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「現場」研究会特別編 シンポジウム開催報告

80年代におけるアヴァンギャルド系現代美術
――画廊パレルゴンの活動を焦点として――

[発表順番=掲載順番]
1. 暮沢剛巳
2. 藤井雅実
3. 大村益三
4. 吉川陽一郎
5. 市原研太郎
6. ディスカッション

司会
 次に吉川陽一郎さんです。吉川さんには、絵画回帰と同時にあった彫刻回帰についてお話いただきたいと思います。それでは吉川さん、よろしくお願いいたします。




吉川陽一郎
 いま紹介にあずかりました吉川です。私は今まで自分の体験したことについて話そうと思います。非常に恣意的だったり極端に客観性のない話になると思うのですけれども、時代についてはいろいろ話されたり書かれたりしているので、自分が見てきたことをみなさんに発表し、結果的にそういう時代だったということを感じていただけたらな、と思ってお話します。

 私は1975年に多摩美術大学の彫刻科に入学し、80年に卒業しました。当時の状況としては、1970年前後に学生運動があって、そこで後にもの派と言われるようになる方たちが――多摩美はもの派の方たちが多く出たところなんですけども――70年代の初めに卒業し、その後、美共闘というのがあって、その運動が収束した後に僕らが大学に入りました。その時代というのはノンポリの時代というか、私たちは相当政治的な状況については疎いような世代です。私たちが1番影響を受けた彫刻状況というのは、もの派の方たちが非常に力を持って、神田とか銀座で作品を発表されている時代でした。僕が今まで興味があったり、まわりにいる人達を考えてみるとひとつの傾向があって、ものすごく狭いところに収斂していくのがわかる。それはどういうことかというと、いずれにしても立体作品をつくろうとすると、踏絵のようなものとして、もの派があったということです。もの派の方たちというのはほとんど多摩美の同級生に近い人達のグループだった。そこに李さん(李禹煥、1936-)もいらっしゃった。当時多摩美には斎藤義重(1904-2001)さんの教室があって、斎藤さんの教室は学生運動で頓挫してしまって、1年間か2年間くらいしか多摩美ではなかったんですけど、そのほんのわずかの時間に輩出した人達が、ほとんどもの派いうのが、僕にとっては非常に重要でした。

 ほとんど同級生+李さん――李さんだけは6歳から8歳くらい年上だったのですが――という人達が作品を発表されてたんですけども、僕らが80年代に作品を発表したりいろいろ見たりした状況というのは、もの派の方たちの作品が、今までにない表現というよりは、逆に彫刻化しているという印象を受けました。記録に残っているもの派は、関係項、関係、物質とものの関係のことをおっしゃっているんですけども、その頃はみんな神田から銀座の方へシフトされていて、逆に作品が非常に彫刻化して見えるものというか・・・自分としては、そこらへんにギャップみたいなものがあって、非常に不思議な感じがした覚えがあります。僕らは1975年から美大で学ぶんですけども、ムサビ、日芸、Bゼミっていうそれぞれ個別の環境がありました。芸大ではちょうど75年に榎倉さん(榎倉康二、1942-1955)が先生として入られ、ムサビではやはり1975年に若林さん(若林奮、1936-2003)が先生として入られ、日芸では土谷武(1926-)さんが80年から入られました。自分の周りで作品を発表している人間、よく会う人間というのが、私の場合ほとんどその先生方と関係のある人達だった。どういうことなのか自分ではよくわからなかったんだけど、その影響に反発もあったかもしれないけれど、皆その方々の考え方などを、かなり受け継いでいるんじゃないかと。自分でそれを考えたときに、そういえば自分がすごく好きだった立体のアメリカの状況があって、それはジャッド(ドナルド・ジャッド、1928-1994)とかカール・アンドレ(1935-)とかっていう人達が大挙して出た時代があるんですけども、その人達ほとんどがニューヨークの1つの学校から出ていた。えっと・・・

 (暮沢:アート・スチューデント・リーグ)

 そう、アート・スチューデント・リーグ(1875-)。そこからほとんどの方が出ていたんです。そこの先生たち・・・アシュカン・スクールとかジ・エイトとかリビジョニストと言われている・・・非常に地域主義というか、アメリカという自分たちの立場でものを考え、ヨーロッパのアカデミックな文化に対立するような人達が、アート・スチューデント・リーグの大きな力だった。右翼的とはいいませんが、そういう人達が、逆に革新的な抽象表現主義の人達を大量に出していくんです。それを見たときに・・・これ変だっていうか・・・そんなこと言っていいのかわかんないけど・・・自分の足元主義っていうか、そういうものを持った先生と生徒が出会ったときの爆発力みたいなもの。そういう僕らに影響を及ぼしたのと同じ様な状況が、アメリカにも発生していたんだなあ、と思うわけですよ。

