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「現場」研究会特別編 シンポジウム開催報告

80年代におけるアヴァンギャルド系現代美術
――画廊パレルゴンの活動を焦点として――

[発表順番=掲載順番]
1. 暮沢剛巳
2. 藤井雅実
3. 大村益三
4. 吉川陽一郎
5. 市原研太郎
6. ディスカッション

司会
 最後に市原研太郎さんになります。市原さんは現代美術家としてスタートされましたが、その後評論活動の方にシフトされました。パレルゴンの活動を間近で見てこられた立場から、お話いただけたらと思います。それでは市原さん、よろしくお願いします。




市原研太郎
 こんにちは、市原です。僕も一時期パレルゴンに関わった関係で、ここでお話できることになったんですが、今まで――暮沢さんはおいといてですね――3人の方と出自が違うということで、それを説明しなければならないと思うんですね。もちろん僕も同じ日本人ですけども、70年代半ばから後半にかけて、たまたまなんですがフランスにいた経験があって、75年のパリビエンナーレを見てアートに開眼するという劇的な経験がありました。それまでは美術とはまったく関係ない分野で、学校を出てからそのままフランスへ行ったということもあり、何も知らないまま過ごしていた時にビエンナーレに出会って美術の世界に目覚めた、というところから遠回りですが入ってきているわけです。そういう意味でも、美術の世界の生まれ故郷は日本ではなくてフランスにあると言ってしまった方が早いと思います。ただ、この75年のビエンナーレは、日本人の彦坂(彦坂尚嘉、1946-)とか野村(野村仁、1945-)とか柏原(柏原えつとむ、1941-)とか、70年代の日本をリードしたアーティストたちが何人か選ばれて作品を出していたということで、彼らの作品に触れたのもその時が初めてなのですが。それから77年くらいに日本に帰ってきて、実は僕は個展をやるんです。なぜそういうことになったかというと、その発端はまさに75年のビエンナーレを見たことにある。それを見た瞬間に、アーティストになりたい、という――まあ、非常に今から思うとめちゃくちゃなことを考えたわけですね。しかしそういうことがなければ、今僕はここに座っていないし、藤井さんに出会うこともなかったというふうに思います。このようにしてビエンナーレの参加アーティストの表現に共鳴したことがきっかけで、その時代のビエンナーレに出品していた日本のアーティストだけでなく海外の若手のアーティスト――ビエンナーレの年齢制限は30・・・35歳くらいだったかな――、彼らと世代も近いので、出品作からある種の同時代性を感じ取って、自分も作品を作ってみたいと願うようになり、パリにいる時から作り始めて、帰って日本の東京の銀座のあたりにある貸し画廊で個展を開くというようなことをやっていました。

 ある時、ルナミ画廊でしたっけ、藤井さんが個展をやるんですね。あれが何年だったっけ?

 (藤井:79年)

 79年なんですよ。たまたま僕はそこに行ってですね、その時、彼が弁舌をふるってレクチャーをやっていたわけね。僕も当時いろんな本を読んでいて――フランス行ったのも、ポスト構造主義的な思考に入れ込んでいたから行った、ということもあるんですけども――藤井さんが青臭い(笑)議論をしているなと思って、手を挙げて最後に質問したのがきっかけで、彼といろいろ交流することが始まるということがありました。それが縁で、徐々にパレルゴン一派のなかに入っていったわけです。彼自身が80年代に入ってすぐパレルゴンという画廊を開いたということで、僕もその頃作家活動していましたから、彼がキュレーションする展覧会がパレルゴンで開かれたとき、出品してもいます。そういったいきさつがあって、パレルゴンとの付き合い、藤井さんとの交流もできてはいったんですが、今言ったように僕自身が美術教育をしているわけではないので、もの派とかポストもの派とかが出てくる背景についての議論がいろいろされてきましたけど、それに対する知識は帰ってくるまではなかった。もちろん帰ってからアーティストとの交流、画廊めぐりとか、あるいは僕自身も北澤さんと同じ時期に神田の画廊でバイトをしていたことがありますので、そのなかでいろいろ知ることができて、ああ、日本にはこういった流れがあるんだな、と知りました。そういった意味ではまったくの部外者ではないんですけども、なぜかマージナルな立場にいてそういった世界を見ていた気がします。

