした徹底した批判的な思考が、特殊な専門語や文体の不思議さとあいまって、従来の文化・社会的規範からの全面的な解放の可能性を、予感させていたのですね。80年代前夜、こうしてハイカルチャー・シーンでは、芸術の行き詰まりと思想の活性化が軋んでいました。

 鮮烈なデリダ論でデビューし今日のハイカル論壇の先端にいる東浩紀さんの本だって、70年代後半の衒学的な難解テキストよりは明解だとはいえ、それを十分に理解するのは難しいはずだけど、アーティストなどにも直感的な次元で影響を与えている。そのように、当時の難解な思考も、その気分の次元でハイカルの欲望を牽引し、普通の美術批評の言葉などをダサく感じさせてもいた。そうして従来のミニマル・アートやコンセプチュアル・アート、もの派などまでの芸術観を支えていた規則や価値観の「大きな物語」に依拠することなく表現を展開できる、そういう気分が、漠然と、しかしだからこそ自然に、若い作家たちを取り巻いていた。むろんポストモダンの難解思考に誰もが親しんでいた、なんていうことはない。入門書だってかなり晦渋でした(浅田は、そこに学参風の簡明な図式化を与え、また、晦渋な思考の群れの中から「パラノからスキゾへ」で代表されるキャッチーなポイントを抽出し、糸井重里以降のコピー時代にフィットする軽い表現を与え、83年以降のニューアカ・ブームの火種となった)。としても、そうした文化的雰囲気は、従来とは根本的なところで何かが異なる、解放への新しい波が寄せている予兆のように時代を漂っていたのです。

◆間隙に明滅するニューウェイヴ
 そして80年代に入ると、日常世界ではポップでファッショナブルな文化的雰囲気が急速に広まっていきます。タケシや紳助らの「お笑いのニューウェイヴ」が席巻し、聖子や明菜がアイドルシーンを刷新し、CMがアート化し、デザイナーズ・ブランド日常化をはじめファッション意識の次元があがり、ウォークマンと共に音楽が遍在する。ハイカル思想が旧来の枠組みを脱構築的に開放していた一方で、かつてのカウンターカルチャーから重い批判性を脱色したサブカルチャーが、マスカルチャーの日常界への遍在と入れ子状に広まって、文化全般に開放の雰囲気が強まっていた。そんな中から、80年代の「ニューウェイヴ」と呼ばれたムーヴメントが立ち上がってきました。その内実を喚び覚ますにも、今日、80年代美術を縁取っている枠組み、80年代ニューウェイヴを縁取ることでそれを隠している枠組みについて触れましょう。一方は70年代的言説、他方は90年代的言説です。

 まず「ポストもの派」という80年代美術にしばしば使われる言葉、暮沢さんも触れられましたし、後で大村さん、吉川さんも述べてくれるかもしれませんが、この言葉は、80年代美術を語るよりも、それを隠す働きをしがちです。もの派の後見人でもあった峯村敏明さんが、もの派に対するポストとして80年代美術を指すのに用いられた。それゆえ、80年代美術を、もの派との断絶よりも連続性で、その派生形として捉えようとする傾きがある。磯崎新(1931-)などに一般的な評論の文脈に使われることで広く流布してしまった。しかしこの言葉は80年代美術だけでなく、70年代の非もの派系、彦坂尚嘉(1946-)さんらの美共闘系作家から、戸谷成雄(1947-)さんや遠藤俊克(1950-)さん、さらには年齢的にはニューウェイヴ世代ではあっても70年代末に注目されていた(それで、最前線企画から外れていた)川俣正(1953-)、諏訪直樹(1954-90)さんら相互の差異も曖昧にしてしまう。「ポストもの派」という言い方は、80年代美術の特質を語るよりも、80年代美術に対した時の70年代的言説の症候としてある、と見る方が、どちらにとっても生産的でしょう。

