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2009年02月21日
「自然哲学としての芸術原理」吉川陽一郎展

「私は考えていません」

今日の美術でそれを言う事は常に難しい様だ。だから美術は常に言っている。

「私は考えています」

建築家によって考えに考え抜かれた「街」の一角に、その展覧会場はある。「街」としてここは全くの無問題であるかと言えば、実際にはそうでも無さそうな気もするのだが、しかしそれらの問題も、建築家の「私は考えています」によって払拭出来そうな気にさせられる事もあるだろう。芸術家でもある建築家が考えてくれているのだから、恐らくその「街」は建築や芸術としてなら正しいのだと思われる。

「自然哲学としての芸術原理」というタイトルを持つ6 名の美術家による「グループ展」である。この「グループ展」が一般的なグループ展と異なるのは、1ヶ月毎に入れ替わる連続個展という形式を取っているところにある。同時にグループ展である事を印象付ける為なのだろう。会場のスペースの2/3程は6名の共同展示(作品持ち寄り)に充てられている。1月の個展は鷲見和紀郎だったが、今月2月は吉川陽一郎となっている。共同展示部分は先月と変わっていない。

プレスリリース文には「芸術制作の原理的な条件を思考する」とある。これを限りなく要約すれば、やはり「私は考えています」という事になるだろう。果たして「自然哲学としての芸術原理」というテーマの下に相集った美術家の一人である吉川陽一郎は何を考えているのか。即ち如何なる原理的な条件を、彼の芸術制作に於いて思考しているのであろうか。そして些か所与的に過ぎるとも感じられるタイトルの「自然」とは一体何か。

正しく建築家の作品である美術館に入る。カウンターで入場料を払い、先月までと同じ松浦寿夫、菊池敏直による作品が数点並んだ短い通路を抜けると、そこからが吉川陽一郎の個展になる。作品数は作者本人によって5点であるとカウントされている。従って出品作は5点とする。

5 点の内、「壁 -1」と「壁 -2」の2点は共同展示としての出品作であり、既に先月から展示されているものだ。「逃げる四角」と「転送器 受用-1」は、昨秋に和光大学構内で開催されたアンデポンタン展に出品された同名の「逃げる四角」を分割して2点となった作品。そして吹き抜け空間に、今月初お目見えの「落堕墮墜」という本展で最も「大きな」作品がある。それらの吉川作品の間に鷲見和紀郎の作品が一点挟まれ、階上のフロアもまた岡?乾二郎、伊藤誠、鷲見和紀郎による共同展示となっている。

恐らく「構成」には"composition"の側面と"construction"の側面があるのだろう。飽くまでも私見であるが、形を作り出す行為そのものが"composition"としての「構成」であり、その"composition"を"organize"する理が"construction"としての「構成=構造」と言える。そしてその"construction"をここで言う「芸術制作の原理的な条件」とするならば、「美術作品の形式と内容との連関関係を、そのもっとも基本的な条件のもとで問い直す(プレスリリース文より)」は、"construction" を主題化したという意味での"formalism"を意味するものだろう。

吉川陽一郎作品はこの"composition" と"construction"との間を常に揺れ動いている。現れた"composition"により重きを置いている作品と、それが出現するに至るまでのプロセスとしての"construction"により重きを置いている作品に大別出来る印象がある。今回の展覧会では「壁 -1」と「転送器 受用-1」が前者の系統に属すると思われる一方で、残りの3点は後者の系統に属していると言えよう。


《落堕墮墜》

例えば「落堕墮墜」の"composition"はこうである。4つの鉛の円錐(コーン)が部屋の四隅の床に置かれている。それぞれの底部に結び付けられた荷造紐が、それぞれ一旦天井近くまで鉛直方向に伸ばされている。3フロア分の高さを持つ吹き抜けの最上部付近の四隅(地上8メートル弱)には、細い荷造紐に似つかわしくない質量を持つ、1センチ程の太さを持つ鋼鉄製丸棒で作られた、直径約20センチ程の大きさの4つの「ヒートン」が壁に埋め込まれ、それらの環に紐が通された後、再びそこから紐が降下していく。4つの鉛製円錐が置かれた部屋の中央地上2メートル強の位置に、マリオネットを操作する十字の木片(Animator)を彷彿とさせる木組みがあり、それが上空から舞い降りてきた紐によって4点支持で吊されている。吊しているその紐は、十字のそれぞれの「枝」の先でグルグル巻きにされ、再び床に向かって降下する。そして物質的な復元力が極めて脆弱な熱収縮テープで「骨接ぎ」された鋼鉄製丸棒に紐が結わえ付けられ、その先に頼りなくその位置を定めるキャスターが付いている。

その"construction"は単純である。基本的に4本の荷造紐がこの全体の"composition"を構成している。それぞれのエレメントの位置は、余りに単純な物理的因果関係の法則性に基づいている。紐というメディアは、確かにそうした因果律を見せるのには都合の良い素材だろう。上の作品記述を逆にすれば、床から持ち上ったキャスターの位置や角度は、2 メートル強の高さにある十字の木組みから下ろされた紐の長さによって決定され、その十字の木組みの位置は遥か上空からのヒートンから下ろされた紐の長さによって決定されるものの、そもそもそれらの懸垂の連鎖自体を成立させているのは、ヒートン経由の紐によって繋がった鉛製のバラストの自重によるものである。従って8メートル弱の高さを持ち、ワイドとディメンションがそれぞれ3メートル強というこの「巨大」な作品は、仮に悪戯心を持つ観客が小学生の使う様なハサミでその細い紐の一本でも切断すれば、たちまち全体の"composition"が崩壊してしまうのである。


《壁-2》

こうした「ピタゴラスイッチ」的とも言える"construction"の因果律は「壁 -2」にも見られ、鋼鉄製の各エレメントを繋ぐのは、またしても脆弱そうな紐とテープである。従ってこれもまた小学生のハサミの餌食に十分になり得る。


《逃げる四角》

「逃げる四角」はこれらとは趣向が若干異なるが、しかし細いグラスファイバー製のロッド12本で構成された高さ3メートル強の六面体は、壁面の一点にパーマセルテープで留められているだけで頼りない事この上無い。その六面体は常にフラフラしていて落ち着かず、従って形は辛うじて物理的バランスが釣り合った状態をその都度見せているのみだ。そしてこの"composition"もまた、軽くペンチの餌食になるだろう。

「自然哲学としての芸術原理」。しかし恐らく吉川陽一郎のこれらの作品は、どこかでそこから捻れている。寧ろそれは「芸術哲学としての自然原理」と言うに相応しいのだと思われる。

彼の「私は考えています」は「私は考えていません」を志向する。(大村益三)


「自然哲学としての芸術原理」展
共同展示: 1月17日(土)-6月21日(日)
連続個展:
第1回 1月17日(土)-2月9日(月)鷲見和紀郎
第2回 2月11日(水)-3月9日(月)吉川陽一郎
第3回 3月12日(水)-4月4日(土)菊池敏直
第4回 4月5日(日)-4月30日(木)松浦寿夫
第5回 5月2日(土)-5月25日(月)伊藤誠
第6回 5月28日(木)-6月21日(日)岡?乾二郎

東京アートミュージアム(有料300円)
http://www.tokyoartmuseum.com

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