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「イタリアの印象派 マッキアイオーリ」

中島水緒(美術批評)

まずは一枚の絵から始めてみたい。
横長の小さな画面に描かれるのは、白や焦茶色の四角いブロックである。それらは少し斜に構えたかたちで互いにもたれ合い、どこか屋外らしき場所で横一列に並んでいる。前景に施された褐色が乾いた土の印象を喚起するものの、その面は大まかな筆触で素っ気なく描かれており、ブロックの屹立を支える基底としては何とも頼りない。あたかも描写の過程をそのまま露わにする絵具層の切断面のようである。画面の右下から浸食する植物系の緑がなければこの前景を大地と思うことはないかもしれない。後景には後ろ姿の人物が添えられているが、描かれた事物の大小関係は曖昧で、ほとんど抽象的な形態に還元されたブロック群は卓上に並ぶ箱か何かにも見える。
この場所に降り注ぐ太陽の光は真昼のそれのように強い。辺り一帯を隅々まで可視性のもとにさらけ出そうとする明晰で一様な光。しかし何もかもが明るみのうちに引きずり出されるわけではない。ブロックの幾何学的な形態を構成する複数の面が、光を様々な明暗の階調へと分節するからだ。隣接するブロック同士が互いに投げかける影、暗部にも見出される太陽光の明るさ、熱で溶かされたようなハイライト。味気なく淡泊な光景のなかで、のっぺりとした色面に翻訳された明暗だけが唯一のドラマを演出する。ラフな筆触でヴァルールを正確に捉えるその画面は、水差しや瓶といたオブジェを様々に組み替えながら光と影のバリエーションを探求した、ジョルジョ・モランディの静物画を想起させる。
しかし実際にこの絵が描かれたのは、モランディが生まれる1890年より数十年遡る1861~62年のことである。作者の名はジュゼッペ・アッバーティ(giuseppe abbati)。ナポリ出身のこのイタリア人画家が描いたのは、修復中のサンタ・クローチェ修道院の中庭であり、具体的な造形を施されぬまま欄干の手前に放擲された大理石の塊であった。かたちへの可能性を潜在させた生の素材としての大理石は、どういうわけか画家の目を惹きつけ、ラフな筆致による明暗把握へと向かわせたのだ。
絵のタイトルは《回廊の内部》。東京都庭園美術館で開催された、「イタリアの印象派 マッキアイオーリ」展の出品作のひとつである。

しばしば西洋近代絵画史の革命の歴史はフランスを主流に記述されてきた。たとえば19世紀においては、革命的な出来事の最たるものに印象派の画家たちによる実験を挙げることができるだろう。一方、19世紀のイタリア美術と言えば、ルネサンス盛期の華やかさや革新性は見る影もなく、あたかも空白の時代であるかのように近代西洋絵画史の傍流へと押しられている。
これには当時のイタリアの社会状況が大きく影響している。1860年の国家統一に到るまで、イタリアは複数の地方国家に分裂し、その一部はフランスやオーストリアの支配を受けてきた。政治上の混乱はヨーロッパの他国とは比較にならないほどの文化的な遅れをイタリアにもたらす。情報の伝達を妨げたのは交通網の不整備であったが、何よりも山脈の多い地理的条件が、たやすく越えることの出来ない絶対的な現実として地方国家間に立ちはだかっていた。
しかし地方性によってこそ育まれたイタリア独自の美術運動が19世紀の半ばに存在する。それがフィレンツェを発祥の地として起こった「マッキアイオーリ(macchiaioli)」だ。
マッキアイオーリの語源は、「斑点」「染み」を意味する「マッキア(macchia)」。画家たちが自然光の効果を表現するために用いた色の斑点について、新聞評が否定的な意味で「マッキア」と呼んだのが始まりである。運動は1850年代の中頃から始まり、リソルジメント(国家統一運動)や独立戦争の気運と相俟って、市民生活に根ざしたリアリズムを指向した。急進的な思想を持つ若き画家たちはフィレンツェのカフェで議論を交わ合い、反アカデミズムを標榜することになる。

ところで今回の展覧会名に「イタリアの印象派」と銘打ってあるが、これは日本ではマイナーな流派であるマッキアイオーリを喧伝するためのキャッチコピーと見做してよいだろう。実際には印象派との影響関係は希薄であり、パラレルな動向ではなかったことに留意しなければならない。
そもそもバルビゾン派風のリアリズムから離れることのないマッキアイオーリの画面に、自律へと向かう筆触を見出すことはできない。「マッキア」は印象派における筆触のように画面全域を等価に覆う単位ではないのだ。展覧会を概観しても、「マッキア」は画家の解釈によって様々にあらわれている。ある画家は生の絵具をピンポイントに施し、点景の要素を遠目に見たときの視覚効果さながらに表現する。また別の画家は、「マッキア」の源流を16世紀ヴェネツィア派を代表する画家、ティツィアーノの画法にまで遡り、制作の過程をそのまま提示するような下絵風の描法を採用する。これらの作品群は、19世紀末に北イタリアを中心に興った分割主義(ディヴィジョニスモ)やフランス印象派の筆触分割ほど手法が煎じ詰められることはなく、不徹底の印象も否めない。1860年の国家統一以降、画家たちのあいだで共有されていた理念が拡散したことも、マッキアイオーリの解釈を難しくさせる要因のひとつだろう。
だが、発展途上の段階にあるようなその造形性は、当時のトスカーナ地方が直面していた状況の何らかの徴候にも思える。とりわけリソルジメント以降、それぞれの画家が独立運動との結びつきから次第に離れていく展開に、リアリズムの位相の変化が見出されるのだ。

