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mailto「現場」研究会について今月の「現場」研究会
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 「現場」研究会は、情報化社会における美術の現場の在り方を探ることを目的として、平成13年4月に発足した。結成から今日に至るまでの活動は以下のとおり。(発表者の所属は当時のものとする。敬称略)

「現場」研究会特別編 シンポジウム開催報告

80年代におけるアヴァンギャルド系現代美術
――画廊パレルゴンの活動を焦点として――

[発表順番=掲載順番]
1. 暮沢剛巳
2. 藤井雅実
3. 大村益三
4. 吉川陽一郎
5. 市原研太郎
6. ディスカッション

[ディスカッション]

司会
 では後半のディスカッションにうつらせていただきます。調整役として同席する吉原と申します。まず、今回タイトルに「80年代におけるアヴァンギャルド系現代美術」とありますが、当時のスタンスについて各自お話をしていただけたらと思います。まず、藤井さんよろしいでしょうか。よろしくお願いします。


藤井
 ではまず、市原さんが当時の全体的な雰囲気を振り返って「当時の作家たちは不幸な状況だったんじゃないか」とおっしゃられた点から。市原さんはその理由として、マーケットと連動していなかったと言われたけれど、そもそもマーケット自体がないに等しかったですね。80年代前半、アヴァンギャルド系は神田が中心だったけども、マーケットは銀座の方がまだ細々としたものではあれ、かろうじてあった。しかし、その中心の画廊がやったオークションでのアガリが、たった百数十万でしかなかったということで、話題となったことがありました。他方もうひとつ、先程ちょっと暗示したけれど、言説環境の問題があった。『美術手帖』というセントラルなメディアが、当時、もはや現場の言説環境をフォローできなくなっていた。まあ編集部内部の事情のようなものも聞いたりすると、それはそれでご苦労だなと思ったりもしましたけどね。

 たとえば大村さんが細かく紹介された70年代後半の絵画の復権という奇妙なキャンペーンなどは、多摩美の教師だった峯村敏明さんも中心にいたこともあり、一定程度、大村さん以下の多摩美の学生たちに影響力を与えたらしい。僕が画廊始める前に深く付き合っていたBゼミ系の作家たちのあいだでも、現代美術の勉強会でそうしたあたりの座談会なども活発に議論されたりもした。だけど、そうした議論が状況を生産的に展開させるベースを作ることはなかった。そこには系譜学的に捉えなおすべき問題がありそうですが、80年代に入り、絵画、ニュー・ペインティング、新表現主義ムーヴメントが起こると、『美術手帖』はその紹介の方へとドラスティックに変化する。さらにその後、80年代後半、椹木さんや楠見(楠見清、1963-)さんといった新しい編集者が入り、シミュレーショニズム導入の方へ一挙にシフトする。(その脈絡で、コンプレッソ・プラスティコや森村(森村康昌 1951-)さんなど関西系ニューウェイヴの一部がフィーチャーされましたが)こうして80年代を通して、活発にポストモダン・アートが展開されていた東京圏や各地の現場に対しては(その活動をどう評価するか、という以前のレベルで)、『美術手帖』がまったく対応できず機能不全な状態になっていた(今日、80年代が見えない大きな原因の一つでもあるでしょう)。そして市場も不在だった。これは確かに、不幸な状況だった、という感想を市原さんに抱かせるような背景事情ではあったでしょう。

 しかし他方で、今の美術家たちと比べて、振り返っても幸せにみえる側面もある。70年代後半の学生たちは「失画症」と宇佐見圭司(1940-)が語ったような、ある種の行き詰まりにぶち当たっていた。それに対して80年代前半、パレルゴンを始めた頃になると、作家たちはもっとすごく生き生きとしてきた。ソレが、僕が画廊始める1番のきっかけになった。何か動きがあるぞ、現代美術が新しい方向に踏み出すことができるかもしれない。この、動きの新しさの内実とは何だったか? 作家個々によって感想はもちろん違うでしょう。先程の吉川さんと大村さんのでも非常に違う。しかし、そうした作家の個々の資質や関心の差異を超えて、当時の時代の環境にあったのが、大きな理念の圧力からの解放、という感覚的な実感に導かれたポストモダンの気分だった。70年代には、暮沢さんも語られたもの派やミニマル・アートや概念芸術に至って、モダニズムの芸術観が限界点に達していた。人びとの欲望や価値観を支えていたモダンの大きな効力というものが失われて、しかしそれに替わる依拠すべき基準も見つからず、欲望のデッドロックに直面していたのだけれど、80年代になると、そうしたすべて素材なんだ、何をどう扱ってもいいんだという、いわばスキゾフレニックで、記号論的な操作による表現の可能性が、実感レベルで育まれていた。身体であれ物であれ絵画であれ彫刻であれ、すべて記号的な素材であり、それを自由にコンバインしシャッフルし組み合わせて様々な表現を作ることができる。後に椹木さんがポストモダンの3種の神器というかたちで出す、カットアップ/リミックス/サンプリング。そういった行為が名前を与えられないままに自然発生的に行われていた。それが80年代前半だった。

