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広辞苑によると〈美術〉は・・・(全3回)
第3回 美術辞典としての『広辞苑』(2)

足立 元

広辞苑によると〈美術〉は・・・(全3回)
第2回 美術辞典としての『広辞苑』(1)

足立 元

広辞苑によると〈美術〉は・・・(全3回)
第1回 「美術」、「芸術」とは何か

足立 元

2009年04月02日

広辞苑によると〈美術〉は・・・(全3回)
第2回 美術辞典としての『広辞苑』(1)

足立 元

美術辞典としての『広辞苑』

 今回からは、『広辞苑』第六版が美術辞典としてどのような規模と性格を持っているのかを探っていきたい。前回にも述べたが『広辞苑』は、単なる国語辞典ではなく、百科辞典としての機能も備えた中辞典である。岩波書店の広告によると、第六版では1万項目を新たに収録し、総項目数は24万語にも及ぶ。美術分野の用語だけでも相当な情報量を持っているおかげで、『広辞苑』第六版があれば、美術のことでもちょっとした調べ物はすぐにできる。実際に筆者は、変換ソフトATOKに対応した「広辞苑第六版」をインストールし、画家の生没年や団体の成立年などを瞬時に調べられるようにした。これは非常に便利なので美術史関係の読者諸賢にはお勧めしたい。
 さて、『広辞苑』第六版巻末の協力者一覧を見ると、美術史関係の人名には、井出誠之輔氏、北澤憲昭氏、名児耶明氏、山崎剛氏、山梨俊夫氏の五名が並んでいる。このたび、協力者の一人である北澤憲昭氏に、この新版にあたっての意図を聞くことができた。北澤氏によると、第五版までの〈美術〉に関する項目数はおよそ2千2百項目で、第六版ではその一割にあたる約220項目を増やすことが当初の方針であった。北澤氏ら『広辞苑』の協力者に求められた作業は、第五版の内容の点検と校閲、第六版で新たに加える項目の「候補の選定」であったという。ただ、第六版で最終的にどの程度〈美術〉の言葉が増えたのか、正確な数字は確認できない。それにしても、欲を言えばきりがないのは承知の上であるが、今日急速に細分化しつつ拡がっていく人文科学や自然科学の動向を全て捉えるにあたって、『広辞苑』第六版が全体で1万項目の新しい言葉“しか”増やさなかったというのは、むしろ少な過ぎたのではなかろうか。
 さらに北澤氏によれば、美術分野でも多くの項目候補の中から絞り込む過程で、仕方なく落としたものも相当あった。特に、「国語辞典であることが基軸の辞書であることから、専門性の度合いは抑えざるをえなかった」という。そのため、編纂の方針として、「一般的、かつ他分野とのかかわりで文献に出現頻度の高いものから順に選んでゆく」ことが決まっていた。
 確かに、『広辞苑』では、一つ一つの項目の説明はだいたい60 字から160字前後に限られており、何かについて詳しい情報を知るにはあまりにも簡潔過ぎる(例えば徳川家康のことでさえたった256字で記されている)。専門の美術辞典などとは比較にならないものだ。しかし、にもかかわらず、『広辞苑』第六版には専門の美術史の本にもなかなか載っていないような項目がたまに載っていたりするのは、大きな矛盾ではないだろうか。あるいはそのような矛盾を「こだわり」と呼び換えるべきかもしれない。
 例えば、人名で新しく加わった呉師虔(ご・しけん)。これは美術史を専門にする人でも知らない人が多いと思われるが、もちろん『大辞林』第三版にも載っていない。『広辞苑』第六版には「琉球王朝時代の画人。本名、山口宗季(そうき)。王命により中国に渡って画技を学ぶ。1710年、絵師主取(ぬしとり)となり、王の肖像画制作に従事。(1672〜1743)」として紹介されている。第五版まで沖縄の画家が採録されていなかったところ、新しく呉師虔を入れたということは、単に一つの慧眼と評すだけでは済まない。呉師虔のような画家が広辞苑に新たに加えられたということは、日本・東洋美術史の領域が大きく拡張していく中で、私たちが既に美術史の授業などで習った知のバランスを新しく取り直す必然性に直面していることを表明しているだろう。
 これは『広辞苑』第六版の矛盾、いや「こだわり」のほんの一例である。呉師虔は近世の絵師だが、実際のところ、新しく加わった200件ほどの美術項目の多くは、日本近現代美術史の人名・用語だと見て良い。北澤氏は「『広辞苑』は、各時代を反映して編集が行われてきましたので、われわれも、この時代をできるだけ反映させたいと考え、現代美術系の増補を心掛けてきました」と述べた。「この時代」とは、『広辞苑』第五版が1998年に出てから、第六版が2008年に出るまでの、約 10年の時間である。逆に言えば、『広辞苑』に新しく加わった200件余りの項目から、この10年間の〈美術〉とはいかなる様相を示していたかが見えてくるのかもしれない。次に、『広辞苑』第六版の美術用語で何処が新しくなったか詳しく見ていこう。

『広辞苑』第六版に加わった人名

 原則として『広辞苑』に収録されるのは物故者のみなので、第六版に新しく加わった人名は、だいたい昭和の中頃までに活躍した人物である。その中でも私なりに大別すれば、重なるところも多いが次の三つに分類できようか。

(1)既に一般的に有名であったが、第五版までなぜか収録から漏れていた人物
(2)美術分野以外での一般的な知名度は大きくないものの、新しく収録された人物
(3)1998年から2008年までの間に没した有名な人物