 他方、90年代スタイルとの関係では、これも先ほど暮沢さんが言われたように、90年前後に椹木批評と共にフィーチャーされた笠原恵実子(1963-)さんなどが日本におけるシミュレーショニズムの始まりと言われ、それが現代日本美術史の一般的見解となっている気配もありますが、しかしこの面でも、80年代美術は隠蔽される。シミュレーショニズムという言葉は、椹木さんが『美術手帖』編集者時代に展開したシミュレーショニズムの紹介で広まったのは確かですし、彼の総括は、それはそれで強靭な時代診断であると同時に、80年代ポストモダンに対照される90年代ポストモダンの足場を打ち立てた力技だった。しかしシミュレーショニズムの理論的バックボーンであった社会学者ジャン・ボードリヤール(1929-2007)のシミュレーショニズム理論自体は、日本では70年代後半から続々と翻訳され、80年代前半にもっとも盛り上がっていて、六本木で「ボードリヤールフォーラム」という大イベントもあり、デザイン関係者や美術家もたくさん集っていたんです。

 その80年代前半から中頃にかけ、大村さんや関口敦仁(1958-)さん、荻野裕政(優政1956-)さんらは、美術史上の様々なアイテムや技法、様式を引用し、変形し、あるいは酷使することで生じる様々な美的効果を探っていた。Bゼミ系を牽引役でもあった荻野さんは、「サモトラケのニケ」のポストモダン的引用で強い印象を与えた後、岩瀬京子さんとのジョイントで、グッチやシャネルなどデザイン・ブランドの様々な要素を造形的に再編するシミュレーション様式を、85・6年頃にはすでに展開していました。前本彰子さんはコバヤシ画廊系だったこともあり(彰子さんがカッコ良すぎて、僕はビビッていました)、一緒にやったり批評を書いたのは、僕がパレルゴンを離れてからなのですが、マンガの表現様式をハイアートの環境へサンプリングし全面展開した先駆けでした。あたかもフォーマリストの代表であるかのように錯覚されることもある岡﨑乾二郎さんだって、既存のフォーマリズムをベタに信仰しているわけではなく、制作のネタとして参照する、メタ・フォーマリスティックなスタンスを露骨に示していたし、その意味では、むしろシミュレーショニスティックだった。当時の若い評論家からも、大村、荻野、岩瀬さんなどをシュミレーショニストとして捉える評論もいくつか出ていましたし、僕も様々な雑誌などで、大村、岡﨑、関口、荻野、前本らの作家のシミュレーショニスティックな形式について書いたりました。〔註2〕しかし荻野&岩瀬ペアは80年代終わり頃には日本の美術界を見限ってしまった。そうして、鮮烈で演劇的でバロック的でもある90年代スタイルが、椹木・レントゲン・村上ラインから大展開するうちに、80年代美術が隠れていくことになったのでした。

◆70年代の幻想と隠蔽する物語
〔以下はシンポジウムでは時間不足で省いた部分です〕
 では、70年代の行き詰まりから、80年代ニューウェイヴへの転換点に、何があったのか?
 先にお話した先端的な思想に鮮明に現れていたように70年代とは、美術や芸術諸ジャンルから文化全般にわたって、それを支え、それを縁取っていたヨーロッパの近代的な枠組みの効力の失効が、いよいよ明らかになった時代でした。美術においては、それは絵画や彫刻というサブジャンルのジャンル理念のみならず、前衛の展開がその侵犯機能の効果で創出したハプニングやテクノメディアアート、インスタレーションなどの新興ジャンルをも含みこむマスターカテゴリーである「美術」という理念の、そのマスターとしての機能が、危機に瀕していた。〔註3〕西欧近代のアメリカ的変奏の影響下で高度成長していた戦後の日本の文化状況でも、近代的な準拠枠の限界が露呈していた。高度成長も頭打ちとなり、それと拮抗して展開していた左翼の政治活動も60年代末の全共闘運動の盛り上がり以後、急速に内部崩壊して求心力を失い、前衛芸術も行き詰まりに至っていた。