 遡及的に見返すと、李禹煥ら、もの派の作家たちは、モダニズム理念の行き詰まりからプレ・モダニスティックな、物とか身体とか手触りを感じさせる実体をひとつの理想像として持ってきた。そうした実質的モティーフは、実は無自覚のうちにポスト・モダニスティックなサンプリング風の手口で取り上げられていたとも言える。それに対してもの派以降の80年代の世代は、自覚的に、すべては組み合わせ、ブリコラージュできる素材だという自覚があった。理論的に気付いていたというわけではなくとも、直感的にははっきりと気がついていた。そうして、ニュー・ウェイブの表現は、ニュー・ウェイブという非常に抽象的な名称でしか語ることのできない、ひとつのスタイルにまとめることはとてもできない多様で多元的な表われとなった。幾つかの傑作だとか天才やヒーローや大きなスタイルといったものを生むことはなかったかもしれないけれども、何かから解放された大らかな楽しさ、解放区の希望というようなものが、そこにはあったかもしれない。市場の拘束もない。言説環境の拘束もない。理念の拘束もない。すべては自由に記号としてシャッフルできる環境。それはまさに記号論的なポスト・モダニスティックな環境だけれど、しかしそれゆえにまた、80年代ニュー・ウェイブがその後短い期間でもって消え去ってしまうことにもなったのでしょう。


司会
 ありがとうございました。作家の大村さん、吉川さんは、アヴァンギャルド系美術の枠組みに規定されることを良しとはされないと思いますが、当時のアヴァンギャルドについてご意見いただけたらと思います。まず大村さんからお願いします。


大村
 まったくその通りなわけで、80年代、我こそはアヴァンギャルドである、と自称していた人間は1人もいないと思います。僕も今回アヴァンギャルドって言われて、あぁ、そうだったのかなと、事後的に自分を捉え直すきっかけにはなったけれども、おそらくアヴァンギャルドっていうのはアヴァンギャルドチック、あるいはアヴァンギャルド的というふうに言われる方法論があるにしても、それは80年代の作家の場合はアヴァンギャルド的な立ち位置というか、方法論的ではなくてむしろ態度だったんではないかというふうに思います。アヴァンギャルドというのはさきほども言ったようにつねに何かに対してのマージナルにいるという自己認識から始まる行為なわけで、その何かに対しての、という基軸になるものが作家それぞれが全部違っていたと思います。

 例えば僕の当時の作品などは絵画と関連付けて語られるわけですけど、むしろさっき言ったマルスラン・プレーネ(1933-)とか、あるいはシュポール/シュルファスに対しては、かなり違和感があった。シュポール/シュルファスにしてみれば、なぜ絵画を分解するのに支持体と表面に分けなければいけないのかと。そういった二分法を用いるんだったら、極端な話、市場価値と交換価値に分けることだってできるだろうし、あるいはディメンショナルに二次元と三次元に分けることだってできるだろうし、あるいは美術と美術ならざるもののあいだにも分節線を引くことができるであろうというところで、おそらくそれぞれの作家の方々の関心の中にはそれぞれの分節線がある。だからこそ、その現れが多様に見えてくる。まさにマルチカルチュラリズムっていうのは、どこに分節線を置くかということがマルチであるんじゃないかと思います。アヴァンギャルドということに関しては、むしろその分節をどういう形で開拓していくかという態度ではないかと思います。


司会
 ありがとうございました。吉川さんお願いいたします。


吉川
 私が考えるには、アヴァンギャルドっていうものが、実際の作品として、現在のものの見方の新しい提示、っていうふうに考えていきますと、そこに今まで認知されないような作品が新しい形態として出た、その時点の、もの、こと、をアヴァンギャルドと呼ぶ。日本に住んでギャラリーとかでいろいろ作品を見てる実感なんですけど、実際初めて出合うものごとの対処の仕方っていうのがよくわからない部分があって、それが文章になったり映像化されたりっていうもうひとつのメディアに変換されたときに初めて実質がわかったような気がする。だから非常に観客としては・・・何て言うんですかね・・・ものを作っている人間としてこういうことを言うのはあれなんですけど、新しいものに対する自信の無さみたいなものがあります。

