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フィグラマ07

山本 瑞 (フィグラマ展出品作家)

 人体のデッサンが壁一面にずらずらずらと並んでいる光景を思い描いてもらいたい。一言で表すならば、Figurama展とはそのような展覧会である。チェコ国内各地方の美術大学を中心とし、他6か国の美術大学が参加する、学生と、その指導者である教授、助手、講師達による、人体(figure)をテーマとしたパノラミックな展覧会だ。FiguramaとはFigureとPanoramaを組み合わせた造語なのである。

 ブルノ工科大学建築学部(VUT)の前講師で、アーティストでもあるカレル・ポコルニーと、プラハ芸術アカデミー(AVU)の教授であり前学園長のボリス・イルクの呼びかけにより集まったVUTとプラハ建築・デザインアカデミー(UMPRUM)の学生たちによって第一回展が開かれたのが2001年、チェコ第二の都市ブルノ近郊のズノイモにおける開催であった。その翌年に、ウィーンの応用芸術大学をゲスト校として迎えて以降、学生と教授の働きかけにより、参加校は年々増して、第7回目となる今回の展覧会には、チェコ、オーストリア、ポーランド、スロヴァキア、ドイツ、アメリカ、日本の7か国、全11校もの美術大学が参加している(そのうち5校はチェコ国内の大学)。また、アメリカと日本を除く各国、各地域を巡回した。

 437ページに及ぶ今回のカタログには、AVUのイリー・リンドフスキー(Jiri Lindovsky)が”Is it possible to teach(教えることは可能か)?”という序文を寄せて、芸術を教育するということの意味、必要性、アマチュア作家(学生)の可能性、美術におけるデッサンの重要性、そして、絵画の基本である人物像を描く事をどのように教えるか・・・・などについて論じており、ここに、この展覧会のもうひとつのテーマを見つけることが出来る。

 さらに、各国の教師たちには、以下の10の質問が事前に行われ、その回答もカタログには掲載された。


1、描くことは、サッカーをするようなものです。なにか特別な環境や道具が必要ではなく、サッカーが必要とするのは、ボールと平らなスペースだけです。 鉛筆と紙のきれっ端があれば絵を描くことができます。そしてそれすら必要とすることなく描く事もできますし、誰でも試すことができます。紙だけが、絵を表現する素材ではありません。どんな物に表現されているものを見てみたいですか?また、どんなテーマを望みますか?

2、(人体デッサン)というのは、人間をモデルにして人体を描くことを意味しています。何故私たちは(人体デッサン)と同じように動物を対象にしないのでしょうか。 人間を描くのと比べると、動物を捉える(捕える)のは、人体よりも難しいことですか?それとも、とても簡単なことですか?

3、(人体デッサン)という単語が表現しているのは、ただ人間の体というだけでなく、多くの場合、裸の人間であるということも意味します。着衣の人体よりも裸体を描くことは簡単ですか?

4、人体を描く事と、肖像を描く事の関係は如何?どちらを好みますか?それは、なぜですか?

5、あなたは人体の、どの部分を描く事がすきですか?また、その逆についても、お答えください。

6、あなたは誰を描きたいですか?人体デッサンのモデルとして誰を望みますか?

7、あなたはどのような絵がすきですか?あなたの部屋の壁にどのような絵を掛けますか?また、その理由は?

8、あなたの一番尊敬する絵描きは誰ですか?それは、なぜですか?

9、あなたの学生時代、芸術のクラスでうけた最悪の点数と評価を覚えていますか?最悪の評価と、最悪の批評、それは、どのような絵でしたか?

10、そして、最後に、質問というよりは、お願いです。あなた自身の肖像画を描いてください。もしくは、あなたの学生にあなたの肖像画を描かせ、次のFiguramaのカタログに使わせてください。(自分の肖像画は存在するのに、自分を描いた人体デッサンは通常存在しないということは、とても面白いことです)


 このユニークな質問は、指導の在り方にこそ触れられてはいないが、人体やデッサンについて、どのような考えを持っている人物が学生の指導にあたっているのかを知る一助とはなるだろう。

*

 Figurama’07プラハ展は、2007.10.30-12-31と約2ヶ月間、3会場をもって催された。メイン会場となったのは、プラハ中心部に程近い警察博物館の2階である。名前の通り、ここはチェコ警察の歴史、活動等に関する博物館である。これ以外に、AVUとUMPRUMの校内に会場が設けられたが、プラハ展が3会場に及んだのは、作品数が膨大だからである。

 カタログで数えてみると、学生の作品数だけでも240点近くあり、さらに各国の教師達の作品も加えると、その総計はかなりの数になる。三つの会場をもってしても、その半数も展示できなかったのではないだろうか。じっさいカタログ上でしか見られない作品が多く存在するのである。