 そんな70年代の日本の美術界では、概念派ともの派が二大潮流でしたが、そこでは自然的・身体的・土着的・祭祀的といったモティーフがよく現れていた。そうした前近代的なモティーフは、モダン・アートを導いていた価値観や目標が、創作を動機付ける力を失っていて、それに替わるものとして召喚されていたとも見なせます。国際的に見ても、60年代には、純粋な平面絵画や立体表現を追及する形式主義と、ジャンルの限界や文化の体制的規範を侵犯し異化するアヴァンギャルディズムが、その極限にまで達した結果、もはや目的や理念としてのポテンシャルを消失してしまっていた。そうして、その準拠点の空虚を埋める別の準拠点として、モダンの理念が排除してきた前近代的なモティーフが、色々と担ぎ出されてくる。モダンの芸術観は、失効しつつあり亀裂を露呈させていたけれど、しかしそれに変わる欲望の枠組みがすぐに出てくるわけではない。そんな亀裂を、手近な幻想で埋める、そうしてモダンの芸術観を延命させようとするあがきでもあったかもしれない。政治思想や哲学でも、その頃、身体論や文化人類学の祝祭論が注目されていましたし、文学では物語の復権もあった。80年代に爆発的に日常文化に広まるTVゲームの中心ジャンルとなるファンタジーも、70年代大衆文学で再興していました。

 そうした中で、日本では70年代後半、絵画というジャンルの復興のような動きも一部で起こりました。しかしそれもまた、モダン・アートの行き詰まりに対する処方箋として呼び出された幻想で、十分な動機付けを働く準拠枠となりえなかった。他方、国際的な美術市場ではアートの行き詰まりは実害そのものなわけで、その打開策としてニューペインティング、新表現主義などと呼ばれる演劇的な絵画ムーヴメントが創出される。それは日本における絵画復古とは異なり、市場という実質的な機構が紡いだ、それゆえ、従来の前衛が文化的機能で牽引したモダン・アートの展開とは全く異質のムーヴメントでした。日本の美術業界の一部でもその脈絡に結びつこうと、国内のニューペインターとして大竹伸郎や横尾忠則が、突如コマーシャルベースでクローズアップされましたが、それは、80年代アーティストたちの主戦場とは全く切り離されたものでした。そしてその主戦場で展開されたのがニューウェイヴでした。しかし、その現場の主戦場に適応不全であった当時の『美術手帖』を参照した80年代美術史では、70年代後半の絵画復興から80年代の新表現主義が表立った脈絡で浮かび上がり、80年代は「絵画の時代」という惚けた物語も語られる(もちろん、絵画も彫刻も、モダン正統が命じた主題やイメージの還元は、ローカルなイデオロギーにすぎないので、絵画や彫刻の復権自体に問題はないのですが、80年代の実情は決して絵画の時代ではなかったように、その物語構築はイデオロギー的偏向でした)。こうして、先に述べた70年代「もの派」の物語とシミュレーショニズム以後の90年代の物語との間で、80年代ニューウェイヴの実質は隠蔽されていくのでした。

◆純粋状態のポストモダン
 だからこそ80年代のニューウェイヴの個々の出来事や脈絡の詳細に踏み込むにも、このような企画が前提となる。ここでは最後に、不可視の幽霊めいたその姿のサワリくらいまでを召喚しておきましょう。80年代初め頃、70年代の行き詰まりをもたらしていたモダンの枠組みや理念の不在それ自体を、積極的に捉える、そうした視点の転換が、いつとはなく、誰とはなしに、ゆっくりと起こり始めます。そうして、特定の様式で括ることのできない80年代ニューウェイヴが、まさに当時、流行していたドゥルーズの言葉リゾーム(根茎)で表わされる、多形で多様な姿でしだいに広がった(その多様さは『現代美術の最前線』復刻版などを参照してください)。そうして2〜3年の内に、従来のフォーマリスティックな表現や、もの派や概念派の表現から、その理念を外し形式的にマニエリスティックに変奏する表現や、表現自体がリゾーム風の混沌としたコブのような表現、儀礼的背景を欠いた祝祭的でインタラクティヴな表現、モダン正統では抑圧されていた具象的イメージを重層的に構成する絵画、ロマンティックで象徴的でも崇高な超越性を欠いたアイロニカルなイメージのオブジェ、テクノロジカルなガジェットやジャンクを錯綜させるサイバー・イメージを先取りするブリコラージュ、すでに挙げた美術史やサブカルチャー・アイテムのシミュレーションなどが、同じ空間で共存し、交響し合って繁茂したのでした。