 眼が訓練されていないっていうのと、自己っていうものが完全に自分のなかに確立されていないっていう自信の無さ。だからアヴァンギャルドっていうのが実際に自分で体験できるというよりは、常に記録としてとか映像として入ってきたときに、なんとなくわかるような気がしてしょうがないんですよね。だから・・・何が言いたいのか自分でもよくわからないんですけど、今まで僕らが知ってるアヴァンギャルドっていうのは、後で言語化される。作品っていうよりも言語化が伴なっていないものは、それはただの現象としてどんどん葬り去られているんじゃないかな、っていう感じがしてしょうがないんですけど。残るのはたまたまそこに運良く別のメディアに変換する記録者がいたということでなんとなくあたらしいものとして残っていく。もの派の作品というものは李さんというひとつのイデオローグの方がいたことで非常に重要なポジションにあるとは思うんですけど、逆に僕ら、もの派よりも若い世代だった僕たちはそれらの言説にしばられているところがあるように思う。


司会
 ありがとうございました。記録としてわかるアヴァンギャルドというご発言はまさしくアヴァンギャルドの本質を示しているかと思います。
 次に市原さんは作家活動から評論活動、また日本だけでなく海外での美術動向にも接してこられており、二重の意味でもマージナルな存在といえるのではないかと思いますが、そのようなお立場からご発言いただけたらと思います。


市原
 自分自身がパレルゴンの当事者ではありますが、パレルゴンでも僕は周辺(マージン)にいました。そういう立場からパレルゴンを語るとすれば、先ほど藤井さんから説明があったのですが、パレルゴンというマージナルな存在をマージナルだと宣言したとたんにマージナルでなくなってしまうのではないかと思うのです。画廊にパレルゴンという名前をつけたとたんにパレルゴンが物象化されてパレルゴンの存在意義を裏切ってしまうということになる。まあ直観的に言うなら、ということですが。


藤井
 でもその裏切りが機能しえなかったので、ストレートにアヴァンギャルドしてしまったとも言える。何しろパレルゴンという言葉の意味など分かっている人さえほとんどいなかったし、よく怪獣の名前かって言われた(笑) 美術関係者が何も理解してなかったのはともかく、70年代『エピステーメー』に翻訳連載されていたのに、ニューアカ系の言説環境でもアカデミズムでも美学系で室井尚(1955-)さんが少し言及していたくらいで、ほとんど扱われてなかったしね。その点でもパレルゴンの逆説が機能し得なかった。昨今でこそ、美学や美術史系の学会などでも随分パレルゴン問題が出ているけれど、20年早すぎた。当事者としては微妙な感慨がありますね。


市原
 パレルゴンの話は置いといて。さっきのアヴァンギャルドの話ですがアヴァンギャルドをどのように定義するかによって80年代のアーティスト、パレルゴンを中心に集まってきたアーティストの作品をアヴァンギャルドと呼べるか決まってくると思うんですね。たとえばアヴァンギャルドについて、ペーター・ビュルガー(1936-)が『アヴァンギャルドの理論』(1987)という本を書いていますが、簡単に定義付けるとひとつは常に新しいものを作り続ける、そういったムーヴメントのなかにいる作家の作品。もう一方は、ダダで主張されているような全否定ですね。ある種の破壊者。大きく捉えると、この二つだと思います。

 『現代美術の最前線』で書いた藤井さんのアヴァンギャルドの考え方とはちょっとちがうと思うんだけど、その二つの視点から80年代のアーティストをみてみると、すでに70年代に新しいものがないというモダニズムの閉塞感があって、80年代のアーティストにまったく新しいものを見出す要素がなかったということで、そういう意味でおそらく彼らはアヴァンギャルドではなかった。もうひとつ否定ということで考えるとアート自体を否定しているようにも見えないので彼らの作品はアヴァンギャルドではないといっていいと思う。だから作品がだめだといっているわけではなくて、つまり定義の仕方でずいぶん変わってくるわけだから、アヴァンギャルドであるとかないとか雰囲気で語ってもしょうがない。
 暮沢さんはどうお考えになりますか。