 ざっと見て、会場に展示されたデッサンの8割は紙に描かれた作品であったが、アプローチの方法は紙に鉛筆や木炭で描くやり方にとどまらない。絵具を用いたものもあるし、立体、写真、映像など多岐に渡る。

 メイン会場の中心となる第一室目には、開催国であるチェコの学生の作品が並ぶ。両の壁にぎっしりとほぼ同寸の紙が天井を横切るパイプからぶら下がっている。同じ室内には、立体作品も点在しているのであるが、視線はつい、上部の紙群に奪われてしまう。何しろ紙が大きいのだ。畳一枚分以上もあるのではないだろうか。他国の作品にも大きなものがあるが、チェコの大学のデッサンは殊更大きく、中に描かれる人体(モデル)は実物大、もしくはそれを上回る程だ。紙は薄く粗悪であり、人が通る度に風でゆらゆら揺れる。日本ではありふれていれている木炭紙、画用紙、ケント紙などは見当たらない。大きいことが魅力と言い切ることはできないが、巨大さにより、デッサンの存在感が強調され、視線を惹きつけるのは確かである。

 かつてプラハに滞在した山本直彰先生によると、この大きな紙に描くデッサンは、15年前にはすでにプラハの美術大学の通常の授業で実施されていたようである。実際に我々もプラハ滞在中にデッサンの授業に参加したが、学生達が自身の背よりも高い板を立て、それにより狭くなった視界から覗くようにモデルを見つけていたのは印象的な光景であった。

 この部屋の入り口に立てば、チェコの学生のデッサンを一望できるわけであるが、チェコ国内の大学だけでも、デッサンの系統には随分と違いが見られ、各々の指導方針を目の当たりにすることができる。

 アカデミックな作品が目立つのはAVUである。ここは日本で言うところの東京芸術大学であり、造形美術専門の大学だ。描写することに重きを置き、またその技術も持ち合わせているのである。

 一方、デザイン、建築、工芸を主な学部とするUMPRUMでは、顔だけが塗り潰されている作品や色彩の施されている作品が多く、また別のブルノ工科大学建築学部では、人体は立体のマス目状に構築され、建築学科ならではの指導がなされていると感じさせる。

 チェコの人体デッサンが巨大に感じられるのは、木炭紙の大きさに合わせて行われる日本のデッサンを見慣れているせいかもしれないが、今回の展覧会で最大のデッサンを出品したのはチェコの学生ではなかった。その出品者は、意外なことに日本人であった。わたしと共に和光大学OGとして、この展覧会に参加した吉竹昌子である。

 フィグラマ展は、そもそも中央ヨーロッパを中心とする学生主体の展覧会であるが、そこにわたしを含む和光大学の卒業生が参加することとなったのは、和光大学で日本画の指導にあたってこられた山本直彰先生のお誘いによる。学校単位で参加するのが規定であるが、先生の尽力と、先方のはからいによって花井このみ、山本瑞、吉竹昌子の和光大OG3名のフィグラマ展参加が許可されたのであった。

 展覧会で最大規模の吉竹のデッサンは、縦3メートル、横2メートルを超える巨大なもので、何枚もの紙を繋いだものであり、しかも、種類の異なる紙を貼り合わせたものだから、最初からかなり奇妙なものであり、頼りなさそうにみえながら、それゆえに表現性を帯びるような支持体であったが、それが海を渡り、ヨーロッパに辿り着いた頃には、幾筋もの折り目とシワが入り、さらに表現性の強いものになっていた。紙一面に描かれているのは、見上げる程の男の上半身であるが、人体は真っ黒く塗り潰されている為、一見すると男か女かの判別はつかない。墨、木炭、アクリル絵具、コンテ等々、あらゆる画材で塗りたくられ生まれたその黒い塊は他国の作品と比べ、大きさと共にまったく異質な存在感を放っていたと言える。頼りなげな紙の効果も相まって、まるで大きくなりすぎた事を嘆いているようにさえ見えた。

 花井このみのデッサンは、コンテの黒による勢いを感じさせる線で、人体の外郭を捉え、その内部も感じさせるものに仕上がっていた。印象に残ったのは、人間がボールを投げる姿を、いくつかの瞬間に分けて、それを線で追いかけるように一枚の画面に描いた作品であった。黒い線にはマジックインキが使われ、人体に糸が絡まったように見える。また、頭部と見られる円が落下してゆくように、いくつも重なっているようすが強い印象を残した。

 わたしは、彩色に日本画材の水干絵具を粒状のまま使用し、画面にそれをこすりつけた上に線を引くという手法を用いた。紙を床に寝かせて制作する為に、粉っぽい画面に、たくさんの手形や足跡が残った。これが作品にとって吉であったか凶であったかは、本人としては何ともいいがたいところである。