 その時代はまた、アーティストたちの自主企画展が実に盛んに行われる時代でもありました。今では無数に開かれている現代美術の公募展などはなく、それどころか、そんなお上が選ぶ公募展に出品し、偉い批評家やキュレーターのお墨付きを求めることなど、コッパズカシイ以外の何ものでもない、モダンのアヴァンギャルドの体制批判という目標は、古き幻想として相対化されていても、アヴァンギャルドの古き善き気概は残っていたのですね。そうした企画展は、時には芸大vsBゼミ、東京芸大vs京都芸大など学校間の対抗試合のようだったり、都市間の交流展であったり、その形態も多様で、その際にシンポジウムもよく開かれ、作家たちや評論家のテキストを加えたカタログも盛んに出されていた。現場の言説は、情況に適応しきれなかった『美術手帖』よりもむしろ、そうした自主企画展カタログや画廊で出していた小冊子、『象』や『imprex』といった同人誌などで展開されていた。また当時の東京の美術圏は、神田と銀座に限定されていたゆえに、今よりずっと集中度も高かった。そして、神田の真木画廊やときわ画廊、パレルゴン、ギャラリー4F、銀座のコバヤシ画廊やルナミ画廊、Gアート・ギャラリー、村松画廊、南天子画廊など、画廊巡りのターミナルとなっていた画廊やその周囲の酒場で、現場の言説は織り上げられていた。展示や言説、コミュニケーションの場もまた、多数多様体を地で行くような様相を呈していたのですね。〔註4〕

 そうした環境で育まれたニューウェイヴのスタイルは、確定的に記述するのがとても困難です。ニューウェイヴ・シーンを包括的に眺めても、個々の作品を眺めても、そこには、70年代のような、失効したモダンの準拠点を埋めるように幻想され依拠されている別の準拠点も、見出しがたい。逆に、全くの自由なイメージを戯れる、という素朴さも、モダンの限界とそれに対するアイロニカルな反省的葛藤を経たそのシーンにはない。公平に言えば、探し出せば幻想も素朴さも見つかるのですが、それはどんな時代でも同じだし、浮遊する幻想や素朴さも、ムーヴメント全体を覆うものではなく、またそこにはアイロニカルな距離感が孕まれている。そんなニューウェイヴの表現の中では、様々な脈絡から不定の素材やモティーフが召喚され、しかしメタの準拠枠で限定されることなく、元の脈絡を含意しながら接合し合うことで、造形の私的言語が紡がれる。そして、そうした異質で特異な言葉たちが、一般的な語りに凝結する間もなく、別の特異な言葉を触発し、連鎖し合う。どんなモティーフも様式も、その都度、参照され引用され接合される記号的対象として処方されざるをえなくなっていたのですね。表現の内容は、その表現が参照する形式から、その都度、再帰的に指定されるばかり。そのようにして、個々の表現の内部でも、ニューウェイヴの情況全般においても、どれが本体とも見極めかねる、非-本体が本体と区別しえない、パレルゴンの全般化でもあるような情況が出来することになった。80年代ニューウェイヴとは、「純粋状態のポストモダン」が出現していた、そんな季節だったと言えるかもしれません。

 しかしそれゆえに、メタの準拠枠への信仰から逃れ、別のメタの審級を構成することもなく連鎖する80年代ニューウェイヴは、70年代の準拠点の失効による失画症やその幻想的補填とは逆向きの、無数の難題を孕んでもいました。その純粋状態のポストモダンは、厳密に捉え返せばもちろん「純粋状態」ではありえませんし、裏で作動している隠微なコードも、様式の次元から制度的な次元まで色々指摘できる。そして多元主義的スタイルの陥穽や普遍化の困難は、ニューウェイヴのアーティストたちが、すぐに現実的な問題として直面することになります。また、記号論的なポストモダン様式は、80年代後半のバブル期には、日常の凡庸な風景を紡ぐ様式となり、ラディカルな思想と共振するアイロニカルなメタ思考も日常的なものとなり、ニューウェイヴという「前衛」以後の<前衛>の位置は一層、曖昧の度を増すことになる。だとしても、その端的な現象のモードにおいて、80年代ニューウェイヴは、美術史の語りを逃れ、象徴化をすり抜けて、物語の間隙に明滅する、微妙に不思議なモードではあるでしょう。ニューウェイヴは現代美術史の表の言説に隠蔽されて幽霊めいてもいるけれど、その存在のコア自体が本質的に幽霊的なものである可能性もありそうなのです。そしてその点にこそ、80年代ニューウェイヴを考古学的に発掘することの、今日的な、また未来の美術や人々にとっての意義があるのかもしれない。しかしそうした諸問題や、ニューウェイヴの内なる諸様式、個々の特異な表現などに踏み込むには、次のステージに進まなくてはなりません。