暮沢
 わたしはなにぶん当事者ではないので、みなさんが当時どういう問題を抱えていたのかわかりません。だから、スライドをお見せして説明したように作品からしか知りえない。市原さんのお話には共感するところがあって、つまりアヴァンギャルドという概念自体の定義をどうするかで変わってくる問題で、それによって捉え方が違ってこざるをえない。

 ごくごくベーシックなところで申しますと、アヴァンギャルドは軍隊の用語で、それから転用されたもので最前線を意味している。アートの場合、一般常識やあるいはそれ以前の支配的な傾向などに攻勢をかけて新しいものを見出すという不断の運動のことですよね。そういう意味で言うと、80年代の東京の若手のアーティストの攻勢対象としては、大村さんや吉川さんのお話をきいていても、どうしてもやはりもの派というものを意識せざるを得ない・・・


藤井
 おふたりの場合は、(もの派の牙城でもあった)多摩美系という理由もあったんじゃないかな。



暮沢
 まあ、芸大系とかBゼミ系とか違う印象があるんでしょうけど。たまたまおふたりは多摩美系なので、それを前提にお話をすると、80年代の当時の美術評論という領域はニューアカによって代行されるわけですが、それ以前のもの派の中核をなす理論というのは現象学とか場所論とか、そういった概念だったと思うんですね。李さんの書いたものを読むと、ウェットな情感に満ちていてねっとりと肌にからみつくような感じがする。当時の若い作家さんたちはそれを読んで今僕が話したような生理的な抑圧というか嫌悪感をもったんじゃないかと、そしてそれを克服するために新しい動きを起こしたというのであればまっとうな反応だと思う。

 ところがそれより10年前にさかのぼって考えてみれば、今こうして否定的に語ったばかりの李禹煥的な現象学も、70年前後の学生運動の時代には人間解放的な議論として認められていたわけで、10年も経てば言説の評価がガラッと変わってしまうことが痛感される。そういったことを考えると、80年代の解放的な議論というものも、社会的なバックグラウンドがすっかり変質してしまった今となっては、当時のアヴァンギャルドの実質自体が忘れ去られてしまうのも無理はありません。結果的に、今回のシンポジウムの主題となっているアヴァンギャルドの実態そのものが捉えられてなくて、絵画の復権など保守的な、むしろ当時と180度変わった視点でしか歴史化されていない、ということになる。おそらくそうした反転もタイムラグによって生じているのだろうなという気がします。

 今日のみなさんのお話を聞いて個人的に思うところは、80年代初期の作家にアヴァンギャルドの意識があったのかどうかというのはともかくとして、もの派を克服するために行ったパレルゴンの作家の活動というものは進取の気風に満ちていて、当時としては解放的な雰囲気をもっていたのだろうし、またそれはポストモダニズムの言説によって裏付けられていたのではないか、ということです。僕もそうした言説には接してきていたので、市原さんのおっしゃったように「作家にとっては不幸な時代だったのかもしれない」ということだけではピンとこないところがある。

 何十年というスパンを経て、あの時代はそうだったかもしれないというトータル的に考えるわけで、一概に不幸だったということはできない。まあ、そういうことを考えると長く見ていかないといけないということが実感でありまして・・・。僕自身は当時のパレルゴンの作家がアヴァンギャルドであったということは否定はしません。然るにその一方で、さきほどの絵画の復権が歴史化されてしまっていることもまた事実であり、その懸隔が何なのかということを考えるのが歴史や批評の役割なんだろうなと思います。ただなにぶん当時の状況を知らないので、まあ、まめに当時の人の話を聞いたり、フィールドワークをすればそれなりにわかるのかもしれませんが・・・当時の資料とかって残っています?


藤井
 当事者である僕でさえ、今、当時の資料を探すのが大変でした。


暮沢
 歴史学の必然性ってこういうところにあるんでしょうね。


市原
 さきほど暮沢さんが指摘した僕の発言の「不幸な時代」ということに関してですが、ひとつにはマーケットがないということと言説がそのまわりになかったということが不幸の原因の二つの条件だったわけですが・・・



藤井
 言説自体は、市原さんや秋田さんの言説とかたくさんあったと思いますよ。現場のメディア、田村画廊やルナミ画廊の展評誌だとか、北澤さんも深く関わっていた『象』や『象通信』など市原さんも関わっていたけれど、作家やギャラリストもよく読んでいたし。高木修(1944-)さんの『imprex』には早見堯(1945-)さんも常連で、モダニズム、フォーマリズム系の議論が載っていたし、『現代美術の最前線』のように包括的なものでなくとも、当時盛んに行われていた自主展覧会やシンポジウムがらみのテキストも毎月のように出ていて、作家の言葉も多く載っていた。しかしいずれもマイナーなメディアでしかなかった。