*

 われわれ3人は、デッサンの修練をじゅうぶんに行ってきたわけではなく、そのため、各々が模索しながら生み出した手法を披露することとなった。それは型にはまらぬ、ある異質な壁を作り出せた一方で、単色で描かれたものが多い他国の作品に比べ、色彩や線を散らかし、空気の読めない客人の集りのように見えるところがあったのも否めない。

 わたしたちの作品9点が展示された第2室には、同時にポーランド、スロヴァキア、アメリカの学生の作品も展示されており、前室のチェコデッサン群と比べ、全体的な統一感には欠けるが、各々の壁に、手法も国も異なるデッサンが配されている光景こそフィグラマ展らしいということもできるだろう。

 車椅子や買い物カートを人体と組み合わせた珍しいモチーフを使ったポーランドの美術大学のデッサンは背景の細部まで描写され、鉛筆や木炭の黒の濃淡が支配する画面には、暗く硬い雰囲気がただよっている。スロヴァキアのデッサンは、とても叙情的でアンニュイな空気が感じられる。一度、その制作風景を目にしてみたくなった。ドイツでは、ほとんどの作品に着色がされ、何も描かれていない紙の部分さえも色彩的な明るさを放っているように感じられた。

*

 学生たちの作品ばかり記述したが、教師たちのためには別室が用意され、ジャンルを問わずに展示がなされていた。ただし、こちらは人体デッサンという限定はなく、各自が本画を出品しているため、人体をテーマとしているかさえわからないものもなかにはあった。この部屋はただの作品展と化しているとも言える。これらの作品に至るまでにどのようなデッサンを行ったのかを見せてるのも一興であったのではないだろうか。

 デッサンとは基礎であり、訓練であり、作品を知る上での手がかりであり、つまり水面下に存在している物だという認識の人も多いだろう。それは間違ってはいない。しかし、デッサンとは何もまとわぬ生身の体のような、あるいは化粧を落とした顔のような直接的な表現であり、この作品の素顔とも言うべきデッサンが一堂に会するというのがこの展覧会の魅力となっている。さらに、学生達が国内外の大学の人体デッサンを目の当たりにし、他校で行われている指導を間接的に学ぶ機会ともなっている。とすれば、教師たちも、本作品ではなく、基礎である人体デッサンを出品することで、フィグラマ展を共同の指導の場とする工夫があってしかるべきであったと思われる。この点が残念でならない。

 序文を寄せたイリー・リンドフスキーもこう語る。「完成された作品では単に評価することしか出来ない。しかし、未完成であればあるほど、いかようにも変える事もでき、その可能性は拡がるのだ」と。

 教師たちへのアンケートを冒頭近くに掲げたが、それへの回答のなかから、山本直彰氏のものを最後に示しておくことにしよう。教師たちは、デッサンのかわりに言葉で、この展覧会の趣旨に応じたと考えることもできるからだ。


1.儚く滅び去るものを、風や水に描いたものがあったら見てみたい。しかし、私は消すことのできない紙の上に描く。

2.人間の皮膚には体毛がないから衣服を身にまとったのか、服を着たから毛が抜けたのか、どちらにしろ人間にとって人間を描くことは、無毛の猿を描くようなエロティシズムが根底にある。動物にそれはない。人間が最も興味ある不可思議な存在は、人間にこそあるのだ。

3.全裸の女性を描きながら欲情しない我々の不条理(absurd)、性的でありながら、それに敵対するかの如くある肉体の美。裸体には完璧な構造と調和を持つばかりでなく、人間が人間を描くということの矛盾を問いかけてくる。 答えのない永遠の作業である。

4.顔を相対化しなければ人体にならない。一方、肖像は顔に焦点をしぼり、顔と肉体の表現で人物の個性を表現しなければならない。

5.腰と膝の間を走るハイウェイである大腿。 その逆は歯。 しかし人体を描くことに、部分の好き嫌いはなく、同時にそれらを乗り越えようとすることに、意味と喜びがある。

6.あなた

7.私の寝室にはミケランジェロの彫刻「Pieta Rondamini」のコピーを貼っている。

8.Alberto Giacometti  ジャコメッティは私にすべての行為は消耗であり、空は空であることを教えてくれた。 それでいながら作品を創造し、残してしまう人間の矛盾、それを最も知的に、高貴に、そして狂おしく闘った画家であり、彫刻家である。

9、10は無回答。

a

b

c

d

e

f

  

   

(2008年5月掲載)


*ここに掲載した図版はFigurama展事務局より掲載の許可を得ています。
  画像をクリックし、拡大サイズにすると、図版下に作家名が表示されています。
  作家名の表示のない図版はa、bは吉竹昌子、c、dは花井このみ、e、fは山本瑞となっております。


[展覧会データ]
展覧会タイトル:Figurama07
会      期:2007年10月30日-12月31日
第一展示会場:チェコ警察博物館(プラハ)


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