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2009年6月

 6月の「現場」研究会はゲストに白川昌生氏をお招きし、「技能、実践としてのアーティスト」をテーマにお話を伺いました。

 白川さんは現在、群馬県前橋市を拠点に作家活動を行っています。まず前半は、氏が代表を務める「場所・群馬」の活動を紹介していきました。群馬という場所で制作できる作品はないだろうかと模索し、仲間と作り上げたこの活動は、展覧会ごとにメンバーが変わり、空き店舗を利用して展示開催を行っています。「島岡酒造の再建にエールを送る展覧会」を行ったサバイバル・アート展、2005年に弁天通りにオープンしたYa-man’s GALLERYの運営についてなど、前橋市における地域性ならではのエピソードを伺う事が出来ました。

 後半では、白川さん自身にとっての技能、実践としてのアーティストについてお話頂きました。現在でも「自分は職業作家として成立していない」とし、最終的に自身は「贈与」をし、存在証人に近い存在であるとアーティストとして位置づけていました。会員からも積極的に質問が飛び出し、アーティストの活動意義、地域におけるアートプロジェクトの在り方についてなどディスカッションが活発に交わされた3時間半に及ぶ研究会でした。


●2008年6月20日(土)「現場」研究会討議記録

テーマ:技能、実践としてのアーティスト
ゲスト:白川昌生

1:「場所、群馬」
 群馬県には現代美術の画廊がほとんどなく、いくつかの画廊は東京から商品を仕入れている。地方には美術の地方には美術の先端で騒ぐ人もいないし、メディアもいないため地域に埋もれてしまう。
 日本に戻って25年活動しているが、地方で生活していろんな問題について考えるようになる。80年代、佐賀町のアートスペースでは九州や北海道の作家でアーティストのネットワークを作り、他の地方の作家と話す機会があったが、どの地方でも同じような絵が見られ、同じようなことを考えている。絵画の普遍性などを話していて、僕はおかしいと思い違和感があった。フランスやドイツは地方に行くとニュアンスが違うが、日本は上から下まで同じで地方に戻って活路を見出せないでいる。
 僕は群馬という場所の中で作れる作品はないか考え、歴史や国土などを取り入れて最初は制作していた。一度外国に行ってカルチャーショックを受けると、日本のアイデンティティーを考えざるをえない。「日本」の事を話すと日本の美術関係者は「右翼だ」と言うことに違和感があった。日本には国の問題を作品にして伝える回路が人々にない。地方の作家には「これはポップアートではないか」となかなか理解されなかった。< br/> しかし、もう少し具体的に群馬に生活している場に関わろうということで、「場所、群馬」を仲間で作った。これはグループと言うよりも「こういう展覧会をやりましょう」と集まって、その時だけ結成し、終わったら解散する。そしてまた何かやる時に集まって、割とフレキシブルな感じでやっていっている。
 前橋は蚕や絹など日本で一番明治時代に生産していた所なので、絹で儲けた人たちが建てた大きな歴史的な銀行や屋敷があった。しかし70年代以降は公民館代わりに使われ、70年代を過ぎると美術館や文化センターが出来、銀行はガラ空きで使用されなくなる。僕はその建物を展覧会場に使わせて欲しいと市に提案し、その空間や群馬を考えるタイプの作品を制作したい人で集まり、「場所、群馬」を開いた。

2:《サチコの思い出》
 前橋の街の中には服地を売っている既製服屋さんがあり、頼めば裁断して制作してくれる女性がいたが、絹の産業が70年代中曽根とアメリカの契約でなくなり、桐生の街の中で産業を自主的に破壊していった。街全体が疲弊していき、服を注文して作ってもらう事もなくなり、完全に時代が変わって必要性がなくなる。≪サチコの思い出≫で、私は無人化した商店街で服を着た女性を撮影し、商店街とだんだん消えていく街、生活様式を取り入れるようになった。
 太田という街のはずれには赤城山、榛名山の伏流の水を使って江戸時代からお酒を造っていたが、3年前に漏電で火事になり酒倉がなくなってしまう。酒を造るのも文化、美術も文化なので、頑張ってくださいとアピールする展覧会をやったらどうだろうという事で、仲間を呼びかけて作品を作った。その中には女の人が太田の酒瓶を持つというものがあり、母屋が焼けて宣伝が出来ないため、代わりに宣伝の作品を制作した。これは反響があり、今は新しい坂倉でお酒を作り始めている。こういう事も僕が地方にいる事によって出来、アートを1つのメディアとして使ってそこに生活する人と関係していける表限かと思いやっていった。