〔註〕
〔註1〕哲学者では坂部恵(1936-)、高橋允昭(1931-2000)、中村雄二郎(1925-)らがそうした動向にコミットし、『エピステーメー』以外にも『現代思想』『理想』『展望』『海』などの思想誌や文芸誌を中心に、最先端の議論が紹介され展開されていました。また他方では画期的なマルクス主義哲学を提示して注目されていた哲学者の廣松渉(1933-94)は、フランス構造主義とは異質のカントやヘーゲルなどドイツ古典哲学系のアプローチから極端な構造主義的哲学を展開し、80年代以後の哲学的思考のベースを確立していました。その枠組みは、今日、もっとも活発な社会学者、大澤真幸(1958-)や宮台真治(1959-)、北田尭大(1971-)、また彼らの師、見田宗介(1936-)の社会構造観のベースともなりますが、その廣松も『エピステーメー』や『現代思想』の常連でした。また英米系の分析哲学の系統にある大森荘蔵(1921-97)も同誌の常連で、80年代後半以降、永井均(1951-)の哲学から道が開かれた、フランス系思想とまったく異質の根源的な哲学探究の前庭を開いていました。

〔註2〕『現代美術の最前線』では、脈絡の中でのニューウェイヴの位置だけでなく、個々の作家たちの様式的な分類の“一つの”枠組みを提示しています。その後ニューウェイヴを概観した僕のテキストから、「行方の知れないカウントダウン」(『美術手帖』1990年2月号)、「ハイパー・アヴァンギャルド――前衛の超循環と反美学」(『情況』1992年4月号)の二点を挙げておきます。『最前線』本テキストを含め、どれも今の僕の観点からは、多くの、また根本的な問題を指摘できるものですが、不可視のニューウェイヴに関わる比較的アクセスしやすそうな素材的資料として挙げておきます。

〔註3〕ポストモダン哲学の極北であったデリダと対抗し、モダンのあるべき理念の擁護者だったユルゲン・ハーバーマス(1929-)は、そうした状況を「近代の正統性の危機」と言いました。従来の批判的理性が内在的に超克しようとしていた「近代」という対象の指導力や動機付けの機構が、あえて超克するまでもなくその信用価を喪失しかけていたことに対し、彼は、近代が用意した善き可能性を「未完の企図」として擁護しようとしたのです。ポストモダンの感性を広める最大のキッカケとなったチャールズ・ジェンクス(1939-)の『ポストモダニズムの建築言語』(1977原著)は、そうした状況への直感的な応答だった。それゆえに反省的知性の側からは、その通俗性が時にヒステリックに批判されました。ジャン・フランソワ・リオタール(1924-98)は、ハーバーマスの近代の未完の企図再興と、ジェンクスの直感的ポストモダニズムとのどちらをも撃つようにして、『ポストモダンの条件』(1979原著)を出しましたが、それ自体、モダンの内にポストモダンの可能性を遡及的に読み込むという屈折した営みでした。

〔註4〕大きなメディアでは、今はジャーナリストとして活躍している村田真(1955-)さんが美術部門の編集長だった『ぴあ』が、このニューウェイヴのムーヴメントをもっとも積極的に支えてくれていました。また80年代後半には僕も編集に関わった『アトリエ』誌には、編集長の小倉正史(1934-)さん他、今、美術界で活躍している人たちもいて、地味ながらニューウェイヴ周辺の記事も多く出ていました。


[発表順番=掲載順番]
1. 暮沢剛巳
2. 藤井雅実
3. 大村益三
4. 吉川陽一郎
5. 市原研太郎
6. ディスカッション

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