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2009 年04月22日
どこかの何とか展

 その展覧会のコンセプトに敬意を表し、またそれをより徹底させるため、ここではその展覧会名を敢えて秘す。言わばどこかの何とか展である。展覧会の企画者はどこかの何某である。恐らくその展覧会は、そのコンセプトに忠実であるならば、アノニマス扱いでなければならない。美術展かどうかの情報すら、本来は隠すべきなのだろう。それこそが、この展覧会の趣旨に賛同して作品を出した作家に対してフェアな態度だ。

 関東地方の某「美術館」で展覧会が開かれている。その「美術館」は非営利であるために、思い切りの良い展覧会が企画できると言われていたりもする。この「展評」サイトにも、その「美術館」で開かれた別の展覧会の展評が存在する。その時の評もまた、その思い切りの良さを評価したものだったと記憶する。今回のこの展覧会も、思い切りが良いという評価が与えられるかもしれない。確かに本展は現状における営利の「美術館」では、実現不可能な展覧会であるとは言える。

 展覧会のDMには企画者側が提出した観客向けの趣旨文が載っている。そこから一部引用する。

 「作品鑑賞の場である展覧会では、作品とともに、タイトルや作者の情報を記載したキャプション(作品解説板)が提示されます。もしキャプションがなかったら、私たちはきっと不安を感じてきたことでしょう。それはいったいどうしてなのでしょう。世界は「実体」とその名づけられた「名前」によって成り立っています。それは私たちの自我と、名前との関係にも重なります。本展は古今東西約400点の作品のキャプション展示を通して「作品」と「キャプション」の関係、そして「実体」と「命名の歴史」について、考えようとするものです。」

 そういう事なのだそうだ。世界は「実体」と「名前」に二分される。まずはこの構図を何も考えずに受け入れよう。受け入れなければ全ては始まらない。

 では実際にそれをどう展示で実現しているのか。

 会場は「美術館」としては狭い。そこに32点の作品が展示されている。本展が一般的な展覧会と異なるとするならば、そこにキャプションが存在しないという一点に尽きる。展示そのものは奇をてらっている訳ではない。極めてコンサバティブに作品が壁に掛かっていたり、床に置かれている。そのいずれもが「油絵」や「彫刻」や「版画」という、これもまた極めてコンサバティブな設えを持つ作品であり、その全てが現存作家の手による物だ。恐らくこの展覧会にはこうしたコンサバティブな作品が必要不可欠なのである。端からそれを無視している作品ではこうはいかない。キャプションの有無が問題になるとされる作品でなければ、この展覧会が意図する物語を紡げないだろう。そこに計算ならぬ計算を見る事は十分に可能だ。それは本展覧会に於けるテクニックの一部なのである。

 「伝統的」な展示では、作品の近傍にキャプションと呼ばれるプレートが設置されているとされているし、実際にそういうケースがほとんどであるとも言える。それは実際には少しも「伝統」でも何でもないのだが、話の信仰上??誤変換??もとい進行上そういう事にしておく。当展覧会の趣旨に沿うならば、観客はキャプションの不在によって不安を感じるのであるし、そうなる事があらかじめ想定されている。

 キャプションがない事で不安を感じる観客。それがこの展覧会のターゲットである。今日、展覧会に限定的なターゲットを想定する事は掛け値無く正しい。展覧会は「全ての人類」相手でなくても一向に構わないのだし、むしろ展覧会に於いて「全ての人類」向けという在り方が不可能である事は、今ではすっかり常識だ。

 ターゲットとしての観客は、展覧会場で数々の美術作品を見る。しかしキャプションが無くても、空白のキャプションパネルが、作品の横に提示されてしまっている。それを含めたパレルゴンの数々は、ほとんど全てが保たれているから、それらが美術作品だとすぐに判る。想定上は、観客はそれらの美術作品にキャプションが存在しない事で、不安感が引き起こされる事になっている。床の上にはランダムに古今東西の画集から抜き出されたキャプションが撒かれている。さてこの作品のキャプションはどれかな、どれじゃないのかな。これもまた想定内の行動だろう。

 会場入口で渡されたパンフレット類を見ると、そこには撒かれたキャプションとは別の人達の名前が書かれている。それによって撒かれたキャプションと展示された作品が全く関係ない事が一瞬で判明する。結局タイトルだけしか判らない。

 会場入口には、どういう訳かこの展覧会自体の「キャプション」が掲げられていて、どこの何という人間がどういう意図でこの展覧会を企画したのかが、これもまたいとも簡単に判明する。結局全体としてみれば手厚い展示であり、観客をことさらに不安に陥れる事はしない。親切の上にも親切であり、その親切に深く感じ入る。

 どんでん返しの情けが身に染みる展覧会である。ツンデレなのだろうか。(大村益三)


どこかの何とか展
2009年の4月頃、某所にて開催

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