一例として、運動の中心人物のひとりであるジョヴァンニ・ファットーリ(giovanni fattori)を挙げたい。
青年期には政治組織の一員として働き、愛国的な主題やロマン主義調の歴史画を手掛けていたファットーリにも、1860年代初頭のイタリア国家誕生の前後から転換期が訪れる。画家が新たに向かったモチーフはフィレンツェ郊外の田園風景だ。ひたすら平坦な広がりを提示する草原、働く農民の姿、無人の牧草地で荷台を牽く家畜たち――。何でもないような風景の数々は、一見したところ政治性が払拭されたかに見える。おそらくこうした転向は、国家統一後も改善されない経済状況や政治への幻滅、中央の動向が伝わらない「取り残された地方」の状況と無縁ではないはずだ。
一方で、こうした田園生活と対照を成すのが、フランス軍の兵士たちをモチーフにした作品群である。オーストリアの侵攻を防ぐためにフランス軍がトスカーナ北部のリヴォルノに上陸したのは1859年のこと。国家統一後も兵士をモチーフに描き続けたのはマッキアイオーリの画家たちのなかでファットーリ一人だったが、出来事の歴史性や軍隊のヒロイズムを強調するスペクタクルなイメージは、そこでは周到に避けられている。
画家が描いたのは、カシーネ公園にテントを張って野営する兵士たちの休息中の様子であり、あるいは単調な巡察の仕事に携わる歩兵たちの孤独な姿であった。「無為」や「倦怠」の光景が、戦闘の場面を主題とする歴史画に背反するかたちであらわれたのである。

今回の出品作で言えば、1872年の《歩哨》がその系統に当たる。照りつける太陽の下、馬にまたがって巡察の仕事に従事する3人の兵士たち。人物以外にあらわれるのは、地平線に向かって収束する白い道、後景を遮る白い壁、そしてぬけるような青空のみだ。日常のひとコマを無感動に切り取ったような光景だが、政治からの遠ざかりは主題面だけに限らない。
この絵から伝わる奇妙な感覚は、画中の要素が書き割りめいた平板さをもって組み合わされていること、そして何よりも、主題と無関係に迫り出してくる前景の地面の異様な存在感に起因する。小石混じりのゴツゴツした起伏を孕みながらどこかへと続く小道、ほとんど整備されず更地にも近いこの地面は、歩兵たちにとっては抵抗体として生起する第一の現実であり、経験の固有性を条件づけるすべての基礎となるだろう。ファットーリは微細な色調差と筆触のニュアンスによって、端的に「地形」を表象することに意識を注いでいるように見える。またイタリアの強い光を存分に喚起させるため、そこでは空漠とした白さが要請されている。
光の媒介項としての白い道。画面の大半を占拠するその空虚さ。そして主題に回収されない「余剰」としての前景=地面は、何かのイデオロギーを表明することへの否認を背後に潜ませているように思える。

大きな迂回を経たところで、冒頭に挙げたアッバーティの《回廊の内部》に戻ろう。
光と影の研究に専念しているように見えるこの作品も、当時の社会状況がまったく関係してないというわけではない。折しも《回廊の内部》が描かれた1860年代の初頭とは、フィレンツェの教会の修復運動が進められた時期である。イタリアの歴史遺産を保護しようとする運動の背景には、リソルジメントと深く関連する愛国主義の思想がある。こうした文脈を顧みるならば、アッバーティが修復中のサンタ・クローチェ修道院から何らかの象徴性を読みとっていたことは想像に難くない。
これを、再現性の希薄な未完成風の画面で表象するということ。
一見、抽象への接近とも受け取れる画面は確かに現実に対するメッセージをダイレクトに伝達するものではないが、切り出しの大理石のもの語らぬ表面は、逆説的にも「何も語らない」というひとつのステイト(状態)を伝達する。内部のなかに外部が取り込まれる中庭において、大理石のフォルムはおのれの沈黙を外界へと開くのだ。アッバーティの絵画におけるこのような振る舞いは、単なる見かけ上の類似を超えて、2つの大戦を通過しながら自室に引きこもって静物を描き続けたモランディの態度へと隔世遺伝したのではないだろうか。

やがて19世紀末にはマッキアイオーリも鳴りを潜め、代わりに象徴主義を背景にもつ分割主義がイタリア北部を中心に台頭するようになる。マッキアイオーリが美術史家や画家たちによって再評価を受けるのには、20世紀に入るまでしばらく待たなければならない。
近年、海外で展覧会が開かれるなど再評価の兆しが見え始めた中、日本でも30年ぶりにマッキアイオーリを紹介する機会が訪れたのは喜ばしいことだ。足かけ3年にも及ぶ準備期間を経たこの展覧会が、19世紀美術の再考に投げかける意義は極めて大きい。
西欧の近代化の流れから少し離れた場所にありながら、マッキアイオーリの画家たちは光と向き合うことで独自のリアリズムへと漂着した。その造形性は必ずしも洗練されているとは言えないかもしれない。しかしいくつかの注目すべき作品が、過渡期を通過したイタリアの生のドキュメントと成り得ているのは確かである。言い換えればそれは、現実に対して芸術作品がどのような構えを成しうるのかという問いに対しての、ひとつの回答でもある。

 

「イタリアの印象派 マッキアイオーリ」
東京都庭園美術館 1/16 - 3/14
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/macchia/index.html

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