 だから、その後に僕らが出たときに一番困ったのはですね、さっきのように「彫刻の復権」て言われてるんですけど、僕らの80年代っていうのはインスタレーションの時代だったと思うんですよ。立体の作家というのはインスタレーションの作家が主流だった。フォーマリスティックな作品を作ると、非常にフォーマリストとして疎外されそうな勢いがあります。彫刻というジャンルから言うと、その前のもの派とかポストもの派の人達が作る立体の方が、逆に彫刻に見えた。比べると私たちの世代は・・・岡﨑乾二郎(1955-)とか(笑)そのへんなんですけども、非常に彫刻的に弱い。「全然彫刻的ではない」と言われた印象がものすごくあるんです。

 (藤井:自分の作品が?)

 そうですね。だから当時、まあ今見れば普通の立体なんですけども、彫刻というメディアに寄りかかったフォーマリズムの古臭い作品、そういうふうに言われた印象がものすごくあったので。今思い出してみて、前の世代のいわゆるアヴァンギャルドな作風っていうのが、実は僕らにとっては目上のタンコブみたいに存在していた。新しい彫刻のスタンダードみたいなものが実はそこにあって・・・

 (藤井:それ具体的にはどういう作家?)

 言うんですか?(笑)

 (藤井:まずいですか?昔のことだし)

 いやいや・・・別に悪い意味で言っているわけではないんですけども、戸谷(戸谷成雄、1947-)さんとかですね、そういう方たちの作品が、僕らを難しい立場にさせる作品だったんですよね。僕らにとっては、そのバックボーンにあるコンセプチュアルなものの提示が作品にないんですよ。あの方たちっていうか、ポストもの派の方たちは最初の実質というか、現代美術の画廊でやったときのコンセプチュアルな作品、実質みたいなものがあって、その後のスタティックな作品というのもそれを通して見られると思うんですけども、僕らの作品はそれがない。最初からそれだけのものというか、なかなか興味をひかない、つまらない作品として見られた印象がすごくあります。  1995年くらいにセゾン美術館で「視ることのアレゴリー」という非常にフォーマリスティックな作品を集めた展覧会があって、そのときも相当評判が悪かった、と。なぜ今頃こんな後ろ向きな展覧会をするのかって、すごく保守的な絵画と彫刻みたいにみなさんにとられて、非常に残念だったなっていう印象があります。あとニューヨークに行ったときの話をしようと思ったんですけど・・・最後ちょっと付け加えると、僕は1978年にニューヨークに行って、なぜ行ったかというと、多摩美は榎倉さんとか若林さんと違って、僕らは実技よりも学科の先生たちに影響を受けていたんです。そこには峯村(峯村敏明、1936-)さんとか東野(東野芳明、1930-2005)さんとか李さんがゼミを持っていた。その影響が多摩美出身のみなさんはあると思うんです。私はちょっと論理的なものが苦手だったので、じゃ現場に行った方がいいってニューヨークに行って、そのままずっと住んだらなんとかなるんじゃないかって行ったんです。そのときに1番気付いたのは、自分が好きだと思ってる作品はみんなレオ・キャステリ出身だった(笑)。サナベントというのがあるな、と思ったら実は別れた奥さんだったり。その他でいいなと思うギャラリーで、ポーラ・クーパーっていうギャラリーが1つだけあって、いい作家をすごく持っていたんですけど、実質というか出来始めがすごくパレルゴンに似てたんですよ。今もちゃんとしたギャラリーとしてあって、パレルゴンがないっていうのが僕にとってすごく淋しいことなんですけど、それはギャラリーとかの問題ではなくて、実は僕は・・・こんなこと言っていいかわかんないですけど・・・、日本に社会的なモダニズムがなかった結果っていうか・・・大きく出ちゃったんですけど(笑)、すごくそれを感じているんです。でもポーラ・クーパーは、日本のパレルゴンとかギャラリーを考えるときに、すごく重要なギャラリーだなという風に思いました。


司会
 大学の特色による当時の作品展開について、またご自身の微妙な立ち位置についてお話くださり、ありがとうございました。


[発表順番=掲載順番]
1. 暮沢剛巳
2. 藤井雅実
3. 大村益三
4. 吉川陽一郎
5. 市原研太郎
6. ディスカッション

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