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2009年09月04日
アンチノミーとしてのアンガジュマン―羽山まり子の《keep distance》をめぐって

 女子美ガレリア ニケにて羽山まり子の個展「keep distance」が開催された。この展示は、女子美術大学の芸術表象ゼミが中心となって企画されており、作家と批評家の相互交流プロジェクトである「Art Critic Program」(以下、ACP)の過程でなされた羽山の印象深いプレゼンテーションが、今回の企画展の端緒となったようだ。羽山が選出された直接の原因である、ACP参加者に向けて語られた作品テーマ「keep distance」は、本展にもそのまま引き継がれることとなり、ACP所属の松本ももこによれば、「見る-見られる」という関係性が企画の大きな骨子となっている。

 筆者は幸いにも、展示会場での関連イベント「ACP公開トーク」に参加し、車座で行われたトークディスカッションの中で芸術表象ゼミの学生と、羽山の主張を聞くことができたのだが、作品を見る企画者と見られる作家の存在が企画展では必要不可欠である以上、そのテーマが導き出されたのは半ば必然であったように推測される。ACP初の企画展において、企画者と作者がどのような関係性を構築し展示を迎えたかに関しては、本論の目的から逸れるため詳細を追う余裕はないが、羽山の作品の縺れた糸を解く手がかりは、この見る-見られるという主体に注がれる他者の視線をやはり出発点とすべきように思われる。

 かつては旧日本陸軍の施設として、また戦後占領下にあって現在に至るまで米軍基地が散在している羽山が住む街での体験は、作品が生まれる動機としてこれまでも幾度か語られてきた。本展の展示会場入口近くに置かれ、段ボールとビニールシートで粗雑に組み立てられた段ボールハウス《keep distance》(2008)(fig.1)の制作の契機となったのは、金網越しに不意になされた羽山と米軍敷地内の外国人との視線の交錯であった。彼女の実存を脅かすほど深刻な問題を提起することとなった他者の眼差しは、J=P.サルトルがかつて「奴隷状態」と述べたように、「危機にひんしたものとして、癒されがたいものとして」生きることを否応なく私に強制する。他者の視線がもたらすじっとりと纏わりつくような不安を、私たちの誰しもが少なからず経験したことがあるだろうが、この経験が他者への隷属を含意するならば、それは私たち自身と他者の間にある権力関係をもまた無意識のうちに承認してしまっていることになる。




(fig.1) 「keep distance」
ダンボール、ブルーシート 120×180×175(cm)
photo:森みどり

 羽山のプレゼンテーションをACPの参加者たちがあるリアリティをもって聞いたというエピソードは、微視的には私と他者の、巨視的には日本と米国との埋めがたい不平等や格差の存在を、その場にいた多くの者が敏感に察知してしまったからといえるかもしれない。日米安全保障条約を後ろ盾に現在まで正当化され続ける米軍基地を制作の根源的な拠り所とする羽山は、同様に自身の生活を拠り所にしながら、政治的、社会的主題を扱うことで、私たちが決して平等ではないというその社会構造を炙り出そうとしているかのように私には感じられる。そのような意味で、羽山の作品の形態や色彩といった造形性についてこと細かに綴ろうとすればするほど、作品は掌からすり抜けて遠ざかっていくこととなる。

 しかし、一方でまた1960年6月18日に吉村益信のアトリエ、ホワイト・ハウスで狂騒的なハプニング「安保記念イベント」を行ったネオ・ダダらの作家たちとの共通性を、日米安保から導き出そうという行為もまた、羽山の作品への接近を意味しえない。そのような近づき難さとは、作品自体が政治的主題と造形的問題のどちらか一方に還元されえない中間領域に位置しているからだろう。鑑賞者が作品をみて泣いてしまうような感情の発露を期待する羽山の言葉からは、大きな物語を紡ごうとする意思は感じられず、むしろ現代社会でのひたすら空虚な生活を淡々とシミュレートすることに重きがおかれているようだ。今年5月に行われた「ワタラセアートプロジェクト2009 桐生/大間々」において、桐生駅前の商店ビルの空き室を利用したインスタレーション《hole without the exit》(2009)では、中身のない菓子袋が大量に机や床に散乱させられ、本展の《A chain of events - meal handmade settlement》(2009)(fig.2)でも同様に、中身を喪失したコンビニ弁当の容器が無作為に積み重ねられていたが、前者が過食症の女性、後者が衣食住に困難を抱えるホームレスを想起させたとしても、どれ程深刻な社会問題を提示しているかについての思考は否応なく遮断させられてしまう。鑑賞者を思考停止に追いやるどうしようもない軽さ、それは椹木野依がChim↑Pomの広島市内上空でのゲリラ行為で描かれた擬態語を「ペラペラ」と形容し、日本の平和の特異性について論及したように、羽山の作品もまた社会的な問題に焦点を当てることが、かえって日本がもつ平和という奇妙な平坦さを獲得してしまうという帰結を導いている。




(fig.2)「A chain of events - meal handmade settlement」
冷蔵庫、アルバイト先と大学で集めたコンビニ弁当のゴミ、私物のエプロン サイズ可変
photo:森みどり

 ここで私たちは、もう一度見る-見られるという当初の問題に戻ることにしよう。ジル・ドゥルーズはミシェル・フーコーの死の2年後に刊行した『フーコー』において、監獄を例に権力関係を「規律的に」機能するものと見なしたフーコーの主張に改めて賛同しているが、ここでも繰り返されるのは可視性こそが「何らかの管理」を強制するという点だ。それはつまり、監獄とは一見異なる工場、学校、病院と同様、視覚性が何より優先されるギャラリーという空間でさえも、規律的社会として機能してしまう可能性を示唆している。羽山の作品は、空虚な生活を再現=表象するために、意図的に空っぽの状況(無人の段ボールハウス,空のコンビニ弁当の容器、開かれた中身のない冷蔵庫)を空間内に持ち込むが、視覚性に強く依存しながら様々な位相で〈一望監視装置〉化されたホワイト・キューブは、まさしく権力が隅々まで浸潤する規律的社会を再現=表象している。

 では、羽山の志向するアート・アクティヴィズムとは、空間内を規律的社会に変質させるだけに留まらず、政治性、社会性においてある「厚み」をもちえることは可能だろうか。作品に散見されるコンビニ弁当や箸袋に残された食べ物の染みや、壁に掛けられた毎日の食事の調理に使用している私物のエプロンは、空虚な社会とは矛盾する僅かな、しかし確かな生の営みの痕跡だ。例えそれが平和という歪な政治不可能性の淵に立たされたアンチノミーとしてのアンガジュマンだとしても、今羽山に残されている唯一の方法とは、その痕跡に賭けることなのかもしれない。

(森啓輔)

女子美ガレリア ニケ 2009年7月24日(金)~8月7日(金)
http://www.joshibi.ac.jp/tagblocks/museum/news/museumlist/0000001140.html

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