市原
 まさにそういう状況はあった。せまい小さな世界のなかで、なおかつマイノリティだったわけですよ。一時的に僕もそのなかにいてとりあえず当事者であって、その体験からすると、小さい世界にいると精神的によろしくない、ということでどんどん不幸になるということがある。たぶんわかると思いますが。それこそ60年代70年代のいわゆる新・旧左翼が起こしたさまざまな事件があったけれど、下手をするとああいった状況に陥るような危険性があり、一部陥ってしまったというようなことがあり、僕自身も巻き込まれしまったこともある。不幸というか暗い状況のなかにわれわれはいたと思います。

 それはいまだに僕自身の記憶にも残っていて一種のトラウマになっているんですね。だから僕は80年代も半ばになる頃にその世界から抜けようと思ったことと、あとあまり日本に興味がなかったということもあって海外に戻っていくということになるんですけど。やはりそういった面はまったく無視できないし、当時暮沢さんなんかは現場にいなかったわけだからまったく体験できない、どろどろの情念的なものだし、それをわれわれはもう一度考え直さないといけない。

 では、逆にあの時代のわれわれの活動を外に開くためにはどういった努力ができたのかというと、まったくやってこなかったわけですよ。まったくできないという状況に陥っていたということがまさに不幸な時代の特徴を現している。それは政治の分野にもアートの分野にもあるといえる。


司会
 ありがとうございました。ここで会場からの質問を受け付けたいと思います。


会場からの発言
『現代美術の最前線』出品作家から当時の絵画復権の状況や美術批評の役割についての発言、80年代の美術館の在り方について元キュレーターからの発言や、出版関係者からは80年代に相次いだ雑誌メディアの台頭についての言及があった。




市原
 70年代の後半に李さんなんかが疾走してフォーマリスティックな絵画の復権をもくろんだわけなんだけど、見事に失敗してしまう。そういった状況があったと思う。そのあとにマーケットの要請として行き詰ってしまった美術を立て直さなくてはいけないということでポストモダンになだれ込むように世界の美術がポストモダン化するわけですよ。そのなかで何をやってもいいんだという状況から絵画が復権しようが回帰しようがいいじゃないかということが起こり、一番売りやすいということで絵画が選ばれて絵画の復権が世界中で起き、さきほど名前を挙げたようなアーティストたちがでてくる。

 それに対して日本ではなく世界に向けると美術の評論の分野で、70年代の終わりから80年代の初めにかけて批判が噴出してきた。絵画の復権を指示する人というのはほとんどいなくて、たとえばアメリカで言えばバーバラ・ローズという人が絵画というものはすばらしいなど絵画の復権を支持する発言したら、とたんにダグラス・クリンプなんかが「絵画の終わり」という文章を書いて、絵画が終わろうとしているのではないか、その証拠にダニエル・ビュランとかリヒターの名前とかを出すんですね。

 それにとどまらず絵画だけでなくアートそのものが終焉するんだというかたちで、アート界で70、80年代に「end of art」ということがいわれ始める。ですから評論の世界では圧倒的に、絵画の復権ではなく、絵画が終わっていること、さらにはアートが終わっているということをいう人が多かったというふうに僕は理解している。日本ではそれに対して言及する人がいなくなっていた。

 なぜなら、なだれを打つように絵画が世界を席巻することによって大きな波が押し寄せてくる。その大きな波、マーケットが求めた大きな波に抵抗できる評論家はひとりもいなかったというのが日本の事情でもあったと思いますね。


藤井
 それは市原さんも含めて?


市原
 それを僕が否定していたかどうかは微妙なんですよ。


藤井
 僕の記憶では市原さんはだいぶ文句言っていた気がするけど。


市原
 僕にはアートに対する愛好者としてのスタンスが根底にあって、アートはそこで終わらせてはいけない、エンドの鐘を打ってはいけないという気持ちがじつはあったんですよ。

 ペインティングが終わったとしてもアートさえ終わらなければいいと思っていたんだけど、アーサー・C・ダント(1924-)のような言い方をされると僕としてはそれに対して黙っていられないというところがあった。ただダントのいうことを今読み直してみると、ものすごく当たっていて、当然の如くわれわれはそれを現在経験している。