 僕自身とパレルゴンとの付き合いは何年かあったんですが、徐々にパレルゴンから離れていくようになった感じがします。ということで、結局藤井さんとの付き合いも79年から、パレルゴンが80年からで、84年に『現代美術の最前線』を出したときには1人のアーティストの作品についてちょっと書きましたけども、それ以外何も関わってないんですね。僕はあの頃のことは昔でほとんど忘れていましたので、僕は僕自身がどのようなかたちでパレルゴンあるいは『現代美術の最前線』に加わっていたか、ということに関して記憶がない、またそういった資料を見てもほとんど想起することがないというところを見ると、やはり84年あるいは83年くらいでパレルゴンとの付き合いもほとんどなくなってきているのではないかと思います。ということで、長くてせいぜい4年くらいの付き合いかなという感じなんですね。全体を見渡して仕切っていた人は誰もいなかったと思うんです。僕は藤井さんもそうではないかと思うんですけども。パレルゴンあるいは80年代美術に関しても、通過していくという意識が、偶然の出会いだったのでなおさら強かったんじゃないかと思います。未だにというか、今もそういうふうに考えています。というのも実は僕自身が作家活動をしていたんですが、ちょうどパレルゴンとの付き合いあるいはその前後あたりから、神田の画廊で出していた小冊子がありまして、それに展評を書くということで僕自身のいわゆる評論家としての活動が始まるわけですが、まだ作家から評論家への移行期といっても良い時期なんですね。つまり、70年代の終わりから80年にかけて、僕にとっては制作活動と評論活動というのはまったく異質なもので、そのあいだには非常に大きな断絶がある。両方をやっていくことに関しては、アーティストと評論活動をやっている方もいらっしゃると思うので、まったく意見が異なるかもしれませんが、両立は出来ないと考えています。その断絶を一度くぐり抜ける必要があって、以前はフランスへ行って現代美術に出会うんですが、もう一度80年代の中盤あたりからヨーロッパに行き始めるんですね。それは、僕にとって制作活動を諦めて評論活動へ入るイニシエーションになった。そんな印象があります。今度行ったのは、専らドイツでした。フランスへ行った時にはシュポール/シュルファスも終わっていまして、ほとんど見るべき活動がなかったんですが、20世紀後半の現代美術、モダンアートと言ってもいいと思うんですが、そのヨーロッパにおける中心は、ボイスを指導者とするドイツだったんですよ。デュッセルドルフやケルンで活動しているアーティストたち。つまりボイスを中心としたボイス・シューラーと呼ばれる人達が目立った活躍をしていて、作品もすばらしいものがあったということがあった。僕はドイツに行くことによって、評論活動に入っていく最終的な決断ができた。具体的に活動を始めるのは80年代終わり。90年代に入ってドイツでの鑑賞経験を生かしてリヒター(ゲルハルト・リヒター、1932-)論とかポルケ(ジグマー・ポルケ、1941-)論とか、他のアーティストについての文章を書き始めたということがあります。

 個人的な観点からもう一度パレルゴンと80年代のアートに関して言うとですね、あまり深く関与しなかったという感想が今でもあります。非常に短い間しか関わっていないわけですけど、僕の印象として、パレルゴン及びその周辺と80年代初期の美術状況について言うと、先程から問題になっている絵画とか彫刻の復権とはまったく関係ないんですが、そういう世界で活動している人達にとっては非常に不幸だったのではないかというのが、僕が今見るところの結論ですね。その不幸とはどういう意味で不幸かというと、まず現代と比較すると非常にわかりやすいんですが、彼らにとってマーケットがまったくないような時代であった。そういう意味でまず生活するのが非常に難しい。なかなか生活が成り立たないという意味で不幸な時代だったと思うし、制度面に関してももちろんいろいろ展覧会をやってはいるんだけども、簡単に言うと美術館で展覧会をやってとしてもその展覧会の反響というのは、一部の美術の専門家や好事家の内部に留まって、なかなか外部に波及しなかった。もちろんジャーナリスティックな努力と言ったらいいのかな、コミュニケーションによってある種の大衆に対して訴えたりもして、その後始まるバブルで成功を収めるようなアーティストも現れてきたんだけれども、括弧つきの「アヴァンギャルド」という言葉を使えば、「アヴァンギャルド」に属していた日本人のアーティストにとっては非常に不幸な時代だったというふうに思います。僕の結論は大体そういうことで、これから議論がいろいろなされると思います。そのなかで、僕自身が考えていることについてお話したいと思います。


司会
 藤井さんとの関わり、作家から評論活動へ向けてパレルゴンとの関わりについてお話いただき、ありがとうございました。それでは休憩後、ディスカッションにはいりたいと思います。


[発表順番=掲載順番]
1. 暮沢剛巳
2. 藤井雅実
3. 大村益三
4. 吉川陽一郎
5. 市原研太郎
6. ディスカッション

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