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限界芸術の現代

福住廉(現代美術/文化研究)

 鶴見俊輔がおよそ50年ほど前に着想した「限界芸術」という概念を、21世紀の現代に定立しつづけること―― 。わたしがギャラリーマキでの連続企画展で企んでいることを簡潔に言い表せば、こうなる。もちろん、こうした理論的な関心が先立っていたわけではなく、企画展の出発点にはハリガミマンガという訳のわからない表現活動への並々ならぬ興味と敬意があり、それらをさしあたって展覧会の枠組みに規定する必要に迫られたとき、たまたま限界芸術という言葉が好都合だったというのが正直なところだ。だからここで書こうとしているのは、「21世紀の限界芸術」などと大風呂敷を広げた後の辻褄合わせにすぎないのだが、とはいえその一方で、半世紀も前の思想言語をわざわざ持ち出すことが時代錯誤の酔狂にすぎないかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。

 限界芸術に今日的な意義があるとすれば、それは芸術概念の基盤である社会状況の変化に対応していなければならない。鶴見のいう20世紀の限界芸術はマス・コミュニケーション時代の到来とともに決定的となった純粋芸術と大衆芸術の分裂を前提としていたが、21世紀の現在は、純粋芸術を正統化するはずの公立美術館がなりふり構わず大衆化しているように、むしろ純粋芸術と大衆芸術はたがいに溶解し、その不確定な外形を辛うじて芸術概念と呼んでいるのが現状だと診断できる。この分裂から溶解への転換がグローバル資本主義によるものであることは明らかだが、資本主義に反抗する準拠点としての外部をもはや仮設し得ない以上、問題の焦点はこの現状の内部で、いわば資本芸術をどのように書き換えていくことができるのかという点になる。こうした不安定な状況は、芸術を信じる者にとっては切迫した危機なのかもしれないが、芸術そのものを疑う者にとってはある種の好機である。すべてが根こそぎ資本に飲み込まれて行く絶望的な光景を前にして、前者はこれまでの芸術の牙城を再建しようと躍起になり、後者はこれからの芸術を夢想する。その「別の芸術」を手繰り寄せるための道具的・方法的な概念として依然として有効だと考えるのが、限界芸術という視座にほかならない。

 このように書き表すと、いかにもユートピア的なニュアンスが色濃くなりがちだが、「もうひとつの芸術」概念を想像することは、実のところ限界芸術の可能性の中心だったはずだ。鶴見が限界芸術という仮説概念によって直接的に示したのは、純粋芸術と大衆芸術を相対化するための具体的なヴィジョンだったが、それはたんに芸術の(ための)メタ理論を提起しようとしたのではなく、「芸術の意味を人間生活の芸術的側面全体に解放する」ことによって、一般的な芸術概念をオルタナティヴな方向に変容させていこうとする試みだったと考えられるからだ。だからといって、これはたんに芸術の価値を日常に消散させることではない。「思想の科学」や「声なき声」、そして「べ平連」にいたる一連の活動のなかに限界芸術をとらえるならば、それが人間を疎外する芸術概念を再び自分たちの手に取り戻す、きわめてプラグマティックなプロジェクトだったことがより一層明確になるはずだ。だが、あらゆる価値が等しく等価に記号として消費される現在の高度情報社会において、とりわけそのなかの現代美術というアートシーンにおいて、限界芸術というレトロな概念がまったくといっていいほど参照されていないことは、このプロジェクトがいまだ未完のまま残されているということを示唆している。それが敗北なのか頓挫なのか、あるいは休眠なのか、正確なところはまだわからない。いずれにせよ、21世紀の現代に限界芸術を再開するにあたって必要なのは、20世紀の限界芸術の歴史的系譜を遡行することで、その未完の要因を探り出すことである。

 とはいえ、すぐに思い知らされるのは、純粋芸術と大衆芸術よりも広く人間の生活全体にありながら、しかし生活の様式でもあり芸術の様式であるという限界芸術の特質が、その歴史的系譜をたどることを著しく困難にしているということだ。純粋芸術であれば、その歴史は美術史として学問的に正統化され、物理的にも美術館が美術作品として丁重に保存しているため、ひとつの歴史として俯瞰することはたやすい。それほど制度的ではないにせよ、今日のデジタル情報社会にあっては、大衆芸術の歴史も事情はほとんど変わらないと言っていいだろう。だが、ハリガミマンガが実に短命であることからもわかるように、限界芸術にはそれ自体を自立的な価値として残すという発想が基本的にない。そのため、その歴史をたどるには純粋芸術なり大衆芸術、あるいは他の文化領域の歴史から逆照することを手がかりとするほかない。つまりさまざまな既存のジャンルの歴史の影が重なり合う暗闇のなかから、逆説的に限界芸術の歴史を浮上させなければならない。ハリガミマンガを限界芸術として位置づけたとき、その歴史的系譜は、おそらく美術にも漫画にも広告にも、さらには都市論や民衆文化論にも求めることができるだろう。それらは直接的な起源では決してないにせよ、構成要素のひとつであることにちがいはない。バラバラに飛び散った破片を拾い集め、複合的にとらえることではじめて、限界芸術の歴史性が把握されるのだ。