 つまりダントは、アートは終わっているんだけれども、終わりを終わり続けるという言い方をしている。終わりが永遠に続く。70年代以降、80年、90年、そして今に至るまで、アートは実は終わり続けている可能性があるし、もしかしたらそれがわれわれのアートに対する感覚なのかもしれない。


暮沢
 アートが終わるというダントの物言いは明らかにヘーゲルの歴史哲学のフォーマットを意識していて、それを美術史に置き換えたパターンになっていると思う。また終わり続けると言い方は否定神学の発想でもありますね。おそらくダントは右派のモダニストとみなされていると思いますが、反ヘーゲル思想はポストモダニストの発想そのものであって、そういう逆転が生じたのも80年代の美術批評の言説のあり方なんだなといまのお話をきいて瞬間的にそう思いました。


市原
 確かにポストモダンは表向き反ケーゲルかもしれないけれど、ダントを出すまでもなく、ヘーゲルと密接に結びついている。たとえば浅田は、80年代は「差異」は記号化されることで単なる戯れに終わってしまったと言っている。それとは反対に90年代は、真実の差異が現れ新しい世界が作り出されると予言した。けれども、結局90年代もまた差異が露出することなく記号に還元されてしまった。浅田の言説も、緩慢な終わりを巡るポストモダンのヘーゲル的なパラダイムに回収されたのだと思う。

 付け加えておくとダントはヘーゲル学派です。ヘーゲルの絶対精神の理論に則って、その精神が体現される領域が変化していき、芸術の世界にそれが宿って、次に宗教の世界に移行する。この意味でダントの考える芸術のピークはウォーホル(アンディー・ウォーホル 1928-1987)のポップアートなんだけれども、そこに芸術の終焉の印が認められるということから彼は美術評論の世界に入ってくるんですね。


藤井
 ダントも典型的ですが、市原さんがガイドされたような理念的な精神史の脈絡のなかだけで歴史を紡ぐというのは、キリがなくできるんですね(モダンが終わった、終わらないというのも同じです)。

 しかし日常感覚で実感されるような「美術が終わった」という物語は、社会全体のマテリアルな変化の中で、美術というひとつのジャンルの役割を支える仕組みが大きく変わってきたことへの実感を語る場面で生まれる。かつてモダンのアヴァンギャルドの理念が生きていた頃は、フォーマリズム、アンチフォーマリズムにかかわらず、また作家たちも、その物語に暗黙のうちにも依拠していた。確固とした姿で捉えられていなくとも、「批判的な振る舞い」をなしてしまうということ自体が、それを善しとする漠然とした幻想を支え、そしてその自ら紡いだ幻想に支えられて、ジャンルの理念は命脈を保ってきた。しかしそうした在るべき美術の幻想の支配力が霧散してしまった。そうした意味での終わり、というのはあるかもしれない。それでも、近代的な分業ジャンルとしての意味ではなく、ひとつの人間の営みのカテゴリ(労働とか遊戯とかに近いカテゴリ)としての美術というのは、そう簡単に終わるものではないですけれど、社会的な脈絡の中での美術の機能は、ポストモダン過程で大きく変わった。

 その典型的な事例の一つに、80年代から90年代にかけたキュレーターの地位の変化がある。キュレーターという役割もまた、アート環境の中でパレルゴン的な位置にあり、かつては消える媒介者として機能していた。作家や観衆を美術館に導き、そこで自らは消える存在であったのが、バブル期以降、国際的シーンでもキュレーターの位置は、作家に匹敵し、時にはそれ以上に巨大になってきた。批評的言説などよりも実効的な権威(美術の知を請け負う)をもち、他方、世俗的な次元でもバブル期後半には、女子大生の憧れの職業上位にキュレーターが入っていた。それに平行して、社会編成全体でのアートの位置も大きく変化し、美術を巡る言説のドミナントなモードも、状況を追認するジャーナリスティックな言葉の方にシフトしていった。これはかつての理論的な言説空間とは別種の言説空間として存在するし、暮沢さんもしばしば言われていますが、状況に生産的に介入する批評的機能を担う美術評論の実効性が弱まり、市場とそれに即した欲望を再帰的に紡ぐジャーナリスティックな言葉が主導権を強めているようですね。