3:フィールドキャラバン
 5年位前に全国でアートNPOを作ろうという運動が盛んになった。前橋でも若い人とある種のNPOを作ろうという事で商店街の青年会とリンクして活動を始めた。30代の子がアートカフェを始め、持続していけるようになんとか前橋市から補助金をもらって運営していた。そのカフェで展覧会など開催するうちに、若い人がポツポツ来て、コミュニケーションがとれるようになるが、商店街には誰もおらず過疎化していく。活動をやっているからと言ってアートの町おこしが出来るかと言えば出来ない。出来るか出来ないかと言うより、そこに住む人と何かやっていく。
 そんな中、たまたま群馬県立近代美術館から展覧会をやらないかという話が来て「やります。」と言った。その時、美術館はアスベスト問題で閉鎖しており、群馬県庁の古い県知事の部屋を仮の展示場にしており、常設展を開いていた。展覧会は7月開催で、スノーボードの展覧会を企画した。
 商店街の若い人たちで24-26歳の人はみんなスノーボードをやっている。面白そうなので話を聞きたいと思った。群馬は冬になるとスポーツをしに東京からたくさん人が来て、地元の人はスキーの指導員になって生活費を稼ぐ。彼らにとってスキーやスノーボードは身近なスポーツになっているので、僕も興味があってやってみたいと思った。作品を作るにあたって地元の人やボードのショップ、コンビニ、スキー場のオーナーなど聞いてまわり1枚のDVDを作った。それから若い人が声をかけてくれて、スノーボードを一緒にやるうちに、生き方なども聞いていった。彼らはスノーボードに生きがいを見出しており、スポーツではなく生き方になっており、僕は共感できるところがある。アメリカニズムと言われるかもしれないが、何か手探りでリアルなものを手にしたいという気持ちがあって、そういうことをやっている。そういう姿を見ることもアートじゃないかと思ってやっている。

勝手に贈与する
司会:白川さんがおっしゃっている「技能と実践のアーティスト」というのは、地域の中に入って、アートとして発表する事なんでしょうか。
 地域の中に入っていくのは難しく、アーティストだからと言って入って行ける訳ではない。「職業と技能のアーティスト」と言っているが、僕自身が職業作家として成立していない。その状況で作家活動を続けている。そういう中でやるアートは何なのか考えると、経済活動というところで、硬貨交換にならないアートは社会に向かって贈与すると思う。「贈与」というのは、マルセル・モースが言うように必ず返礼の義務があるので、自分を認めて欲しいという欲望がある。売れないのは作家じゃないと割り切れるが、それでも作家活動をしていく必然性である。
 地方の中で何もない中でやっていくのは存在証人に近いと思う。勝手に贈与する。これは返礼しなくてはいけない。つまり社会との関係が生まれる。アートとそういう社会的なつながりは1つの試みだと考えている。人間にとってアートは必要だと思う。やはり表現は人と人のつながりをつなげる1つのきっかけ。近代的な職業としても成立しているが、成立しなくても、1つの可能性があると僕は勝手に考えている。

[質問者1] どうしても暗黙の了解として、東京のアートシーンが置かれていて、その上で活動を想定されているとおっしゃっていますが、その前提を取っ払う事は出来ないかもしれないですが、ある程度相対化して文化という方に目を向けた方が可能性を広げられるのではないかと。

 いろいろと複雑な感じだが、1つは美術を前提にすればいいところはある。尚且つ、贈与活動と違う形の美術活動を生み出せたらと思う。前提がなくなれば自由な活動になるのかもしれないが。具体的に全て投げ打っていればそうなるのかもしれない。ゼロから組み立てれば可能だと思う。

[質問者2] 違うフィールドになった時に、その言葉(「技能と実践のアーティスト」)は、美術にこだわるのでしょうか?

 誰かが自分は作家を辞めて、アクティビストになった人がいる。美術家というのは美術に収束するから使った。僕はこの考えは賛成だが、一部は反対で美術だけって事ではない。

[質問者3] 美術を捨ててアクティビストになるのは、捨てる美術は何なのか。普段はコンセプチュアルをやる、でも群馬に関するものを作る時もありに二足のわらじでごまかしに聴こえる。美術に包括できるし、別の問題に聴こえる。

 例えば、「場所、群馬」に出る場合は、条件として群馬を考えるものであればコンセプチュアルでも抽象でも構わない。それに対してそれでもいいという人が参加してくれる。展覧会が追われば解散してしまうし、こうだああだと言われない。
[質問者3] つまり、群馬でしか出来ない作品を作って欲しいと?