 純粋芸術と大衆芸術に通底する限界芸術の広大な領域のなかから大衆芸術を糸口とした場合、さしあたって今和次郎の考現学を基点として、そこから後期の石子順造を経由し、赤瀬川原平らによる「超芸術トマソン」「路上観察学会」にいたるラインを引くことができるし、さらにこの末端に都築響一の現在の仕事を接続することもできるだろう。実際、鶴見の限界芸術論は民衆文化に重心があり、それとは対照的に純粋芸術には一切触れていないことを考えれば、大衆文化路線に沿って限界芸術の歴史を洗い出すことは本義にかなっていると言える。けれども、たとえば都築響一の精力的な活動が純粋芸術との差異を強調するあまり、純粋芸術とは無関係な大衆芸術としてみなされているように、大衆文化に比重を置いた限界芸術論は、純粋芸術と大衆芸術をともに相対化するというより、たんに両者の断絶を再確認することに終始しがちである。ここに純粋化を志向してきた20世紀の美術の働きが大きく作用していることは明らかだが、限界芸術が純粋芸術と大衆芸術のいずれにも通底しているのであれば、当然、純粋芸術のなかにも限界芸術の影が残っているはずだ。純粋芸術が排除し抹消してきた限界芸術の痕跡をひとつひとつ丁寧に掘り起こしていくこと。限界芸術の歴史性をたどるにはこの手つかずの領域を切り開いていくほかないのではないだろうか。カルチュラル・スタディーズによる芸術分析がしばしば「没価値的」だとか「おおむね考現学」にすぎないと揶揄されるのは、純粋芸術がひた隠す不純性が暴かれてしまうことへの警戒感の現われだが、これにたいして考現学としての芸術概念を打ち出してみたところで、純粋芸術の側にその声は届かないだろう。そうではなく、言わなければならないのは、純粋芸術ですら、本来は限界芸術だったということだ。見極めなければならないのは両者が区別されていく過程であり、丹念に追わなければならないのは芸術概念の構成のされ方である。

 たとえば鶴見が限界芸術という言葉をはじめて活字にしたという、1956年。当時の美術をめぐる状況といえば、まっさきに思い起こされるのが、いわゆる「アンフォルメル旋風」を巻き起こしたとされる日本橋・高島屋で催された「世界 今日の美術展」だろう。宮川淳によれば、「アンフォルメルとは近代絵画とは明確に一線を画すべき戦後絵画の理念を意識的に追求しようとする最初の批評的な試みであった」。こうしたことから、同展以後、美術は美術の現代を模索し始めたといわれている。また、49年にはじめられた「読売アンデパンダン展」はこの年第8回目を迎え、これはちょうど戦後美術の大家が勢ぞろいしていた同展の前期とアンフォルメル以後の反芸術の傾向が前面化する後期の転換点にあたっているといってよいだろう。そして若かりし頃の赤瀬川原平が熱風に吸い寄せられるかのように、同展への出品を決意したのもこの年のことだった。つまり限界芸術という言葉の誕生は、戦後美術にとって決定的に重要な時機とほとんど重なり合っていたのである。このことはたんなる歴史の偶然を越えて、次のような仮説を導き出す。すなわち、限界芸術と戦後美術は1956年の時点で奇妙に交差し、その後何らかの要因よって再び乖離していったのではないか――。

 この時代の反芸術、とくに読売アンパンをめぐる記憶を世に知らしめた名著『反芸術アンパン』には、純粋芸術の歴史には決して残らないが、当事者たちの脳裏にはしっかりと焼きつけられている記憶の残像が記されている。そこで赤瀬川は、彼の体中を湧きたてたという読売アンパンの熱気が、表現上の「変質者」たちによるものだったことを指摘している。「町内に必ず1人2人いる、やや変質的な奇行のあるオジさん、という感じのアレである。(中略)そういう「変質者」というのは、看板屋にもいるし、小学校の先生にもいるし、トラックの運転手にもいる。ただの物好きの範疇にはいるから、ふつうの美術評論家などには相手にされない。ところが「変質者」の方も、美術評論などは全く相手にしていない」。こうした表現上の「変質者」たちがどの時点から読売アンパンに出没していたのか、正確にはわからない。前期から紛れ込んでいたのかもしれないし、後期にも残っていたのかもしれない。だが、何より興味深いのは、美術であることを意識しない、あるいは目指さない、たんに酔狂で変なことをやりたがる「変質者」と、街角にハリガミマンガを貼りつけながら歩くガンジ&ガラメの姿が重なってしまうということだ。つまり赤瀬川がいうところの表現上の「変質者」こそ、限界芸術の担い手だったのではないだろうか。さらにいえば、赤瀬川がこの「変質者」を最終的には自己破壊にまで至った反芸術の奔流の先駆けとして位置づけていることを考えれば、56年前後の同展には、限界芸術と純粋芸術が未分化のまま同居しており、この混淆状況を直接の起源として反芸術が生じてきたのである。

(2005年11月10日)

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