 (会場からの発言を受けて)
藤井
 美術観の基準を支えた統一的な理念の分散が、実感レベルで確認された80年代と言いましたが、そのとき作家達は、拠るべき基準も文法も散逸した環境で、それぞれの私的言語を公共化せざるをえなくなったわけです。かつてのモダンの規範や文法には依拠できない中で、私的な言葉をなんとか公共的な場にもたらしていく。その困難が80年代美術にはあった。90年代には椹木さんやレントゲンなどの活動に典型的な強い方向性が強引に仕組まれて、しかしそれゆえに市場と作家とメディアがうまく共存する場が生まれもした。そうして魍魎めいて捉えどころのないゆえに、市原さんがおっしゃった「不幸」の陰りを帯びた80年代とは対照的な、演劇的に捉えやすい90年代のムーヴメントが浮上する。しかしその華やかさに隠されてしまった部分もあるでしょう。90年代をよく見てない僕は確証はできませんが、スーパーフラットに至る表に書かれた物語に隠された幽霊の話はしばしば聞くし、そうした潜勢力が発掘される可能性はある。いわゆる90年代アートの基準だって、たまたまマーケットやメディアで成功したからスタンダードであるかのように映っているだけですね。また、僕はたとえば村上隆も高く評価しますが、その基準だっていくらでも疑うことはできる。そして疑うことができるという、そうした構えから生まれる開放性が全面的に現れたという点が、80年代アヴァンギャルドの可能性でもあった。


暮沢
 80年代のお話をきいていて思ったのですが、ある意味で今の時代ゼロ年代を先取りしているような感覚を受けました。それはどういうことかというと、作家と評論家の共犯関係が失効していた時代だったということです。僕なんかは必ずしもそうは思いませんが、一般的な通念として言われていることとして、美術評論家にとって最も重要な仕事の一つが作家を見つけることだと思う。戦後すぐの美術評論家である瀧口修造(1903-1979)、あるいは後の藤枝晃雄などがいろいろな作家を押し出していったことは事実なんですね。ところが、80年代のアヴァンギャルドの時期には、それ以前の藤枝、峯村的な言説のパラダイムが失効して、作家と評論家の共犯関係は一時的に失われてしまったような気がする。


藤井
 僕は作家と評論の「別の形」の共犯関係を企てようとしたのだけれど、それを支えるマテリアルな条件がなかったし、整える力はなかった。僕も北澤さんも努力はしていたんじゃない?(笑)


暮沢
 それはさきほどのマイナーメディアでの活動でしょうか。


北澤
 いや、それは違うな。僕は最初から「作家の役には立たない評論家」ということを旗印にしていて、みんな知っていたから、そのような共存関係には関わらなかった。

 それと、さっき市原さんがマーケットがなかったといっていたけれど、美術館がマーケットをつくっていたと思うよ。その美術館というマーケットを目指していたのは団塊世代だよ。キュレーターにすごくモーションをかけてたよね。わりくったのはその次の世代。



大村
 団塊世代だけでなくて、ある時期から、それこそ80年代の半ばくらいから学芸員の時代ということは言われていて、まさに70年代の美術手帖の一連のキャンペーン、それと学芸員の時代という端境期にあって、どっちともに救われなかったという思いがあると思う。学芸員の時代があって何が変質したかというと表向きは全然変質してないんだけど、美術館に入る、ないしは美術館に取り上げられるという前提でもって作家が作るようになった。これは作品の変質上、目には見えないんだけれども、誰が買うんだ、こんなでっかいものみたいな、これはもう美術館に入るしかないだろうというような作品をみんなが作り始めた。それはまさしく学芸員の時代の始まりだったように思える。


吉川
 暮沢さんがおっしゃって非常にリアルに思い出したんですけど、たしかに作家と批評との共犯関係はあまりなかった。というより私たちは批評をあまり意識していなかった。80年代は作家が自主企画をやった時代でもあったと思う。ものすごくグループ展が多かった。美術館と経歴には書いているんですけど、それは美術館が企画したものではなく、作家が美術館を借りてやったものが多い。

 キャリアを見るとみんな○○美術館と載っていることが多いんだけど、作家の持ち込みが多かった。お互いに批評がなく、仲間意識でやっていた。そのグループ展からたまに批評の方からピックアップされて別の企画展をやることもあり、そのときに書かれた批評というものは熱のないものというか・・・そういう意味では80年代というものを感じますね。


暮沢
 さきほどの共犯関係というのは作家と評論家の相互の欲望というか思惑が一致したところで成立するものですね。作家としては世に出るための後押しをしてくれるような批評が欲しい、批評家のほうは自分が目をつけた作家を世に押し出したいということで、双方の利害が一致することではじめて成立するような関係ですね。ところが、美術館やキュレーターという存在の台頭によって、そういった共犯関係が成立しにくくなってきた。評論家の言説自体が崩壊してしまった。