 そういう事を考えて作ってくれと。でも敢えてそうやらない人もいる。銀行の展覧会も考えてやる人とポンと作る人がいる。場所を使うとか、80年代にはなかったので、1つのきっかけかと。
 アーティストの事については、正直なところ難しい。アーティストの方が広い意味にとれる。近代の中の美術は制度になるが、美術というのは今曖昧で、一概には言えないような広がりがある。アーティストという言葉を使った方がいいのかもしれない。絵画や彫刻がどういう意味合いがあるか考えるが、僕の中で答えはない。技能と実践で考えれば、互いに刺激し合う感じだ。

[質問者3] 美術の包括概念があって、内包した1つのジャンルが彫刻と絵画だとしたら、包括するもので刺激し合うものではないのでは。今の状態は拡散しており往復運動がある。ジャンルについて考えるチャンスでは?

 チャンスだと思うのは、この中での古いメディアなら絵画や彫刻の存在理由を問わなければいけない。今は広く拡散しているように、創造活動を広い概念の美術というより、どんどん広げて先が見えないから包括しているかは分からない。そう思ういくつかの理由の1つは、やっぱり近代的な最近のバブルで絵画や彫刻が完全に商品化されている。そういう規定がある中で、その作品のメッセージが分離するのか、連動するのかどうか。意味を持ちうるのか考え直す。

[質問者4] 存在理由を国や文化が越えたように、地域的に見ても時間的に見てもどのように包括するのか、白川さんの存在理由はどうするのか。

 僕は「場所、群馬」をやっていて、群馬で提案して、地域性の問題でもそうだが、地域でも両義性があって「100%地域」ではいかないという問題がある。いろいろ考えると自分が考える地域は答えにならない。無理やり作って考える。捏造ですね。

[質問者4] 拡散する方向と収束する方向。これは、白川さん自身が考える美術、加工概念のようなものでは。

 そうかもしれないですね。技能と実践のアーティストは他の人と違うかもしれないし、とにかくやる事が重要でまず自分で歩いてみる。何にもつながりがなくて自分ひとりで勝手に捏造してやっている。僕がやっている事は1つの作品をずっと作り続けるのではなく、あれやこれやの感じで作品を作っている。

[質問者2] 私は「ワタラセアートプロジェクト」に関わっていますが、プロジェクトにコミットすればする程、自分の活動がどういったものになるのか考えます。白川さんはボランティア的だとおっしゃりましたが、どうお考えですか。

 正直非常に難しい。地域通貨での流通も考えたが、結局流通するのは生活必需品。ヨゼフ・ボイスも流通させたいと言って、ミリチプル作品を作っていたが売るのは画廊。彼のドローイングになると、数千から億で、じゃあミリチプル作品は何だったのかって事になる。その時、アート作品が全てのユートピアではないという事が分かる。高くすると流通などの問題が起こり、それに関わる制度そのものの人たちとの関わりがないと大きなお金は動かない。それと作家が何をしようと、美術で活性化するのはほとんど不可能だと思う。
 ドイツやアイルランドは国家事業でやっていて、疲弊した大きな工場に凄いお金をつぎ込んでいる。それと同じ事を前橋には望めない。
 世界で成功した事が日本中でも成功すると思って、どこの場所でも税金投入している。町ぐるみっていった場合、町の人がどういうアートを必要としているのか僕には分からない。群馬のアートプロジェクトの中心になるのは東京から来た人。その辺のズレというか地域のつながりというか、自分勝手に1人でやるのはそういうところなんですよ。

[質問者2] 私たちのプロジェクトはそういうスタンスから始まっていて、今年4年目ですがもっと違ったアプローチがないかなって。一過性ではなく、その辺を模索したい。

 その辺は難しいと思う。人との付き合いが出てくるし、行政などの対応もマメにやらなくてはいけない。僕もNPOをやっていますが、ほとんど若い人に任せている。群馬県の文化活性課でも募集しているが、1年ごとに切られる。若い人にお金を出さない。成果が上がらないとダメで毎年同じ事の繰り返し。マネージメントまでやっていたら、作家活動はとても出来ない。