 (1)既に有名であったが、第五版までなぜか収録から漏れていた人物は、全く私の主観的な分類だが、次の人物が挙げられる(五十音順、以下同じ)。
 池田満寿夫、岡田謙三、小野忠重、駒井哲郎、小松均、杉山寧、高階隆兼、鶴岡政男、勅使河原蒼風、中井正一、野田英夫、林忠正、松岡寿、柳沢淇園
 まず、中井正一は、美学の分野にとどまらない大きな仕事をした人物であり、『広辞苑』第五版まで収録されていなかったことは驚きである。林忠正は、近年ますます盛んになりつつあるジャポニスム研究においてその名を欠かすことの出来ない人物である。そして、勅使河原蒼風は、一時期は岡本太郎に並ぶほど一般ジャーナリズムでの有名芸術家だったのではないだろうか。池田満寿夫もしかりである(ただ池田は1997年に没したため、第五版のときは作業中で載らなかったのかもしれない)。上記の他の美術家たちも、美術のみならず、時代の象徴としてしばしば取り上げられることがある。上記の人物を入れたことは、第五版までの欠陥をある程度正したと言えるだろう。
 しかし、『広辞苑』第六版が『日本近現代美術史事典』(東京書籍、2007年)のような近現代専門の美術辞典に掲載された人名を全て網羅したわけではない。さらに、特に近代建築史関係の人名があまりに少ないなど、第六版でも不足や偏りがあるのも事実だ。もっとも、改めて言うまでもないが、辞典とは「大きさ」対「充実度」という相反する要素から成り、全てにおいて完璧な辞典など存在しえない。こうして何かの方針に沿って改訂し続けることによってのみ、辞典の精度は上がっていくのだろう。辞典とは、改訂されることを通じて成長する、長い寿命を持った生き物として捉えるべきなのだ。逆に言えば、改訂を前提としない辞典は寿命にトドメを刺されたようなものである。

 (2)美術分野以外での一般的な知名度は大きくないものの、新しく収録された人物は、先に挙げた呉師虔のように、おそらく美術史を専門とする校閲者たちの何らかの「こだわり」が反映されているだろう。
 岩村透、瑛九、奥原晴湖、オノサトトシノブ、桂ゆき、菊池一雄、呉師虔、合田清、佐藤朝山、新海竹太郎、清水登之、田村宗立、鳥山石燕、長沼守敬、百武兼行、安田雷州、安田龍門、柳原義達、山本豊市、山口長男、結城素明、横山松三郎
 このあたりの人名は、まさにこの10年間の美術史研究の動向を反映していると考えられる。明治の美術史家・岩村透は、最近研究書が出版されつつも東京都美術館での「アーツ・アンド・クラフツ展」ではすっかり無視されたが、既に『広辞苑』に収録されるほどには西洋美術導入の仕事が評価されていることが分かる。清水登之は1996年と2007年に大きな回顧展が行われ、美術史上での評価も揺るぎないものに変わったであろう。また、佐藤朝山、新海竹太郎、安田龍門、柳原義達、山本豊市、といった彫刻家が新しく加えられたのは、絵画偏重であった〈美術〉への反省から、近代彫刻史への関心の高まっていることが現れているのであろうか。
 こうした言わば「新しいバランス」への志向は、第六版の至る所に見て取れよう。ときに振り子のような勢いすら感じられる。田村宗立、百武兼行、安田雷州といった明治の絵師・画家が加わる一方で、瑛九、オノサトトシノブ、山口長男といった昭和の前衛画家が加わっている。そして、女性の前衛美術家として、桂ゆきが加えられたことは、ここ10年のジェンダー意識の高まりを反映した可能性が高い(にもかかわらず、山下りんが収録されていないことは玉瑕であるが)。最後に、美術の分野ではないが、人形師の松本喜三郎が収録されたことは、2004年の回顧展の反映であろうし、工芸と彫刻、近世と近代のあわいへの関心の高まり故だろうか。
 
 (3)1998年から2008年までの間に没した有名な人物は、上記②と重なる部分も多いが、ここに並ぶ人名を見ていると、過ぎ去った10年間の間に、どれだけの人物が喪われたかを想わずにいられない(五十音順、カッコ内は没年)。
 岩橋永遠(1999)、小倉遊亀(2000)、加山又造(2004)、斉藤義重(2001)、浜口陽三(2000)、東山魁夷(1999)、堀内正和(2001)、村井正誠(1999)、若林奮(2003)
 これらの多くは、「一般的、かつ他分野とのかかわりで文献に出現頻度の高いものから順に選んでゆく」といった方針に沿って選ばれたのだろう。ただし、その方針とは明らかにズレそうな人名も散見される。例えば斉藤義重は、確かに美術史上では重要人物で、新聞でその死は大きく報じられ、回顧展も開かれたが、実際のところ美術以外の分野の文献でその名前を見ることがそんなにあっただろうか。むしろ、そんなところに美術というジャンルの閉鎖性を思うし、ここにも「こだわり」の反映が見られよう。
 そして、過ぎ去った10年の間、もっと多くの人物が喪われたのではないかと思われるが、早く逝った死者たちの中でこの時点で彫刻家の若林奮を収録したことも、校閲者が美術史家として先見の明を賭けた「こだわり」にちがいない。死後、『広辞苑』に名を遺すことにそれほどの栄誉があるのかどうか。だが、死者の名をこのような日本(語)の知的スタンダードの中に組み込むことは、ひとつの追悼にとどまらず、いつか誰かがページを繰り、キーボードを叩く中で、幾度も魂を甦らせることをも意味するのであろう。(足立元)

(つづく)

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