藤井
 言説が崩壊したというか、言説の役割が不用になった。


暮沢
 そうですね。それで80年代の終わりに椹木さんが出てきて90年代に村上隆という作家を見つけてシミュレーショニズムを打ち出したけど、それは恐らく作家と評論家の共犯関係が成立した最後の例じゃないかと思います。そのあとそれに類するものって何も出てきてないわけで・・・

 僕も彼の後に批評活動はじめて、誰かとの間にそういう共犯関係が成立したことなどないですし、成立させようという意欲自体ありませんけど。

 またブログなどを見ている限りの印象なんですが、自分より若い世代の作家はそもそも批評の言説など必要としていない気がします。情報発信だけだったらブログなどで自分ですぐできる時代ですし、評論の言語自体読まれなくなっている。


市原
 共犯関係が椹木以後ないというお話でしたが、松井みどり(1958-)なんかはそのあとに来ようとして・・・成功しているかどうかは分かりませんが。


暮沢
 かなり強引ですよね。キツイ言い方をすればでっちあげかもしれない。


市原
 まあ、でっちあげかどうかはともかくとして、椹木も同じようなことをしていて、それが成功すればでっちあげじゃない本当のことだったとなるわけで。実は僕も考えてやろうとしていないわけじゃないんですよ。僕は共犯関係はいいことだと思うし、つくるべきだと思う。


暮沢
 同世代の人? もっと若い人ですか?


市原
 僕の場合は若い人とじゃないと、共犯関係が作れないと思い込んでいるんですが・・・(笑)
 まあ80年代に評論活動を始めるとき日本を脱出することをいいわけにしちゃいましたけど、実をいうと共犯できるアーティストがいなかったというのが一番の大きな理由だったと僕は思うんですね。

 持ち上げることはいくらでもできますけど、真の意味で共犯関係をつくる、でっちあげでもいいから時代を作ろうというところまで入れ込むことのできるアーティストがいなかった。その代わりに世代は古くなるけれどもドイツに行ってリヒター(ゲルハルト・リヒター 1932-)とかポルケ(ジグマー・ポルケ 1941-)とかをみつけることができたというのは僕にとっては非常に大きな意味をもっていて、まさに共犯関係というのはお互いに立場がまったく違うということが前提にあって、一人で両方の役割ができれば共犯関係は必要ない。僕の場合、ヨーロッパに行くことでようやく評論家になれると確認できた。


北澤
 今の発言重要だと思うので「現場」研の代表として発言しますが、ようするに「現場」が変質したんだと僕は思う。市原さんは世界を股にかけて都市を巡り歩くような評論活動を始め、僕は歴史に向かった、つまり過去に遡ってゆくやり方をとった。

 つまり、市原さんにせよ、ぼくにせよ現場を離れていった。僕はいま「現場」を離れたと言ったけれど、実はこの発言自体に問題があるのであって、80年代においては「現場」がまさにポリパラレル風になった。たとえ東京を生活や活動の拠点としていたとしても東京とか日本とか、それを「現場」とは言いにくくなっていった。僕は市原さんの活動をみていて、画廊周りをして『美術手帳』などの雑誌に展評を書くという活動が、何かとてもせこく感じられるようになった。画廊周りをしてれば現場の批評家としてやってゆける時代は終わったと、はっきり実感した。

 それで、市原さんが地理的な広がりのなかに新たな「現場」を求めていったのに対して、ぼくは時間的な広がりのなかに「現場」を求め、また、その観点から「現場」と呼ばれてきたものの在り方を批判するために本を書き上げた。絵画、彫刻の似非キャンペーンの批判をするべく『眼の神殿』(1989)を書いたわけです。

 ようするに「現場」が拡張し拡散していったわけですが、そこにはメディア編成の変革もかかわっていた。暮沢さんが言及していたようにブログが雑誌に取って代わってメディアの代表になってゆくような時代、つまりはネットワーク社会の端緒が80年代に開かれたわけで、それも美術批評や「現場」の拡散や変質の大きな原因であったと思います。


司会
 お時間も迫ってまいりましたので、ここまでとさせていただきます。パネリストのみなさまをはじめ、ご来場くださいましたみなさまに改めて御礼を申し上げます。本日はありがとうございました。


会場の様子

[発表順番=掲載順番]
1. 暮沢剛巳
2. 藤井雅実
3. 大村益三
4. 吉川陽一郎
5. 市原研太郎
6. ディスカッション

(2008年12月掲載)

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