[質問者5] 卒業生とNPOを立ち上げているが、拠点の世田谷区は何もない場所なんだと分かった。そういう場所でやっていくアートの可能性はあるのか。

 可能性はいっぱいあると思う。あるけれど、それが地域に定着するか。日本でアートマーケットや町おこしなどあるが、現実として定着していない。もう1つ思うのはそういう時に街の中にいる人が手伝っていない。誰が中心になっているかというと大学。大学や予算がとりやすいと思いますが、どれくらい地域に根ざすか分からない。イベントを続けていく事も大事だが残らないですよね。


[質問者5] 残らないし、いろんなものがありすぎて、やっているということ自体に対する周囲の反応が悪い。

 悪いと言うより、それが普通だと思いますよ。デュッセルドルフにいて、ヨゼフ・ボイスの事を地元で良いと言う人はいなかった。ボイスが住んでいる所なんてデュッセルドルフで一番の高級住宅地ですよ。それで「全ての人がアーティスト」だなんて言っているんですから。今まで美術が町おこしになったのかと言えば、例えば天理教が今は市になっている。宗教がかった人がいたか分からないが、芸術が生活と結びつくシャーマニックな部分、そういうところも考えなければいけない。

[質問者6] そのシャーマニックなものとアートとの関係性はありますか。

 あると思いますよ。ドイツの歴史の中ではキリスト教が世俗化した中で美術のシャーマニズムを考えていて。それをボイスはやってきたのだと思う。

[質問者6] そう考えると、アートというか、根本的な性格にそういう一貫性というか、収束する性格に始めから見出される事、恒常的というか制度的に見られてしまって、シャーマニックな力というのは失われていってしまうんじゃないかと。

[質問者3] そういう問題は10年ごとに言われるんじゃないか。シャーマニックな祝祭空間が必要なのでは。

[質問者4] 今はポピュラーアートが求められているのでは。だからマーケットが祝祭を要求するのは同じなのではないか。現代美術のジレンマは資本にNoと言いながらお金をもらっている。ボイスは完璧に上手くいっている。拒否するならばバカと思われてもやる。それくらいの覚悟がないと。

 シャーマニックなものというのは、かなり作品の中にあると思う。近代というのは呪術的なものを排除して合理的になったというが、そういうものが消えてなくなっていないとモースは「贈与論」に書いている。「贈与」という古い制度がヨーロッパの中にあると書いているが、やがてその中に原始社会、ゲルマンとかヨーロッパとか日常生活に贈与する形式が今よりお互いの良い信頼関係を作る。その形式があって、芸術活動の足場があるように思う。ご存知かと思いますが、贈与は敵対する気持ちをやわらげ、1つのつながりが出来、共通の幻想が生まれる。鳥の首飾りを仲介にして共通の文化を持つことを実感している。

[質問者4] 贈与は特殊な交換物。近代的な芸術観が純化したのはそれがある。一番典型的なのはカントで実用的な価値観から離れている。他の有用性は全然ないけれど、そういった機能は近代美学とさほど関係ないし、かなりの格差がある。
 白川さんには美学的に言うと、贈与論的なものと近代美学的なもの、構造的に似ているにもかかわらず、やはりどこか近代的美術制度にアンチがあって、もう1点が非有効的なネガティヴな意味の現代美術の中で尺度が拡散する中で、自分たちの活動の尺度を広げられるのか。

 近代美学と贈与の形が似ていると、抽象的に移行するものを形にしている。確かに近代のカントとかああいうものだと純粋な形でいくと、どちらにしても共同幻想である。カントの近代理論の抽象的だけど、ある種のリアリティというか、物質的な実感がある。そういうところに関わろうとすることで、極端なことを言えば抽象はどうでもいいと居直ってしまうところがある。
 もう1つの尺度が拡散していくかは、それは難しい。公的なお金を貰う時に客観的な基準があるようでないが、通常は実績など有名な人で示す。「本当の基準は?」と言えば、誰もいない。絶対的な基準なんてありません。どういう風に動いていくかというと、私はここまで(首の所を示す)つっこんで、技能と実践のアーティストになっている。絶対的なアーティストがいればいいけれど、誰も証明できないし、掲示できないですよ。ある種の力のバランスで認めないながら、どういう風にやっていくのか向こう側の多くの人がそうじゃないと言っても、私はやりますけれど。

(記録/web complex編集部)

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